創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(226)『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972年刊)(1)

第2章 積み木とジェット機--- 

アカプルコでの秘密デート

1966年4月1日、金曜日----。
金曜日というのは、米国の広告界で働く人間にとっては嫌な朝であるとともに、ホッとできる夜でもある。
「キミは来週から出社におよばない」と通告されるのも金曜日なら、1週間分の給与が小切手で配られるのもこの日である。
しかし、メリー・ウェルズとディック・リッチとスチュアート・グリーンの場合は、立場が逆であった。
3人は、この2日のあいだに別々に会社に辞表を出していた。会社はジャック・ティンカー&パートナーズというニューヨークの広告代理店で、社名のとおりジャック・ティンカーという男と幾人かの有力者によって経営されていた。
メリーはパートナーの一人として、年俸6万ドル(2,160万円 注:42年前の1ドル=320円で計算。以下同じ)を約束されて、1964年---36歳の時にこの代理店へ移ってきた。
いつかはこの会社の最高幹部に据えるという密約もあったという。それほどメリーの知力と手腕は高く買われていた。しかし、彼女にはもっと大きな野心があった。
だいたいジャック・ティンカー&パートナーズという代理店は、完全に独立している会社ではなかった。マリオン・ハーパーというアカウント部畑出身の男が築き上げた世界最大(だった)広告代理店グループ、インターパブリックの傘下の一つにすぎなかった。
メリーがジャック・ティンカー&パートナーズの女社長になったとしても、その上には親会社のボスであるハーパーが控えていることになるわけである。
もちろん、ジャック・ティンカー&パートナーズ社はただの広告代理店ではなかった。最初は、商品の売り方や広告計画だけを考えだして売り渡してしまういわゆるマーケティングシンクタンク機関として設立された。
1件5万ドル(1,800万円)という考案料であった。
メリーが参加してから、計画書を売り渡してしまうのは採算上よくない、計画の実施まで引きうけるべきだと主張して、そうすることになった。いわゆるフル・サービスの広告代理店業務を始めたのである。
それと同時に、インター・パプリック・グループの一広告代理店社として組み込まれてしまった。
6、7人のほんとうに才能のある人たちだけで構成されていたこの会社は、急速に従業員をふやし、メリーが辞める頃には100人近くにまでふくれあがり、彼らを管理するための機構も生まれた。
メリーはニ律背反を起こしたことに気がついた。
それともう一つ、メリーには私生活の秘密があった。ジャック・ティンカー&パートナーズ社のクライアント(顧客)の一つであるブラニフ・インターナショナル航空の社長ハーディング・ロレンスとの恋であった。広告界で、クライアントの首脳との恋愛関係と陥ったとなると、これは大スキャンダルである。
勝気なメリーにとってもこれはさすがに頭痛のタネであったろう。もちろん、抜け目なく最初の夫とは離婚していたが---。16年間もともに暮らしてきたバード・ウェルズは、ある広告代理店のアートディレクターとして働いていたが、子どもはできなかった。2年齢上で、大学時代に結ばれた仲であった。
無事に離婚できたメリーは、毎週のように週末となるとメキシコのリゾート---アカプルコへ飛んでパーティを開きはじめた。ニューヨークからアカプルコへは4時間半の距離である。
女優のオベロンやデザイナーのエミリオ・プッチ、歌手のエディ・フィッシャーなどがパーティの常連だったと情報誌が伝えていた。
ブラニフ航空のロレンス社長も顔を見せた。パーティは2人のデイトの煙幕であったのかもしれない。
メリーはそれ以上にパーティが好きだった。ニューヨークからアカプルコへはブラニフで飛んだ。ロレンス社長が航空券を手配していたとの憶測もあった。
ブラニフ・インターナショナル航空のヘッド・オフィスはテキサスのダラスにあり、ロレンス社長はここからアカプルコへ来ていた。3時間たらずの飛行であった。

ブラニフってカナダの町?

メリー・ウェルズに辞職を決意させたロレンス社長のいるブラニフ・インターナショナル航空とはどんな航空会社であろう。
この航空会社は、1928年の夏にオクラホマ市でトーマス・ブラニフによって創業され、世界で9番目の乗客数(年間600万人)を数えるまでに成長した企業である。
しかし、主要路線が米国の中南部とメキシコ、南米に集まっていたため、堅実ではあるが田舎航空のイメージを持たれていた。
1965年、コンチネンタル航空で経営担当副社長として腕をふるっていた45歳の働きざかりのハーディング・ロレンスが社長として引き抜かれてきた。前社長は経営不振と高齢のために引退させられた。
ロレンスは社長の椅子におさまるや、それまでの広告代理店であったウィスコンシン州プルトンのクリエイティブ・グループ社を解約して、コンチネンタル航空時代に関係のあったニョーヨーク市のジャック・ティンカー&パートナーズ社へ新しい広告キャンペーンの制作を依頼した。ジャック・ティンカー社でブラニフ担当責任者になったのが、メリーであった。
メリーが仲間のスチュアート・グリーンに、ブラニフを担当することになったと打ちあけると「なんだい、そのブラニフっていうのは---。カナダの町かい?」と聞き返された。
この時、メリーの頭脳にひらめいた。そうだ、知名度が低いこの航空会社はまず世間の話題にならなければならない---と。
メリーは23歳でメイシー百貨店のファッション広告を手がけてから、すでに14年間、広告を考える経験を積んでいた。しかしその14年間は、いってみれば商品の特長をいかにももっともらしく飾り立てていうのかの繰り返えしの歳月であった。どの広告の教科書にも、商品の特長の強調の仕方だけが書かれていた。
メリーは時代が変わったこと、そして全く新しい広告の手法を必要とする時代が到来している事実に気づいた。多くの商品は特長がほとんど似かよってしまっている。どの特長をとりあげて強調してみたところでそれほど差別はつきはしない。
差別そのものをつくりださなくちゃ---人びとが話題にしないではいられないような差別をつくり出さなくちゃ---。
メリーは次第に興奮してきた。しかし、航空会社にとって、人びとが話題にするような差別とは何であるか、そう考えると---、メリーは再び頭をかかえこんでしまった。
どの航空会社も、同じジェット機を買い、同じ飛行場から発着している。しかも、航空会社は政府の干渉を最も強く受けている私企業である。勝手に早く飛ぶわけにも、コースを変えて飛ぶわけにもいかない。飛行中に宙返りのような曲芸サービスをやるわけにもいかない。
機内でスチュワーデスがストリップを演じて、男性客の目を楽しますわけにもいかない---そうだ! あった! ストリッブだ! メリーはついにアイデアの端緒をつかんだ。

chuukyuu注】『メリー・ウェルズ物語』は、日本ダイナースクラブの会員誌『シグネチャー』の1960年の連載に加筆したものです。


続く >>


パナマの見どころは運河だけではありません。

パナマには、すてきなナイトクラブがたくさんあり、午前2時でもステージのかぶりつきで魅力的なパナマ娘の---つまり---フォークダンスが楽しめます。
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ブラニフ・インターナョナルは、
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パナマまでノンストップです。