創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

一周忌

西尾忠久が亡くなって、1年が経ちました。


月並みですが、あっという間の1年でした。
しかし、この1年の間に直接お会いした方々、知り合い・友人から間接的に、またインターネット上で、様々な方から西尾さん(今日はこの呼び方にさせてください)のお話を伺うことができました。
自分の話は語ることが少なかったので、始めて伺うお話も多く、新たに気付くことの多いお話ばかりでした。


先日、とある方と「西尾忠久とはなんだったのか?」という話をしていたのですが、私は「誠実な批評家であり、教育者であった」そして「『人』の思考にとても興味を持っていた」と思う、というような話をしました。


学生時代、谷沢永一氏や開高健氏らと同人誌『えんぴつ』の合評会でメンバーの書いた詩や評論文について、「打てば響く反射神経では誰も太刀打ちできない、陽気で執拗な論客」として「容赦なく無残に切りきざ」んだと谷沢氏が西尾さんのことを述懐しています(『回想 開高 健』谷沢 栄一 新潮社 1992年)。学生時代に評価、評論するということを鍛えてきたのだと思います。


文案家、コピーライター時代も広告を勉強するためにアメリカの雑誌を古本屋から大量に購入してきて、スクラッピング、分類、分析していきました。その後、その作品を作っているクリエイターや組織がどのような思考を持っているのかに興味を持ち、最終的にその人たちはどのような生活習慣、文化を持っているのかまで興味を持ちます。そこまでしないと、その人から生まれてきた作品を理解できないと考えたからでしょう。
最初は自らの勉強のためでしたが、コピーライターという職種の社会的地位向上に力を注いでいたことは、当時の雑誌や書籍を読むと強く伝わってきます。会社を超えて仲間たちと東京コピーライターズクラブを作ったのもその一つです。その後、後輩ライターたちの教育へ力を注いでいきました。


世界の一流品を調査していた時期も、工房を訪れ、そこで働く人と直接会い取材をしています。ミステリー小説にはまりこんだことについて本人は、お金と時間を無駄にしてしまったと言っていましたが、やっていたことは社会言語学のアプローチだったと思います。10年かけて27万レコード貯めたデータは、今で言うとビッグデータからその商品名や地名がどのような使われ方をしているのかを調査する、感情評価のようなものでした。
晩年力を注いでいた鬼平犯科帳研究についても、史実に基づいた調査・研究で、その研究対象は「人」が多かったのではないかと思います。江戸時代という特殊な時代に「人」の行動から逆算していき、様々な資料からその周辺の組織に何が起こっていたのかをあぶり出すという、研究していました。(ほとんど私は理解できていませんでしたが。)


それぞれの時代の興味対象は変わっても、人が作るものを評価、分析し、それを誰かに伝えるということをしていました。
・・・とはいうものの、正しくは掴みきれていないのが本当のところです。
新聞などでは「コピーライターの草分け」という紹介をされていましたが、それだけでは説明し切れないと、昨年の10月に行った『西尾忠久を偲ぶ会』の展示をまとめているときに思いました。


展示を行うときに考えたのは、参加してくださる方々は、広告、ミステリー小説研究、一流品、鬼平犯科帳研究など様々なことをやってきた西尾さんとどこかのタイミングで会われているので、ほかの面も知っていただきたいということでした。便宜的に「幼少期」「広告」「世界の有名品」「ミステリー小説」「鬼平犯科帳」という分類にしました。
ご遺族や、アド・エンジニアーズの諸先輩方、ご友人の方々を中心にいろいろな資料をお借りしたり、お話を伺ったりしましたが、その膨大な量を前に、事実関係を並べることしかできませんでした。


これからも、西尾さんと関わった色々な方からお話を伺いたいと思っています。
何か別のものが見えてくるかもしれません。
みなさんの西尾評もぜひ聞かせていただきたいです。


次回からジャマイカの広告シリーズを続けます。


転法輪 篤