創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(235)『メリー・ウェルズ物語』(10)

1967年11月最終木曜日の感謝祭の日、メリーはブラニフ・インターナショナル航空の社長ハーディング・ロレンスと再婚した。プライバシーに触れるようだが公表されたことなので---その時、新婦メリーは39歳であった。それから41年を経過した今年---メリーは復帰したというニュースを教えてくださったのは〔なまえ〕さんで、そのWebのアドレス(3/17のコメント)を調べてくださったのが〔atsushi〕さん。インターネット上での復活の模様。カラーのポートレイトは相変わらず魅力的で、若々しい。ミーハーだなあ→自分。しかし、これからのインターネット上での活躍が愉しみ。


第11章 メリー・ウェルズ語録(その3)

▼20年目の広告代理店

広告業界では、20年ごとに業界の手本となるほど強力な広告代理店が現れて働くべき場所となります。今はWRGの番なのですよ」 (「インベスターズ・リーダー」1970.3.4)
メリー・ウェルズは自分の代理店……WRGこそ今日の広告界を代表する広告代理店と信じている。
創業以来5年というわずかな期間に数々の商品のサクセス・ストーリーをつくりあげたばかりではなく、広告という経済活動に対して新しいコンセプト(概念 基本的な考え方の枠組)を樹立し実践して見せた自信からだ。
たしかにメリーは、数多くの商品・サービスのサクセス・ストーリーをつくりあげた。
ブラニフ航空、ベンソン&ヘッジス、アメリカン・モーターズ……。
米国ではふつう、新しい広告代理店が誕生した場合、七番街(注・ここは新しいファッション関係の企業が多い)から最初のクライアントを得る。
無名のシャツや小さな化粧品を扱う7番街の商店を長い間の広告活動によって有名銘柄にのしあげる苦労を続けるわけである。
そして大部分の広告代理店が、認められる前に力尽きて死んでしまう。
WRGは幸運にも(あるいは計画的に)最初に全国的規模の広告主ブラニフ・インターナショナル航空を獲得した。
普通の広告代理店の誕生とははじめから異なった出発をしたのである。
そのことは「WRGが考えだした最高のキャンペーンは記事に書かれています。偶然ではなく故意に。それは記事にされるだけのビッグ・アイデアでつくられているのです」(「講演」1969.10.7)というメリーの自慢を生むきっかけをもたらした。
WRGはもともと人目につきやすい広告主ばかりを扱ってきたから人目についたともいえる。もちろん、そのことによってWRGの評価を下げる必要はない。
彼らのサクセス・ストーリーは商品のではなく広告そのものによるケースが多い……という的外れの批判を別にすれば……。
メリー自身も告白しているようにWRGは「ここ数年間というもの、『異なるために異なっている』危険性に対していろいろ取り沙汰されてきました。私たちは『異なっていない』のは危険だと考えます」(同上)
スキャンダリズムを大いに利用してきたフシもあるが、それも戦術のうちと見逃してもよい。
2番目の理由……広告という経済行為に対する新しいコンセプトを確立したという見方は、一面では正しく一面では過大評価されているといえる。
広告に新しいコンセプトが付与されたとみなす時期は、分類の仕方にもよるが4回ほどある。
その一つは、1904年の春、シカゴの広告代理店ロード&トーマス社にジョン・E・ケネディという男が現れて「広告は印刷された販売技術である---Salesmanship in print」と告げた時だとされている。
二つめは、同じ代理店ロード&トーマスで働いたコピーライター、クロード・ホプキンスが1923年にコピー調査による『科学的広告法』(坂本登訳・誠文堂新光社)を出版した時である。
以来、各種の調査技術が続々開発されて広告の効果をより確かなものにしてきた。
三つめは、DDBの会長ビル・バーンバックが「広告とはつまるところ説得である。そして説得とは科学ではなくアートである」と宣言した1950年代。
四つめは、コンピュータが広告の諸段階に導入された1958年。
そして五つめはこれから始まろうとしている。
それは消費者に対して「信頼性」のある広告をどうつくるか……という問題に集約される。
それに対し、メリーのやったことが4つめと五つめの間に割ってはいれるかどうかだ。
彼女がやったことというのは、商品自体に広告すべきものがなかったら、広告代理店はプロモーショナルなアイデアをその商品に付加すべきであるという、例のブラニフ航空の7色のジェット機、ラブ化粧品の男性セックスをシンボライズした容器の考案といった考え方である。
残念ながらぼくには、メリーのそれを四つめと五つめに割り込ますことはできない。
彼女の場合は、広告代理店以外のどこかがやらなければならなかったことを彼女の代理店が手をのばしてやっただけであるからである。
もちろんそれはメリーの多様で卓越した才能を示しはするが……。
そうはいっても、WRGが依然として今日話題の代理店であることにも変わりはない。
さて、メリーは「20年ごとに」話題の中心となる代理店が出現すると主張している。
彼女の言にしたがって20年を一区切りにして話題の広告代理店の創立時を列記してみると、

