創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(241)『メリー・ウェルズ物語』(16)

WRGのオープンは1966年4月4日であった。アメリカン・モーターズから声がかかったのは、1年2ヶ月後である。広告代理店が急成長するためには、プレステージ・アカウントが必須である。広告予算がある程度あって、そのキャンペーンが人びとの目にふれる機会が多く、できれば話題になるアカウント(扱いの勘定口座)のことである。DDBVWビートル、WRGのプラニフ航空の例がそういえる。ところがWRGは、さらにもう一つのプレステージ・アカウント---アメリカン・モーターズを得た。しかも、自分たちのほうからは先に働きかけないで---すくなくとも、表面的にはそう語られている。。(この章の入力には、アド・エンジニアーズの安田さん(コピーライター)・浅利さん(コピーライター)・桑島さん(デザイナー)・小林さん(プロデューサー)のお力を借りています。感謝)

第6章 もっとセクシーな車を・・・(2)

▼『敗者の車』

1967年の5月もあと数日という月曜日、川1つ向こうはカナダという、アメリカ最北東部に位置するデトロイト空港にメリーは降り立った。
もうすぐ6月だというのに、メリーのコートのすそをはためかすデトロイトの風はひんやりとしていた。空港から市内へ通じる道は、だだっぴろいだけで交通量もまばらであった。
遅れた新緑だけがニューヨークからきた彼女の目には、妙に鮮やかに映った。
「この風景は故郷のヤングスタウンに似ているわ」という思いがスッと彼女の頭を横切ったが、タクシーが走りはじめるともう別のことを考えていた。
それは、これからちょくちょくデトロイトへくることになると「ダラスとデトロイトじゃ、まるでアメリカ大陸縦断旅行者になってしまうわ」といった愉快な思いつきであった。
彼女は、アメリカン・モーターズのチャピン会長から会いたいという長距離電話をもらった瞬間から「アメリカン・モーターズは私のもの」と決めていたのである。
この日、市内のあるホテルのレストランの個室でメリーはチャピン会長と数時間話しあった。
会社を訪ねなかったのは、従来からの代理店ベントン&ボウルズ社の誰かに会うと困るからである。
ベントン&ボウルズ社は2年前からアメリカン・モーターズの広告を扱っており、すでに5月16日に1968年型車に関する広告キャンペーンのプレゼンテーションをすませていた。
しかもこの時、アメリカン・モーターズのルーンバーグ社長はベントン&ボウルズ代理店がこれまでにしてくれた仕事の中では最高のできだとほめていた。
「いや実際、とび切りすばらしいプレゼンテーションでしたよ、ウェルズさん」と、チャピン会長もメリーに告げた。
「そうでしょうかしら、ベントン&ボウルズのような代理店に『敗者の車』というイメージを一夜でくつがえすような広告が考えだせるとは信じられませんわ」
「『敗者の車』とおっしゃると? 私は長い間財務畑ばかり歩いてきたので広告用語は苦手でしてね」
「そんなむずかしい話ではありませんわ。アメリカン・モーターズの車は1台ずつ検討すればみんないい車ばかりですわ。でもいつもビッグ3の後塵を拝しているという決定的イメージがあるため、だれも見向きもしないのです」
そう話しながら、メリーは再びデトロイト空港で覚えた印象を思いだしていた。
アメリカ経済を支える自動車産業の町の空港なのに「なんて淋しすぎるのかしら」と。
「チャピンさん。あなたはビジネスにおくわしい。ですからこんな計算は朝飯前でしょ。よろしいですか。テレビ・コマーシャルの話です。テレビ・コマーシャルの時間コストは省略して制作コストのことだけを考えてみましょう。ここに5万2,000ドル(1,872万円)の制作コストがかかったコマーシャルがあるとします。そしてこのフィルムの想起率が平均の2倍あったとすれば長期間放映できますね。かりに1年間使用したとしますと、52回放映したことになりますから、1回あたりの制作コストはたった1,000ドルということになりますね。私たちは、ギャラップ調査の平均想起率の2倍のコマーシャルをつくります。ベントン&ボウルズのような代理店は平均か平均以下のものしかつくれませんから、3ヶ月でコマーシャルを変えなければならなくなります。つまり、1回の制作コストが4,000ドルにつきます」
このたとえ話はチャピン会長の心を大きく動かした。
彼は財務担当重役から会長になるや、ディーラーを再編成したり、間接費を削ったり、銀行から新しく融資を受ける折衝をしたりしていたので、効率ということに深い関心を持っていたからである(実際、その後、WRGがつくったジャベリンのコマーシャルは2年間も使用されて、放送1回あたり5セントにまで制作コストを下げた)。

