創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

2008-03-01から1ヶ月間の記事一覧

(248)『メリー・ウェルズ物語』(23)

左の絵は、なにをかくそう、サガン原作『悲しみよこんにちは』(新潮文庫)が映画化された時、巨匠ソール・バス(Saul Bass)氏が描いたポスターを、わが盟友・内山正さんが、ぼくの著書『ヴィトン読本』のために模写してくれたイラストである。サガンの小説の…

(247)『メリー・ウェルズ物語』(22)

『ラヴ』が発売されることになっていた年の秋、ぼくはニューヨークに滞在していた。当時、それがきまりみたいになっていた年2回(春・秋)のぼくの休暇のパターンだった。ニューヨークに滞在していても、昼間はDDBやPKL、WRGを訪問取材するだけで、夜は劇場…

(246)『メリー・ウェルズ物語』(21)

]衝撃的だった「不公平な比較]キャンペーンは、そういつまでも続けられるものではない。衝撃力が弱まってくるし、読み手のほうでも飽きてくる。むずかしいのは、次の手である。その一つ---レイアウトでは「不公平な比較」の印象を持続しながら、「公平な比較…

(245)『メリー・ウェルズ物語』(20)

2008年2月25日の当ブログ[故・向井 敏くん、ありがとう]に彼の文章を引いたのは、38年前、DDBやWRGのチョウチンを持つために彼らを紹介したのではなく、当時、米国で起きていた広告クリエイティブの地殻変動を報知するためだったことを分かってもらうため…

(244)『メリー・ウェルズ物語』(19)

WRG社から、創業者の一人---ディック・リッチ氏が去っていったのは、メリーとの会社の規模に対する意見の相違といわれいました。メリーは自然に成長していくものは止めようがないという見解。リッチ氏はある程度の規模で止めておかないと、いい仕事ができな…

(243)『メリー・ウェルズ物語』(18)

創業日の3人。前=ディック・リッチ(コピーライター)、後左=スチュー・グリーン(アートディレクター)。それからみるみる従業員がふえていった。(この章の入力には、アド・エンジニアーズの原田さん(コピーライター)・染川さん(コピーライター)・林さ…

(242)『メリー・ウェルズ物語』(17)

創業14ヶ月目の広告代理店に、いくらビック3の後塵を拝しているとはいえ---米国の産業界を代表する自動車企業アメリカン・モーターズ社がWRGに広告をまかせてみようと決断した勇気には、感心するほかない。その勇気あるA.Mのデトロイトの工場をぼくが見学に…

(241)『メリー・ウェルズ物語』(16)

WRGのオープンは1966年4月4日であった。アメリカン・モーターズから声がかかったのは、1年2ヶ月後である。広告代理店が急成長するためには、プレステージ・アカウントが必須である。広告予算がある程度あって、そのキャンペーンが人びとの目にふれる機会が多…

(240)『メリー・ウェルズ物語』(15)

起業したばかりのウェルズ・リッチ・グリーン(WRG)社は、劇的な成長をつづけていたいた。WRGがつくるキャンペーンは、その意外性で広告界でド肝を抜いたばかりでなく、より多くの一般の人びとの関心を集め、さらにはふつうのマスコミ紙・誌でもとりあげら…

(239)『メリー・ウェルズ物語』(14)

ほんの数年間に発せられたメリーの語録を、喜んで広めたメディアは数多い。広告業界紙・誌はとうぜんとして、一般紙・誌、ビジネス紙・誌にまでおよんでいる。ここには収録できなかったが、テレビ・メディアへの露出も相当の頻度だったろう---メリー自身もテ…

(238)『メリー・ウェルズ物語』(13)

メリーがこのブログで発言していると、「WOWOWOW」を見つけてくださったのは、盟友のatsushiさん。最近の発言ではWRGがやった"I love N.Y."キャンペーンの成功を語っていた。「そうだったのか」とはじめて納得。30数年前にニューヨークを何年ぶりかで訪れた…

(237)『メリー・ウェルズ物語』(12)

これほどの膨大な語録を、42年前の1966年のWRG創業時から5年間、どうやって収集したのか、はっきりとは思いだせない。掲出紙・誌を見て、広告分野のそれは講読していたから、そこからスクラップした。広告分野外の媒体については、3度のWRG訪問時に秘書のグ…

(236)『メリー・ウェルズ物語』(11)

]40年近くも前のメリー・ウェルズについての、もっとも印象的な事柄といったら、実につまらないことだが、「パーソナル・セクレタリー」を置いていたこと。「パーソナル・セクレタリー」その人には会ったことはないが、この『物語』(4)で、ジャック・ティ…

(235)『メリー・ウェルズ物語』(10)

1967年11月最終木曜日の感謝祭の日、メリーはブラニフ・インターナショナル航空の社長ハーディング・ロレンスと再婚した。プライバシーに触れるようだが公表されたことなので---その時、新婦メリーは39歳であった。それから41年を経過した今年---メリーは復…

(234)『メリー・ウェルズ物語』(9)

本稿は40年ほど前に某会員誌に連載したもの。これほどの能才と美貌を遠慮なく発揮する女性コピーライターは、しばらくは現われまいと思い、注目し、データを集め、WRG社を3回も訪問した。連載は、幸い、日本経済新聞社から本になった。「女性の時代」到来の…