1900年……ロード&トーマス
1923年……ヤング&ルビカム(Y&R)
1935年……レオ・バーネット
1948年……オグルビー&メイサー
1949年……DDB
となる。戦後に限っていえば、オグルビー&メイサー、DDBを別にすると、
1960年……パパート・ケーニグ・ロイス(PKL)
同……ジャック・ティンカー&パートナーズ
1966年……WRG
が上位30位以内にランクされたことのある代理店だが、PKL、ジャック・ティンカー社は創業10年を待たずして消えてしまった。
だからメリーが「20年ごと」という言葉で表現したかったのは、DDB時代から一気にWRG時代の到来……ということだったのだろうと思う。
DDBでの経験は信じられないほどすばらしいものでした」(「AA」1971.4.5)と絶賛しているにもかかわらず、メリーはなぜDDBからジャック・ティンカー&パートナーズ社に移ったのであろうか?

▼利益志向の時代

「クリエイティビティの勉強はDDBでやりました。そして革命的なアイデアにおける彼らのピークを見きわめてDDBを辞めました。DDBが現在偉大でないという意味ではありませんよ。でも、ジャック・ティンカー社で求めたこと、やろうとしたことは、最小の人間で大きな利益があげられるかどうかを見きわめることでした」 (「AA」同)
DDBのクリエイティビティ(創造性)というのは、商品や企業に際立ったパーソナリティ(人格)を付与する広告のやり方である。
知的で実質主義者のような性格を与えられたフォルクスワーゲン、No.2の地位にあったら頑張らなくてはいけないと宣言したエイビス・レンタカー(図版)などがその典型である。
そうしたクリエーティビティを発揮するためには、コピーライターとアートディレクターの2人が芸術的なヒラメキに達するまで話し合うという手順を踏む。
ぼくがDDBを何回も訪問して実地に彼らのやり方を観察したところによると、そこにあったのは効率主義とは逆なもの……といって悪ければ、ほんとうに良いものをつくり出すためには少々の時間的無駄もいたし方なしという一種の名人気質であった。
そこのところをメリーは「私にはほとんど宗教にさえなりえないほどの特殊な広告ルックをつくり出すことには関心がありません」(「AA」前出)と言って、暗にフォルクスワーゲンやエイビスの広告を批判するとともに、DDBの意識的な非効率主義をも非難している(宗教的広告ルックの代表、フォルクスワーゲンやエイビスの広告レイアウトを担当したヘルムート・クローンは、一つのスタイルを完成するのに6ヶ月も考えるといわれている)。
良い作品をつくることとお金のどちらを選ぶか……と質問されて、ためらうことなく「良い作品」と答えるDDBバーンバック会長ほど芸術志向が高くないメリーは、
「現代は以前よりもずっと利益志向の強い時代です」(「AA」同)と割りきって考えている。
「広告代理店自身が儲けることもできないで、どうしてクライアントにお金の儲け方が教えられますか」(「AA」1968.7.1)という言葉は一種の詭弁と見過ごしたとしても、
「私の夢は最小のスタッフで史上最高の利益をあげる代理店をつくることです」(「AA」同)
という発言はWRG創設時のものだからメリーの根本理念と受け取っていい。
「WRGは必要なだけの人員でやりたいと思っています。また高度にクリエイティブな広告代理店にもしたいのです。私はジャック・ティンカー社時代にこれを成就させる方法を学びました。その一つの方法はあまり必要でない部門を設置するかわりにそれを外注することです」(「AA」同上)。
 要するに、広告代理店も一つのビジネスなのであるから利益を追求すべきであるという至極当然の考え方を、少数の有能な人材だけにしぼってやっていくことで実践するのがメリーのやり方である。
実際、広告代理店業というのは人件費率が総経費の過半数を占める知的サービス業に属し、Y&Rのボンド会長がいみじくも「5時になると社の全財産(社員)がエレベーターで降りていってしまい」翌朝必ずまた帰ってきてくれるという保証はどこにもない……と言って、「代理店の財産は人間」論に水をかけているが、それほど人間の占めるウエートが重いビジネスである。
したがって、社員の働きの密度を高めればそれだけ利益も生みやすくなるとメリーは結論したわけであろう。
「良い人材を引きつけるために、WRGは平均以上のサラリーを払っています。そして成功した人をはっきりと賞します。一方、スタッフを少なく保ち真に必要な人だけを雇うことにより、その他の諸経費を少なく保ちつづけているのです」(「株主への報告」前出)
他の代理店よりも高いサラリーを払うシステムはメリーの創案ではなくて、ジャック・ティンカー社で学んだやり方である。
しかしメリーはそれに加えて「社員の働きに報いるために、サラリー以外にもいろんな特典ー特別休暇、ボーナスーを与えていますし、いつも社員に利益を還元する方法を捜しています」(「AA」1968.7.1)と強調している。
こうした優遇策と同時にハードワークを要求する。
「私たちは現在、昔とは完全に違った時代にいるのです。ハードワークの時代です」(「AA」1971.4.5)
そのハードワークも単なる「働け、励め」ではない。
「広告ビジネスの世界では、真にすぐれた人はほとんどの場合に間違わず、そのために時間とお金を節約してくれます」(「講演」前出)というように、良い人材によるハードワークである。
しかもWRGに集まっている人材はメリーの言「私はお金をつくることに一生懸命になる人、お金をほしがる人、そしてお金をつくる真価を認める人が好きです。
それは人間にある種の推進力を与えるからです」(「AA」1971.4.5)のごとく経済観念が強い人間が多いようである。
これでWRGが儲からなかったらどうかしている。
一方、少ない人員でやっていく必要性はほかにもある。
広告業界で最も危険なものが一つだけあります。それは太ることです。真に必要とされていないのにいろんなわけがあってクビにならない人間をたくさんかかえることです」(「株主への報告」前出)

