創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(242)『メリー・ウェルズ物語』(17)

創業14ヶ月目の広告代理店に、いくらビック3の後塵を拝しているとはいえ---米国の産業界を代表する自動車企業アメリカン・モーターズ社がWRGに広告をまかせてみようと決断した勇気には、感心するほかない。その勇気あるA.Mのデトロイトの工場をぼくが見学に行ったのは1969年10月だった。その2年前にスウェーデン・ヨーテボイのボルボの工場を取材したし、日本デザインセンターに在勤中はトヨタ担当のコピーチーフとしてその工場も見学していた。A.Mの工場で感じたのは、WRGのキャンペーンによって蘇生しつつある活気であった。広告は生産の現場まで奮い立たせる。 (この章の入力には、アド・エンジニアーズの安田さん(コピーライター)・浅利さん(コピーライター)・桑島さん(デザイナー)・小林さん(プロデューサー)のお力を借りています。感謝)

第6章 もっとセクシーな車を・・・(3)

▼米国と自動車

米国の自動車産業の怪物ぶりを示す数字を三輪晴治さん『アメリカの自動車』(日経新書)からひろってご紹介しよう。
米国の自動車は同国の鉄鋼の22.4%以上、薄鋼板の46.9%、亜鉛の50%、合成ゴムの60%、板ガラスの70%を消費しているそうである。---つまり1,234万人(1965年)の人びと---が直接自動車で食っているという。
1965年の米国の自動車に関する税金---自動車物品税、免許料、登録税、ガソリン税等---は実に128億ドル(約4兆6,000億円)にのぼり、アメリカ全租税収入の55%以上にたっしているとも。
これらの数字からもわかるように、米国の自動車産業は米国経済の骨格であるといってもよい。
広告の側からいうと、1967年を例にとると、米国の上位広告主125社の広告費合計は45億4,000万ドル(1兆6,344億円)であったが、そのうちGM、フォード、クライスラーフォルクスワーゲンアメリカン・モーターズの5社で約10%以上を占めていた。
またGMは1億8,400万ドルの広告費を使って全米で2番目の大広告主にランクされている(ちなみに1位はプロクター&ギャンブルの2億8,000万ドル)。
さらにGMの広告を扱っている広告代理店は、

ビュイック部門……マッキャン・エリクソン社(全米で7位)
・ キャデラック部、ポンティアック部門……マクマナス・ジョン・アダムス社(19位)
・ シボレー部門……キャンベル、エワルド社(20位)
オールズモビル部門……D・P・ブラザー社(不明)

の乗用車部門のほかに、トラック部門とか各種部品のために7社の広告代理店が関係している。
中でも右にあげたマクマナマス・ジョン・アダムス社とかD・P・ブラザース社などはGMでもっているような代理店である。
とくに前者は、55年前に社名になっているマクナマスがキャデラックの広告を書いて以来、ずっとキャデラックのために活躍してきた。
似たような神話がクライスラーにもある。
1931年に31歳になったばかりのスターリング・ゲッチェルという男が、誕生して3年目のプリムスのために「3つとも見てください」というキャッチ・フレーズを考えだし、クライスラー社長を広告写真に使って大成功を収め、以後プリムスの広告の扱いを一手ににぎった。
「3つとも……」の意味はその当時の人気車であったフォードとシボレーそしてプリムスのことである(もっとも、現在のクライスラーの広告はヤング&ルビカム(2位)とBBDO(3位)が主として扱っている)。
いずれにしても、自動車の広告を扱っているということは広告代理店にとってたいへんなプレステージになるわけで、たとえそれがビッグ3に大きく差をつけられているアメリカン・モーターズであったとしても、創業して14ヶ月しかたっていないウェルズ・リッチ・グリーン社にしてみれば大成功であった。
(注---広告代理店の順位は当時)

