創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(240)『メリー・ウェルズ物語』(15)

 起業したばかりのウェルズ・リッチ・グリーン(WRG)社は、劇的な成長をつづけていたいた。WRGがつくるキャンペーンは、その意外性で広告界でド肝を抜いたばかりでなく、より多くの一般の人びとの関心を集め、さらにはふつうのマスコミ紙・誌でもとりあげられて、全国的な話題になっていった。いわゆる、広告の再生産現象が起きたのである。もちろん、広告界の年寄った長老たちからは、ニガニガしい表情と侮蔑的な言葉しかでなかったが。革新者はつねに保守派に嫌われ、憎まれる 。(この章の入力には、アド・エンジニアーズの安田さん(コピーライター)・浅利さん(コピーライター)・桑島さん(デザイナー)・小林さん(プロデューサー)のお力を借りています。感謝)  

第6章 もっとセクシーな車を・・・(1)

▼最高の広告、最高の給与

ブラニフ航空、超ロングサイズ・シガレットのベンソン&ヘッジズ100などの広告キャンペーンを成功させたウェルズ・リッチ・グリーン(WRG)代理店は、いつもマジソン街の昼食時の話題の中心であった。

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メントール好きの愛煙家の皆さん、
お待たせしました。さあ---、
ベンソン&ヘッジズ100の不利益を
存分に味わってください


「メリー・ウェルズのところは、きのうユチカ・クラブ・ビールの150万ドル(5億4,000万円)を獲得したらしいね」
「メリーがフィリピンのマルコス大統領歓迎パーティーに招待されて養女たちとホワイト・ハウスに一泊したって話を聞いたかね?」
「WRGは、ゼネラル・モーターズ・ビルの28階と29階を契約したっていうぜ。たいした景気だね」
G・Mビルというのは、セントラル公園の南端で5番街に面して竣工することになっている最新の豪華ビルである。
家賃もニューヨーク最高と噂されており、利益率の低い広告代理店業界でこのビルにはいることになっているのは、メリーのところともう2社だけであった。
事務所といえば、WRGは、創業5ヶ月目の1966年9月にゴーサム・ホテルからマジソン街757番地ビルに越してきたばかりであった。従業員がだんだんとふえてきたのである。
クライアントもペルソナ・カミソリ替刃、バーマ・シェーブ・クリーム、ラ・ロッサ・スパゲティ、ウェスタン・ユニオン電報社などを獲得していた。

[:W400]

フッ素入りの練り歯磨がいいか、
歯につやを与える歯磨がいいか、 
なんて迷う必要はありません。
新グリームIIは両方をそなえています。


その頃同社を訪ねた私は、創設者の一人、ディック・リッチと次のような会話を交わした。
リッチ「広告扱い高の合計は年内に3,000万ドル(108億円)になりますよ」
chuukyuu「3,000万ドルの扱い高といえば業界で50〜60位の代理店になることになりますね。すごいですね」
リッチ「1968年、つまり2年後には1億ドル(360億円)の代理店になっていますから、まあ見ていてください」
chuukyuu「冗談じゃない。1億ドルといえばベスト20にはいってしまう・・・・・・」
リッチ「そうですよ。自信があるのです。だって私たちは最初の5ヵ月で2,500万ドルの依頼を断ったんですからね」
chuukyuu「そんなに急激にクライアントをふやして、人材のほうはだいじょうぶなんですか?」
リッチ「うちは初心者は入れないんでね。普通の代理店は100万ドルの扱い高に4人の社員を当てるけど、うちはベテランばかりだから3人で十分。ハードワークは覚悟の上です」


参照ディック・リッチ氏とのインタヴュー  (1) (2) (3) (4)


この点についてはメリーも「うちには養成課程がありません。いるのは経験豊かなスタッフだけです」と言っていた。
広告というビジネスでは、初心者は不必要なばかりか邪魔だというわけである。たしかにそうかもしれない。初心者に払う給料はたかが知れているとして、初心者を教えるためにベテランの時間が奪われるのは不経済だからである。
また、効果のある広告をつくるのは初心者にはむりだ。
そしてWRGは、いつも最高の広告をつくることを目標としている代理店なのである。
ベテランばかりを揃えた同社の給与が標準よりも30%も高かったとしても不思議ではない。

▼フォードI世以来の珍事

さて、ウェルズ・リッチ・グリーン社が創業してから14ヵ月目の1967年6月、またもやマジソン街の昼食時の話題を独占するような大事件が起きた。
アメリカン・モーターズが1200万ドル(43億2,000万円)の広告の扱いをメリー・ウェルズにまかせると発表したのである。
「そんなバカな・・・・・・。女性に自動車のアカウントをまかせるだなんて。そんなことしたとしたらヘンリー・フォードI世以来のデトロイトの神聖な伝統が破られることになる!」
この時ばかりは、日ごろメリーに好意的な記事を書いている業界記者らが、こんなふうな主観的な文章を書いてしまったほどであった。
アメリカン・モーターズ社は、なぜ伝統を破ったか?
事情はこうである。
この決定には同社の4人の幹部が関係した。
すなわち、ロイ・D・チャピンII世会長、ウィリアム・V・ルーンバーグ社長、ウィリアム・マクニーリー副社長(マーケティング・サービス担当)とフランク・ヘッジ副社長(PR担当)である。
しかも、チャピン会長、ルーンバーグ社長がそれぞれの地位に就任したのは5ヵ月前であった。
不振のアメリカン・モーターズをなんとかしようとしての経営陣交替である。
ところで会長のロイ・D・チャピンII世は、ハドソン・モーターズの創設者の息子である。
チャピンI世(1872-1936)は1900年代初期にデトロイトの大デパートの所有者J・L・ハドソンからの出資を得てハドソン・モーターズを創業し、アメリカ自動車界で最もすぐれた経営者のひとりといわれた。チャピンI世の死後、同社はナッシュ・ケルビネーター・モーターズと合併してアメリカン・モーターズと改名した。1954年のことである。
つまりチャピンII世はアメリカン・モーターズの最高責任者の椅子につくべく財務面の勉強をしていたといえる。
会長と社長はいろんな施策を練るとともに、広告代理店の再選定をさせるために5月初めにマクニーリー氏とヘッジ氏を入社させた。
これまでにもご紹介したと思うが、アメリカでは経営首脳部が変わると、ほとんどといっていいほど広告代理店が変えられる。
イメージの一新をねらうわけである。
ところで、WRGを強力に推薦したといわれているヘッジ副社長は、4月末までデトロイトで彼個人の広告代理店を経営していた。
彼は公平に判断してメリーを推薦した。
公平といっても、彼の代理店はアメリカン・モーターズの広告をこなすには小さすぎたし、デトロイトで店を張っているこれという代理店はGMかフォードかクライスラーとすでに関係を持っていたから、選定対象から除外しなければならなかった。
とにかくヘッジ氏は、メリーがやったブラニフ航空のキャンペーンを高く評価していた。
マクニーリー副社長が白状したところによると、彼がマーケティング・サービス担当副社長に任命されたことが業界紙に載るや、100以上の広告代理店から会って話したいという手紙が舞い込んだということである。
しかし4人の幹部は、WRGともう2社に目標を定めた。もう2社というのは、チャピン会長の社外ブレーンの1人が訪問だけでもするようにとすすめた代理店である。


続く >>