創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(223)チャールズ・モス氏とのインタヴュー(1)

      Mr. Charles Moss
      Wells Rich Greene 社
      副社長兼クリエイティブ・ディレクター(当時)


彼がつくったブラニフ航空やアメリカン・モ一タ一スのコマーシャルのことは、日本のほとんどの広告関係者が知っているのに、モス自身のこととなると、ぜんぜん紹介されたことがない。彼は、魅力的な人柄をもったライターであるからこそ、あのようなコマーシャルをつくりえたのだろうに。


上記は、『みごとなコピーライター』(誠文堂新光社 1969)のモス氏のページの冒頭に掲げた紹介文である。温和な微笑をたやさないで会話をつづけた、ちょっと恥ずかしがり屋の少年のような態度が、強く印象に残ったからだった。そうした人柄と氏のクリエイティビティがあってこそ、その後、米国広告界の輝ける1等星ウェルズ・リッチ・グリーン社の後継社長に指名された。チャーリー、おめでとう!

自己を表現できる仕事がしたかった。


chuukyuu 「かつてDDBにいらっしゃったことがあるそうですね? いつごろからいつごろまでのことですか? どんなアカウントを担当していらっしったのですか?」


モス 「ええ、私が仕事を始めたのはDDBなんです。約3年間いました。業界紙用の広告の事から始めました。ビーナス・べン&ベンシル社、ロンソン・ライター、ケムストランドなど。1964年の民主党全国委員会の仕事もやりましたよ」


chuukyuu 「DDBが最初の代理店ですか? 聞くところによると、DDBのレブンソン氏の目とまってコピーライターにおなりになったとか---。レブンソン氏に教わったというのは、どこですか? また、そのレッスンを受けようと思った動機は? たとえば、自分にはコピーライターとしての適性があると思ったとか、それはどうしてかとか---といった点を詳しく話してください」


モスDDBが私にとって最初の広告代理店でした。当時、ニューヨーク大学のあるコースで教えていたレブンソン氏を通して、DDBに入社することができたのです。そのコースというのは彼が月に1回数えていた夜のコピー・コースです。当時、私は職を探していたので、DDBのある人から、レブンソン氏がそのコースで教えていると聞いた時、そこへ行けば私はあの人を知ることができるし、レブンソン氏も私を知ることになると考えたのです。そして、いつかは彼がDDBに招いてくれないとも限らない---と。
私は一生の仕事として芝居をやりたかったんですが、いわゆる生計を立ていくということになると、その仕事はいささか危険が大きすぎると感じていたのです。そこで私は、芝居以外のものに自己を表現するという満足感を私に与えてくれるものを探そうと決意したのです。
そして、広告がそれだと思ったのです。これが、私がコピーライターとしての仕事を探し始めるきっかけでした。


>>続く


TV-CM ブラニフ・インターナショナル航空 【老婦人】


愛すべき老婦人がキャンディ、フォーク、毛布など、たくさんのものを盗むので、隣席の老紳士はあきれ顔。彼女が飛行機を降りる時、荷物が多くなりすぎたので、スチュワーデスが「お手伝いしましょうか」と声をかける。老婦人はついにジーブで飛行機をも盗む。
(スチュワーデスの機内アナウンス)「みなさま。ブラニフ航空外国航路にご搭乗くださいましてありがとうとございます。到着時刻は、東部標準時---。
(アナウンサー)昨年、ブラニフ航空は、完全に定期航空便の再計画をたてました。そして、お気にいっていただけるかどうか心配しました。今では、私どもも気に入ってくだきる方が少し多すぎるのではないかと思っています。この計画をやめないかぎり、私どもは、みなさまの記念品あさりに反対できません。


chuukyuu注】スチュワーデスの制服のデザインはエミリオ・プッチ、機内の座席のテキスタイルはアレキサンダー・ジラルドなどによるもの。


chuukyuu注ブラニフ・インターナショナル航空のアカウントがWRG社へきた経緯は、「ディック・リッチ氏とのインタヴュー(4)」をご覧ください。


関連記事:
Mr.Levensonとのインタヴュー(1) (2) (3) (追舗)


>>続く