創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(231)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(6)

第3章 「豊かで新鮮な泉」

伸びた売り上げ


航空会社の経営成績を判断するにはどんな数字を並べるべきなのか、ぼくは知らない。単純に考えて、乗客数がふえて空席が少なくなることと、総売り上げがふえることと、純益がふえていることで判断していいのではあるまいか?
あるいは従業員一人あたりの売り上げ額の増加とか、所有機数の伸びとか、営業路線キロ数などまで並べるべきなのであろうか?
メリー・ウェルズのアイデアを採用したブラニフ・インターナショナル航空の各種の数字を前にして、いまぼくは考えこんでしまっている。
単純に総売り上げを並べるだけなら簡単である(注・国内線のみ)

1960年   75,751   (100%)
1961年   77,705   (102%)
1962年   84,112   (111%)
1963年   87,484   (116%)
1964年   96,049   (127%)
1965年  112,391   (148%)
1966年  149,049   (197%)
1967年  167,510   (221%)
1968年  190,213   (251%)
      (単位:1000ドル)


ということで、メリーが関係した1965年度から目にみえて伸びている。
とくに1966年の伸び率はロレンス社長の自慢どおりで、7色のパステル・カラーの機体のアイデアは大成功だった。
しかし、同時期に国内競争線各社はどうであったかというと、各社とも国内営業部門では、ここ10年間のうちに3倍半の伸びを示しており、ブラニフは中位グループに属している。
しかも、プラニフと同程度の規模のコンチネンタル航空、ナショナル航空、ノースイースト航空、ウェスタン航空と比べるとブラニフの国内線での遅れが目立つ。
もちろんブラニフには国内線のほかに中南米路線を主力とする国際線があり、この分野では前記4社を引く離している。
しかし、国際線部門が経営的にも引きあってきたのは1965〜6年からであり、だからこそハーディング・ロレンス社長が経営刷新のためにスカウトされたのであるし、その彼が起死回生策の一つとしてメリーのアイデアの全面採用にふみきったのであろう。
こんどは、国内線・国際線の両部門の税引後の利益を見てみよう。

  国内線 国際線
1960年    1,147    △427 
1961年    1,968    △693 
1962年    3,787   △1,358 
1963年    2,366   △1,107 
1964年    6,008     △37 
1965年    9,238     217 
1966年   16,758    1,058 
1967年   △3,048    7,750 
1968年    1,656    8,758 
      (単位:1000ドル △赤字) 


ということで、1966年にはずば抜けた利益を計上している。それがメリーのプロモーショナルなアイデアによる結果のみといいきることはできないとしても、ロレンス社長の得意、メリーの自信のほどが想像できる。
1967年と68年の国内線の成績が落ちこんでいるのは、ブラニフ航空のゲデス宣伝部長の説明によると、第2期刷新のために各種の投資が行われたからである。空港ロビーや手荷物受取所の改造がそれである。それがどんな改造であったかは、後ほど紹介する。

時はカネなり---15分が1ドル


1969年の10月のある日、ぼくはテキサスのダラス空港に降り、ブラニフ・インターナショナルのゲデス宣伝部長の出迎えを受けて、その足で同航空のスチュワーデス・カレッジ(養成所)へ向かった。


ゲデス部長「さっきお乗りになってきたわがブラニフ・インターナショナルのジェット機で、何か変わった点にお気づきになりましたか?」
chuukyuu「ジェット機の機体の色は水色でしたが---」
ゲデス部長「機体の色ではなく、客室のほうで---」
chuukyuu「機内----といえば時計?」
ゲデス部長「そうです。あの時計は昨年のオン・タイム運動の名残りなのです」
機内のファースト・クラスとエコノミー・クラスの境界の左壁面に、どの客席からもはっきりと現在時刻がわかるほどの大きさの壁時計がかかっていた。
便が予定より15分以上おくれると、15分をすぎたところでベルが鳴るようになっているという。
ぼくがたまたま乗った便はシカゴで出発が1時間も遅れたのでベルは鳴らなかったが、イライラしながら何度もその壁時計に目をやったので、記憶に残っていた。
もちろん、他の航空会社のジェット機にそんな時計は装備していない。
ブラニフが1967年にやった「オン・タイム運動」を日本風にいえば「時刻表どおりの発着厳守」運動である。
ブラニフはこの運動展開以前は、11の大航空会社中、正確さの点では10位だった。
社内運動としてオン・タイムを従業員に呼びかけたが、1年やって9位を確保したにすぎなかった。
メリーの言葉によると、その頃、ダラスあたりのカクテル・パーティでは、「ブラニフ航空って世界最大の不定期航空だそうだね」といった質の悪い冗談が交わされていたという。
彼女からの訴えを聞かされて頭にきたロレンス社長は、1968年に入るや、毎朝8時半から早朝会議を開いて前日の遅延の原因とその対策を討議することにした。
社の最高首脳部が率先してやる気になると、結果として出てきたものは、