余分な人間をかかえて会社が太る傾向にあることは広告代理店にかぎったことではない。
ただ、1950年代から60年代前半のアメリカ経済の成長を反映して広告業界も好調をつづけ、一般的にいって余剰人員をかかえこんでおり、そのためにまた余計な管理事務が案出されたということはある。
メリーが余分な人員を恐れるのもそこで「私たちはたくさんの平凡な人間によって混乱されたくないのです。クライアントを昼食に誘いだすためのたくさんの下役にまわりをウロチョロしてほしくないのです。私たちは自分でクライアントを昼食に誘いだします」(「AA」1967.4.17)というわけである。
このメリーの言葉にある「クライアントを昼食に誘う」というのはいわゆる接待のことだが、日本と違って夜の接待は少なく、ほとんど高級レストランでの昼食が使われている。
だいたい一人前15ドルから20ドル見当の昼食である。
夜はホテルのバーあたりで軽く一杯やるぐらいで日本のようにホステスつきのナイトクラブへの案内はほとんどない。
もちろん観劇といった夜の接待がないこともないし、遠来の客をもてなす夫人同伴の夕食といったケースもままある。
WRGの場合「自分たちだけの時もクライアントと一緒の時にもゆっくりと昼食のとれたことはめったにありませんし、お酒をのみに行くこともありません。私たちは24時間ぶっとおしで仕事をしているのです」(「AA」1969.7.1)といった次第である。
もっとも「私たちの声価はWRGのクライアントのためにやった力強い成功の上に築かれているもので、個人的な関係やお酒やすばらしい食事によるものではありません」(「AA」1971.4.5)という言葉にもあるとおり、お得意の広告主獲得を実力でなしとげている強みがあるからであろう。
そうはいってもこのメリーのやり方も彼女の発明ではなく、DDBの先任副社長ロバート・ゲイジ(写真)が10年前に「私たちはゴルフ場でクライアントを拾うようなことはしない。彼らは私たちの仕事を尊敬し向うからやってきてくれる」ときっぱり言いきっている。
当時DDBでこのロバートから指導を受けていたメリーのことだから、頭のどこかにDDB流のやり方が残っていたといってもいいであろう。
とにかく、メリーも言っているとおり、WRGはDDBとジャック・ティンカー社から大きな影響を受けている代理店だといえる。
それでもなお、メリーが独立してみたかったわけは……?


続く >>

DDB時代のメリー・ウェルズがコピー・スーハパイズしたフランス政府観光局のキャンペーンの1例

公園、並木の大通り、ルーヴル、エッフェル塔オペラ座、娘たち、商店、遺跡、レストラン、セーヌ、大聖堂、カフェを取ったら、残るのは?