(233)『メリー・ウェルズ物語』(8)

第11章 メリー・ウェルズ語録「メリー・ウェルズは広告の革新者だったか?」「彼女のやり方は正しかったか?」---つねに疑問をもちながら、当時、あちこちで吐かれた発言を集めて吟味した。創造性のヒントがあれば、汲み取っていただきたい。なにしろ、40年…

(232)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(7)

第3章 「豊かで新鮮な泉」--- 退屈させない空港ロビー 大きな成果があがったといっても、オン・タイム運動などというものは、所詮は運輸サービス企業としては当然そうあるべきはずのものである。プラニフのゲデス宣伝部長もそこのところは十分に心得ていて、…

(231)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(6)

第3章 「豊かで新鮮な泉」 伸びた売り上げ 航空会社の経営成績を判断するにはどんな数字を並べるべきなのか、ぼくは知らない。単純に考えて、乗客数がふえて空席が少なくなることと、総売り上げがふえることと、純益がふえていることで判断していいのではあ…

(230)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(5)

第3章 「豊かで新鮮な泉」--- 商品に魅力を与えよ ブラニフ・インターナショナル航空のスチュワーデスにサイケ模様のタイツをはかせたメリー・ウェルズは、そのことがニュースになると考えた。 彼女の予想は当たった。 人びとはふたたびブラニフの思いきった演…

(229)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(4)

第2章 積み木とジェット機--- 1966年4月、ゴーサム・ホテル---。 マンハッタンの中心---五番街に面したゴーサム・ホテルの4部屋に「ウェルズ・リッチ・グリーン(WRG)広告代理店」という標札がかかった。 この代理店は、その社名が示すように3人の共同設立…

(228)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(3)

第2章 積み木とジェット機--- 49%増えた乗客 要するにメリーは、それまでの各航空会社が空の旅の安全性を強調しすぎるあまりに、旅の楽しさを犠牲にしていた逆をいったのである。 「当事者が広告で安全をいえばいうほど、客はかえって恐怖を感じるものです…

(227)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(2)

第2章 積み木とジェット機--- プッチの助言 メリーは秘書のグレイスに、エミリオ・プッチを呼ぶように命じた。プッチは、イタリア貴族出のファッション・デザイナーである。 プッチが現われると、メリーは自分の考えを早口で話しはじめた。 「ねえ。機内でス…

(226)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(1)

第2章 積み木とジェット機--- アカプルコでの秘密デート 1966年4月1日、金曜日----。 金曜日というのは、米国の広告界で働く人間にとっては嫌な朝であるとともに、ホッとできる夜でもある。 「キミは来週から出社におよばない」と通告されるのも金曜日なら、…

(225)チャールズ・モス氏とのインタヴュー(了)

Mr. Charles Moss Wells Rich Greene 社 副社長兼クリエイティブ・ディレクター(当時) メリー・ウェルズさんは、チャールズ・モス氏の人柄を語って「チャーリーは私にすごく影響を与えた人です。彼は非常にユニークな人間です。私見では、彼は今日の私たち…

An Interview with Mr. Charles Moss (3)

Mr. Charles Moss Wells Rich Greene Inc. Vice President and Creative Director(at the time) chuukyuu You have been working for first rate agencies such as DDB, Jack Tinker and Wells, Rich, Greene. Do you think whether a copywriter can fully …

(225)チャールズ・モス氏とのインタヴュー(3)

Mr. Charles Moss Wells Rich Greene 社 副社長兼クリエイティブ・ディレクター(当時) 楽屋内をさらすと、このインタヴュー・シリーズを『ブレーン』誌に連載中、渡米しての取材は、コストの関係で1度に6〜8人をこなしました。だから、テープ起こしをした…

(224)チャールス・モス氏とのインタヴュー(2)

Mr. Charles Moss Wells Rich Greene 社 副社長兼クリエイティブ・ディレクター(当時) 何十人もの米国のクリエイターたちをインタヴューしたが、この人ほど、正直に、誇張することのない言葉で答えた人はいなかった。ほんとうに自分の言葉を持っている人だ…

An Interview with Mr. Charles Moss (2)

Mr. Charles Moss Wells Rich Greene Inc. Vice President and Creative Director(at the time) chuukyuu Did you move to Jack Tinker from ? Could you tell us why you went to Jack Tinker? What accounts did you handle at Jack Tinker? Mr. Moss Why …

(223)チャールズ・モス氏とのインタヴュー(1)

Mr. Charles Moss Wells Rich Greene 社 副社長兼クリエイティブ・ディレクター(当時) 彼がつくったブラニフ航空やアメリカン・モ一タ一スのコマーシャルのことは、日本のほとんどの広告関係者が知っているのに、モス自身のこととなると、ぜんぜん紹介され…

An Interview with Mr. Charles Moss (1)

Wells Rich Greene Inc. Vice President and Creative Director(at the time) chuukyuu We have heard that you were one time with Doyle Dane Bernbach. When and how long were you with DDB? What accounts did. you write forthere? Mr. Moss Yes, I wa…