1967年の正確率  73.5%
1968年5月の正確率  92.0%


という数字で、順位も4位まであがった。
こうしたサービスの向上に気をよくしたブラニフは、社内運動でしかなかったオン・タイム運動を、メリーのすすめに従って一般向け広告キャンペーンに切りかえることにした。
1ドル銀貨そっくりの大きさのプラスチック製で、片面に「時はカネなり」、もう片面には「このチップと引きかえに1ドル払い戻します」旨を浮き彫りにしたペナルティ・チップを50万枚用意した。
そして、飛行機が15分以上遅延したらこのチップを全乗客へ渡したのである。
15分というのは、米国民間航空局の規定によって遅延とみなされる時間である。
チップと1ドルの交換有効期間は3ヶ月以内。この趣旨は広告で公約された。
全従業員の奮起と努力によって、ブラニフの遅延は大幅に減り、結局現実に乗客に手渡されたペナルティ・チップは22万枚ですみ、交換期間内に現金化されたのは55%の11万6,000ドルにすぎなかった。
多くの客が「おれはブラニフ航空に1ドルの貸しがあるんだぜ」といった自慢話のタネにしたか、ポケットの隅に忘れたままになったか、子どもの銀行ごっこに使われたか、ポーカー・チップに代用されたか、50年後の記念すべきチップとしての骨董的価値を期待してしまいこまれたか---。
この55%という交換率は、メリーにとっても嬉しい誤算であった。そしてブラニフは1968年には正確さで第1位の航空会社になっていた。
もはや、ブラニフのことを「世界最大の不定期航空」と呼んでメリーに不愉快な思いをさせるパーティの客はいなくなった。


続く >>


【chuukyuu注】米国の1ドル銀貨を実際に見たのは、40年前からの10回以上の訪米中、ピッツバーグ郊外のヨーコムさん(アート・ディレクター)の家で、子どもが宝物にしているのを見せられたきり。手に入ったら貴重品扱いと。だから、ブラニフの1ドル銀貨大チップは、懐かしがられた趣きもある。


次の旅行地


アンデス山脈の二つの大きな山頂にはさまれ、けわしく、まるで威嚇するように口を開く奈落の底の先端に、バランスよくインカ帝国の朽ち果てた城や、寺院が横たわるのです。
マテュ・ピッチュー。
幾世紀もの間、鬱蒼と茂るジャングルに覆い隠されていたマテュ・ピッチューが明らかとなりました。
ところが、原住民たちは、古代の神々がいまもなお存在し、彼の回りであざけりささやき合っていると、誓って言うのです。
この降された帝国の要求を満たした、この神々にだけつくしたインカのしとやかな女性についてささやき合うのです。
あざけり笑い待っているのです。
旅行経験の豊富なある米国人がかつてこう言いました。 「こんな気持、ほかでは味わったことがありません。マテュ・ピッチューから世界中が見渡せるのです」と。
マテュ・ピッチューのホテルのそばには、昔メッセージをもってインカ人の飛脚が通った小路が走っています。
その小路は、マテュ・ピッチューよりももっと風景のよい、失われた町に通じていると人はいいます。
そしてインカの人びとは、征服者から彼らの宝物を守るためにここに隠したといわれる、
今は忘れられた湖に通じています。




The next place.


Locked between two massive peaks of the Andes, and balanced at the edge of a sheer, menacing abyss, lie the ruined palaces and temples of an Incan city.
Machu Picchu.
The jungle growths that obscured Machu Picchu for centuries have been cleared away.
But the natives swear the ancient gods still linger,laughing and whispering among themselves.
Whispering of the graceful Incan maidens who filled this hidden city, who served only them.
Laughing, and waiting.
A well-traveled American once said: "I never felt anything like it. From Machu Picchu, you can see the whole 'world:'
Near the hotel at Machu Picchu are trails along which Incan runners once carried messages.
They lead, it is said, to lost cities even more spectacular than Machu Picchu.... .
And to forgotten fakes, where the Incas hid their treasures from the Conquistadors.
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