創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(234)『メリー・ウェルズ物語』(9)

本稿は40年ほど前に某会員誌に連載したもの。これほどの能才と美貌を遠慮なく発揮する女性コピーライターは、しばらくは現われまいと思い、注目し、データを集め、WRG社を3回も訪問した。連載は、幸い、日本経済新聞社から本になった。「女性の時代」到来の魁けの一つとおもわれたのであろう。が、いつもの自著の例にもれず、何10年か早すぎた。(入力には、アド・エンジニアーズの4人の若い女性---コピーライターのF.祐子さん、A.薫さん、およびプロデューサーのS.真衣さん、T.恵美子さんのご協力を得た。アクセサーの皆さんに代わって改めて謝辞を---)

第11章 メリー・ウェルズ語録(その2)

▼男性用トイレとメモ


「私は、どのクラブ、どの協会にも属していませんし属そうとおもったこともありません。忙しすぎましたから」 (「AA」1964.4.16)
この言葉はメリーの性格の強さを示すと同時に、自尊心の強さもうかがわせる。
実際、彼女は広告業界のほとんどの公式集会にも姿を見せず、それでいてつねに噂の中心になっていることを望む。「忙しすぎた」というのは単なる口実としか思えない。
「私のリクレーションは、スキーをすることと、太陽の下で横になることだけです」 (「AA」1971.4.5)
このほかに、晴れがましいパーティに出る趣味がある。
もちろん、パーティ出席はアメリカの社交生活の必須条件だから、リクレーションではなくて社会生活の1つといえるかもしれない。
趣味といえば、メリーには妙な趣味があって、
「私は男性用トイレに入ることを許されています。私は男性用トイレのほうが好きなのです。女性用トイレは、きれいすぎますもの」 (「ヘラルド・トリビューン」前出)
彼女のこの発言をどう解釈したものか、ぼくはしばらく迷った。
たいした意味はないと思うが、倒錯心理学的見地からみるとあるいは何かの意味が付せるのかもしれない。たとえば、男性征服願望……とかなんとか??
しかし、彼女は女性広告人であること、妻そして母であることに大いに感激しているのだから、それもおかしな話だ。
もう一つの彼女の癖は、
「私は、いつでも『苦情リスト』を持って歩いていて、タクシーの中でも飛行機の中でも、家の中でもオフィスでもいつも参考にしています。私はそれぞれの問題がリストから消えるまで、みんなにガミガミ言いつづけます。生き残って行くには、それしかないのです」 (「AA」1968.7.1)
この件に関して、メリーは自分のことを「小言幸兵衛」と評している。「駄馬」とも自称している。従業員にガミガミ言うとともに自分に対してもムチ打っているのであろう。
こういうタイプの人間は得てしてストイックな精神の持ち主であるととともに、問題意識が旺盛な人物である。一方、問題意識が過剰すぎることと自分に水準を置いた時には危険である。WRGが危機を迎えるとしたら、メリーのこの性格が過度に現れた時ではないであろうか?
もっとも、メリーは何より「イエスマン」が嫌いで、WRGの幹部の一人は「メリーと論争する以上に悪いことは、論争しないことです」と言っている。
そうはいってもメリーと論争して勝てるという保証はあまりない。それが幾人かのタレントをWRGから去らせた一因であろうか。