パリ。
このパリを、ガラス張り天井の遊覧バスやリッツホテルの窓から見るというのはね。パリジャンのハリでなくっちゃ。
もちろん、パリジャンが大きな公園や広い並木大路を好まないって言ってるんじゃないですよ。パリジャンの住処は狭い裏通りの脇の小さな場所なんです。ほんとうのパリが観たいですって? ヴィクトル・ユーゴーがいた頃とすこしも変わってないヴォージュ広場に行ってごらんなさい。木々に少しの変化があっとはいえ、新しい世代の子どもたちが、あの頃と同じように小道でサッカーを楽しんでいるのです。それからセーヌ街を歩いてごらんなさい。そこには画廊や写本屋がまるで本棚に並べられた本のようにいっぱい軒をつらねています。
ルーヴルでドラクロアの実物を鑑賞したら、生前の彼が仕事をしたアトリエのある川向こうのファルステンベルグ広場に行ってごらんなさい。ここもまた彼がいた頃と少しも変わっていないのです。それから、学生街の中心にあるゴシック時代をのぞかせるクリュニー美術館にかざられているすばらしい出来ばえのタペストリーをごらんください。
グルメをやりたいって? 奮発して、この世のすべてとおもわれるほどエレガントなマキシムはいかがでしょう。だからといって、家族的な居酒屋には行かないというのでは困ります。そこでは、おかみさんがマルセイユ式の最高のブイヤベースに腕をふるい、おやじさんが、カニにぴったり合う「手ごろな値」のワインを選んでくれるのです。
ノートルダム寺院を観に行ってごらんなさい。道一つへだてたところになある聖チャペルの荘厳なステンドグラスの窓を見落としてはいけませんよ。つづいて、パリの一番古く最も落ち着いたサンジェルマン・デ・プレの静寂をしばらく満喫してごらんなさい。
道ぞいのカフェでガール・ハントをしたいって? これはぜひやっていたたぜきたいし、それにモンマルトルの狭い路地に出る色とりどりの露店商人も見ていただきたいものです。有名な遺跡、エッフェル塔、セーヌがこらんになりたい? それもいいでしょう。それから、サン・ルイ島やマレーを歩いてみるのもいいでしょう。このように、田園色豊かなところを歩いていると、古い石像や鉢植えのゼラニウムやガスパンドと名づけられた猫がごろごろと喉ょをならしながら陽のもとで居眠りしているのどかな風景に行きあたることでしょう。
この次にパリを訪れる機会があるなら、本当のパリをごらんください。そういうところを探検してごらんなさい。そして、気にいったところを見つけてください。
いまでもパリは、未発見のある街の一つなんです。




Take away the parks, the boulevards, the Louvre, the Eiffel Tower, the Opera, the girls, the shops, the monuments, the restaurants, the Seine, the cathedrals and the cafes, and what's left?


Paris.
The Paris you won't see from a glass-dome tour bus or a room at the Ritz: The Paris of the Parisians.
Not that the Parisians don't love their big parks and wide boulevards.lt's just that they live on the small courtyards off the narrow back streets. Want to see Paris ? Go see the Place des Vosges: it hasn't changed since Victor Hugo moved out. The trees arc a little more gnarled and a new generation of kids play soccer in the paths; otherwise it's the same. And go stroll the rue cle Seine, where the art galleries and manuscript shops are packed together like books on a shelf.
Go see the Delacroix masterpieces in the Louvre, then cross the river to Place de Furstenberg and visit the alelier where he worked', it's just as he left it. And take in the tapestries in the Cluny museum, a charming chunk of the Gothic age, in the heart of the student quarter.
Want to go gourmet? Do treat yourself to the end-of-an-era elegance of Maxim's. But don't skip the family bistros, where Mamma cooks up the best bouillabaisse this side of Marseille and Papa helps you pick out an "honest" wine that, somehow, turns out to be just right.
Take in Notre Damc, but don't miss the magnificcnt stained glass windows of Sainte-Chapelle. just across the way. And spend a cool hour in the soft greyness of St-Germain-des-Pres, the oldest church in Paris, and the most restful.
Want to scout the girls from a sidewalk cafe? It's a must. But so are the colorful market-folk in the street stalls of Montmartre. Want to see the famous monuments, the Eiftel Tower, the Seine? Fine. But also make a walking tour of the IIe St-Louis and the Marais. And wander into those courtyards; you'll find old stone statues, stacks of potted geraniums and a purring ca t named Gaspard snoozing in the sun.
Next time you see Paris, see Paris. Explore the place, and find out what it's really like.
Paris remains, even today, one of the great undiscovered cities of the world.


フランス政府観光局のキャンペーンのほかの例は、
レオン・メドウ氏とのインタヴュー (6) (7) (8) (了) 
この中の数点がメリーのコピー。