▼ 栄光か、汚名か

いや大成功といえたかどうか……。
むしろ大冒険、あるいは大いなる賭けであったというべきであろう。
というのは、アメリカン・モーターズはここ5年間というもの、売り上げは下がりっぱなしで、1966年はその谷底にあったからである。
その年は、6,000万ドル(21億6,000万円)以上もの赤字を計上していた。
原因はいろいろあろうが、最も大きいものの一つに時代の好みを無視したデザインの車を発表しつづけたことがある。
大衆の好みが、鼻の長いスタイルの車に集まっていたのに、アメリカン・モーターズはコンパクトカーの先駆者という虚名にこだわりすぎた。
多くのディーラーが同社に見切りをつけてフォードやGMの系列にくらがえした。
もし、その状態が逆転するかあるいは下げとどまるかしなければ破滅……というところまで追いつめられていた。
だから、メリー・ウェルズが起死回生の逆転ホーマー的アイデアをださないかぎり、誕生したばかりのウェルズ・リッチ・グリーン社は「船が沈んでしまったのに舵をとっていた」という汚名を浴びせられることは間違いなかったといえる。
しかもメリーはつね日ごろ、
「下り坂で競争商品との差異が認められない商品こそ、私たちが扱いたいものです」
と公言してはばからなかったのだから、マジソン街の人びとは彼女のお手並みやいかに? と見守っていた。
1967年という年は860万台という自動車産業市場で3番目の記録をうち立てた年であるにもかかわらず、デトロイトの自動車関係者は「われわれはこの先、1967年を微笑でふりかえることはないだろう」と告白した年だった。
というのは、練達のデトロイトマーケティングマンの予想を裏切ってスポーティカーが人気の中心になったからである。
つまり大衆の好みが変わりはじめたのである。
人びとはフォードのムスタングやクーガを話題にし、ビュイックリヴィエラに関心を示した。
大衆の好みが変わる時、マーケットは把握しがたい沼と化す。
それと同時に、1960年にヨーロッパからの輸入車を駆逐するために設計されたデトロイト製コンパクトカーの市場も、またもやフォルクスワーゲンスウェーデンの頑丈な車ボルボ、日本のトヨタ、日産、奇跡のカムバックをなしとげたルノーによって巻きかえされていた(ちなみにこの年、かぶと虫は31万4,343台、ボルボは3万4,392台、ルノーは2万200台売れた)。
コンパクトカーのメーカーとして出発したはずのアメリカン・モーターズは、ランブラーをあきらめるような誤ちをおかしてしまったのである。
アメリカン・モーターズの不幸が大型車を志向した点にあったことは、だれの目にもはっきりしていた。


続く >>


第6章 もっとセクシーな車を・・・(1) (2)

DDBが創ったVWビートルの広告

[:W400]

車のジャングルで猛獣、猛禽たちに囲まれていたのはビートルだけではなく、A.Mの車たちもそうだった。この広告をあるSNSの車好きのコミュにあげて、猛獣たちの名前を想起してもらったが---。
訳文
車ジャングルで、小さなカブト虫はどうやって生きながらえているのでしょう?


目立たないからです。
ガソリン・スタンにもめったに姿を現しません。そんなにガソリンを必要としないのです(1ℓで平均11.5km走ります)。タイヤ交換もあまり必要ありません(1組で約64,000kmもちます)。
それに、水のそばには決して近づきません(フォルクスワーゲンのエンジンは水冷式ではなく空冷式ですから、不凍液も要りません)。
ご存じのように、カブト虫の世話や食費のための出費は、たいしたものではありません。
だから、獰猛なジャングルの動物ではありませんが、家庭用のペットとしては理想的です。
これが1949年に米国へやってきた小さな2匹のカブト虫が200万匹にも増えた理由です。




お遊び。
以下のジャングルの動物たちの所属会社名は?
(なるべく多くの車通に参加していただくために、お1人さま1匹に限定)。
上中央から時計まわり---


1.フォーク(わし)
2.ファルコン(たか) フォード chuukyuu 
3.クーガ(ひょう)
4.ワイルド・キャット(やまねこ) ビュイック chuukyuu
5.バラクダ(大カマス)--- Plymouth peter さん
6.スティングレイ(あかえい) コルベア semiさん
7.マーリン(まかじき) アメリカン・モーターズchuukyuu
8.マリブ、インパーラ(かもしか)-シボレー 草ジイさん
9.ムスタング(野生馬)--フォード あおいかぶとむしさん
10.タイガー(とら)
不発!
焦げ茶色は当ブログで解明。