▼24時間の代理店選定

1967年6月8日木曜日---。
こんどはアメリカン・モーターズ側がニューヨークへ出向いて、WRGを訪問した。出向いてきたのはチャピン会長、ルーンバーグ社長、マクニーリー、ヘッジ両副社長の4人であった。
新規広告主の代理店のための訪問にもかかわらず、WRGはなんのプレゼンテーションも準備しなかった。やったことといえば、社内を案内し125名の社員を紹介し、これまでにつくったブラニフ航空やベンソン&ヘッジズ100のコマーシャル・フィルムを10数本上映してみせたあと、レストランの特別室で昼食を共にしただけであった。
その席でマクニーリー副社長がリチャード・リッチ(写真)に、
「あなたは自動車広告の経験がありますか?」
と尋ねると、リッチが肩をすくめて、
「ありませんね。もし私がビッグ3のうちのどこかの広告を過去につくっていたら、アメリカン・モーターズはその広告のために瀕死の重傷を負わされていたでしょう」
と答えて4人を笑わせた。

参照ディック・リッチ氏とのインタヴュー1/2/3/4


「もしわが社がお宅に広告をまかせたら制作陣が手薄になりませんか?」
というヘッジ副社長の問いに対しても、リッチは、
「25人の社員を増員するだけのことです。いま、私のところには遊んでいる者は1人もいません。みんな手いっぱいの仕事をかかえこんでいるので」
と答えた。それにつけ加えてメリーが、
[:W80]「すごいタレントの心当たりがあるのです。ご存じと思いますが、DDBのロン・ローゼンフェルド(写真)です。私たちはロンにこの代理店の社長の椅子を与えようと思っています」
ロナルド・ローゼンフェルドはDDBの至宝ともいえるコピーライターで、ソニー、カルバート・ウィスキー、クレイロール化粧品などの広告で全く新しいアプローチを発明した、当時35歳になったばかりの男である。

参照ロン・ローゼンフェルド氏とのインタヴュー1/2/3/4/5/6


こうして数時間をWRGですごしたアメリカン・モーターズの首脳たちは、24時間後の6月9日には代理店選定を終えて、メリーに「よろしく頼む」と電話で伝えてきた。
ほんとに24時間後だった。
2年前、アメリカン・モーターズがベントン&ボウルズ社を決めた時のそれとはたいへんな違いである。
その時にはたくさんの代理店をリストアップし、その中からプレゼンテーションをさせる数社を選び、それからそれらの代理店を歴訪し会議を開きプレゼンテーションを受け、また相談し、2ヶ月もかかってやっとベントン&ボウルズ社に決めたのであった。
2ヶ月と24時間の違いは、ベントン&ボウルズ社とウェルズ・リッチ・グリーン社の魅力の違いである]とともに、アメリカン・モーターズ側の首脳部の決断力の違いといえる。
マクニーリー副社長の告白によると、4人は最初からメリーにしぼっていたということである。


敬称略
続く >>


第6章 もっとセクシーな車を・・・(1)
第11章[メリー・ウェルズ語録] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 

:W350]

「だって、あなた、
私のパスポートを見せてって
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掲載『ニューズウィーク』誌1970年4月20日
『U.S.News & World Report』1970年3月23日号