▼人生の師と友

夫ハーディングがメリーに与えた影響についてすでにご紹介した。
彼以外にメリーに影響を与えた人物というと、
「ビル・バーンバックは私の人生にたいへん影響をもたらしました」 (「AA」1971.4.5)
ビル・バックバーン(写真)はDDBの創業者である。
メリーがDDBで働いていた1957年から7年間、彼女に広告で一番大切なものを教えた。---それは「正直な広告」ということと、「クリエーティブ畑の人間を大切に扱う」ということである。
メリーはバーンバックさんは、広告の仕事に従事する人々の姿勢をクリエーティブな方向に変えたということで、最高の栄誉を受けてしかるべき人だと私は思います。あの人はクリエーティブな人びとが広告の力となることを認識し、それらの人びとに対して尊敬の念を持って接し、大切にし、その結果、彼らは花を咲かせたのです」 (「AA」同)と言っている。
メリーのバーンバック礼賛にもかかわらず、バーンバックのほうはDDBを出てからのメリーの数々の不用意な発言その他によって、メリーを許してはいないようなのも気になる点である。
というのは、ビル・バーンバックは広告人養成の名手といわれ、これまでに数多くのすぐれた広告クリエーターをDDBから広告界へ放出しており、出ていった人たちがそれぞれ自分の代理店を作った時のオープニング・パーティーに出席して彼らの行為を暗黙のうちに許しているが、メリーがWRGを創立したときのパーティーにはついに姿を見せなかったという。
メリーがDDBを去ってからすでに7年の歳月が流れている。
しかもメリーは立派に成功した。
彼女のほうは冷静にDDB時代を振りかえって「私はDDBで仕事を愛するということを知りました」 (同)と感謝の言葉を述べているのだが……。
また、DDBの設立者の一人であるネッド・ドイル(写真)について、
「ネッドは、問題を率直に見つめ、自分の解釈をうち立て、それを利用することも教えてくれました」 (同)と告白しているとともに、「彼は偉大な英雄なのにあまりうたわれない一人だと思います。とても正直で、まったく現実的なビジネスマンです。また彼は、DDBの発展途上で得られる限りのバックボーンを必要としていた時、ものすごい勇気を持っていました」とさえ賞賛している。
それでもメリーはDDBから許されない。
この事実は人生における出所進退の大切さを示しているといえよう。
「ネッドは私に、仕事をやっていく最上の方法は負けをとらないことであると教えてくれた最初の人であるとも思います」 (同)
一時期をともに働いたジャック・ティンカー(写真 ジャック・ティンカー&パートナーズ代理店の社長)については「生涯における偉大な友人の一人」と呼び「互いによく理解しあっていた」と認めて、「彼は経験をたくさん積んでいましたし、私は彼が好きでした」(同)と、広告業における経験の重要さについて言及している。
経験が鋭いカンと早い決断をうながすのはどの世界でも同じであろうが、つねに未知の分野に挑戦しなければならない広告業においては文字どおり「経験こそわが師」だといえる。
しかし、メリーが口をきわめて賞めているのはWRGのクリエーティブ・ディレクター(注:のち社長)のチャールズ・モス(右下の写真)で、
「チャーリーは私にすごく影響を与えた人です。彼は非常にユニークな人間です。私の意見では、彼は今日の私たちの業界におけるただ一人の最も才能あるクリエーティブな人間です。私は心からこのことを信じています」 (同)
どんな影響を彼女に与えたか、彼女の言葉からさぐってみると、「彼はまったく非戦闘的な人間です。たとえばクリエーティブ・ディレクターとしての彼は、自分ならこうできるという観点から問題や他人の仕事を眺めません。
彼はすべての人が自力で問題を解決できる限り自分の方法でやってくれることを心から望んでいます」
つまり、チャーリーはメリーにない真の教育的な人格を持っているということである。
「私がひどい絶望に陥ったり、ことがうまく運ばなかったりした時など、彼はしばしば私の安堵となってくれました。彼は並外れた人間であり、非常にわけのわかった人です。そして彼は正直なので、みんな彼に相談に行きます。彼は物事をとてもはっきりした正直な方法で見ます。彼は自分で信じられないことは決して口にしません」 (同)
彼女は「ごう慢な人間は他人の意見に耳を傾けません。他人を認めません」とWRG創立時のパートナーの一人であり、のちに意見の相違で辞めていったディック・リッチ(写真)を暗に非難したような発言もしている。
ディックに比べてのチャーリーの柔軟さがメリーの救いになっているのかもしれない。
しかし、なんといってもメリーに決定的な影響を与えた人物は、彼女の母バイオレット・バーグだろう。
一人っ子の彼女に5歳のときから発声法、ダンス、音楽の勉強からドラムの練習まで強制し、15年近くも演劇をつづけさせた母親に向かってメリーがしばしば言った。
「あなたが私にそうなってほしいと望んだから私は成功しました」 (「ニューズウィーク」前出)
という言葉ほど強烈で決定的なものはない。



評論風ドキュメントのため、敬称は省略。
続く >>

DDB時代のメリー・ウェルズがコピー・スーパバイズしたフランス政府観光局のキャンペーンの1例

「フランスを見た」といえるのは、パリからニースへの道を鑑賞してから。


1.真の旅行好きを狂喜させる、まだ踏みあらされていないフランスを見つけたいなら、パリを卒業することです。地方都市を通り抜け、静かで、優雅な道路を行きましょう。 2. アンボワーズでは、フランソワI世時代のおとぎ話に出てくるよなすばらしい古城ホテルに泊まって王の威厳を追体験できます。 3. Feurs。すばらしいリヨン風レストラン〔Ie Chapeau Rouge〕はこの村にあります。名代を注文し忘れないでくださいよ: 新鮮なオレンジジュースでつくったデリケートなオレンジ・パイを。4. アヴィニョンではポープ広場。中世からそっくり伝わっているみごとなフェスティヴァルを観ながら散策。 5. アルルではローマ風闘牛場でユニークなフランスの闘牛を。 6. アルルからのリヴィエラへ、そしてニースへの海ぞいの道路も興奮に満ちています。 ここ、地中海沿岸であなたはフランスを発見し、パリとニースの間で、旅の通だけが観るフランスを堪能することができます。




Take the connoisseur's road from Paris to Nice and Know France.


1.Beyond Paris you'll find the untrampled Franee that delights real travelers. Take the quiet, gentle road through the provincial towns. 2. Stop at Amboise where in a storybook castl you'll relive the great majesty of Francois I's day. 3. Go to Feurs, a village with a great Lyonnaise retaurant, Ie Chapeau Rouge. Don't miss the specialty: a delicate orange pie oozing with fresh orange juice.
4. Amble on o Avignon for the farnous drama reslival in the Pope's Palace, amedieval mastecpiece. 5. And to Arles for the unique French bullfight in a Roman arena. 6. FromArlesit'sa a hop to the Riviera and the exciting coast road to Nioce. Here, on the shores of the Mediterranean, you can contemplate the wonders France, the real France between Paris and Nic thal ooly a eoonnoiseur ever sees.


フランス政府観光局のキャンペーンのほかの例は、
レオン・メドウ氏とのインタヴュー (6) (7) (8) (了) 
この中の数点がメリーのコピー。