創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(233)『メリー・ウェルズ物語』(8)

第11章 メリー・ウェルズ語録

「メリー・ウェルズは広告の革新者だったか?」「彼女のやり方は正しかったか?」---つねに疑問をもちながら、当時、あちこちで吐かれた発言を集めて吟味した。創造性のヒントがあれば、汲み取っていただきたい。なにしろ、40年も前のことだ。(入力には、アド・エンジニアーズの4人の若い女性---コピーライターのF.祐子さん、A.薫さん、およびプロデューサーのS.真衣さん、T.恵美子さんのご協力を得た。アクセサーの皆さんに代わって改めて謝辞を---)

▼女性であることと広告

「女性は広告にピッタリにできているんですよ」 (「ヘラルド・トリビューン」1970.3.7)
メリーは自分の広告代理店……ウェルズ・リッチ・グリーン(WRG)社を立派な会社につくりあげると同時に、女性の働き場所として広告業があることを示した。
なぜ広告業が女性に適した職業か。
米国では女性がすべての家庭収入の85%を使うといわれているぐらい女性が消費と結びついていることと、女性の心理を理解し彼女たちに訴えかけるには同性である女性広告人のほうがより容易であるからであろう。
もちろん「女性は広告にピッタリにできている」ことを証明してみせたのはメリーが最初ではない。
フィッツ=ギボン(Bernice Fitz-Gibbon)という有名な女性コピーライターが百貨店広告の草分けとしてニューヨーク広告ライター協会から「コピーライター名誉の殿堂」入りを指名されたのは1967年である。
翌68年にはメリーの師ともいえるドイル・デーン・バーンバックDDB)のフィリス・ロビンソン夫人(Phyllis Robinson 写真)が「殿堂」入りを果たしている。[>>ロビンソン夫人とのインタビュー
メリーが3人目の殿堂入りをしたのは1970年のことである。
しかし1億ドル(360億円 1ドル=360円に固定時代だった)の扱い高の広告代理店を経営した女性広告人はメリーが最初である。その意味ではメリーの「女性は広告にピッタリにできている」という言葉はある重さをもって響く。


「ある人がこんなことを言ったことがあります。『女の力を甘く見てはいかん』 広告に関する限り、そのとおりだと思います」 (「株主への報告」1970.3.30)


ウーマン・リブ運動が激しいアメリカでは、女性を「かわいい淑女」扱いした広告はリブ組の攻撃目標にさえなってきているという。
女性商品には新しい訴え方が必要になってきている。
目ざめた女性の手になる新しい広告づくりが重要になってきている。


「よくよく考えてみると、広告界で仕事をする上で、女であることは決定的に有利です。男が口にしたら無礼になりかねないことでも、女であるためにかなり出しゃばって話すことができます」 (「アド・エージ(以下AAと略す)」1966.4.18)


米国の広告代理店を訪ねてみるとかなりの数の女性社員がいる。受付や秘書が女性であるのは当然として、コピーライター、アートディレクター、スタイリストはもちろんのこと、調査部長、人事部長、総務部長までが女性という代理店も珍しくはない。
まさに「女性であるために」そうした職業がうまくいくのかもしれない。


「広告界で仕事をする上で、女でよかったという気持ちに変わりはありません。米国の男性が仕事上のことでは女性を下においておきたがるという考えは、くだらないことだと言わせていただきましょう。女性は、フェアプレーで騎士道的で強い意志を持ち良識をわきまえているのです」 (「AA」1967.4.17)


DKG(デラハンティ・カーニット&ゲラー)広告代理店のマーケティング・サービス部担当副社長のエレノア・ホルツマン女史の手になる報告書『変わりゆく米国女性』によると「女性は従順なほうが好まれると思っているようですが、男性側は自立できる女性を好むという結果が最近出ました」ということである。


「10年前でしたら、男性は私のことを特別視したかもしれませんが、今日では違います。現代では男であろうが女であろうが頭が2つあろうがたいした違いはないのです。
今までのところ私は成功してきましたから、それでみんなが私に興味を持っているのでしょう」 (「カレント・バイオグラフィ」1967.1月号)


広告界に限定しなければ大成功した女性はメリーのほかにも数多くいる。
メリーが興味をもたれるのは、彼女の美貌と自分でも言っている「私は常に一緒に仕事をする男性と危険な関係があるといわれて責められます」 (「ニューズウィーク」1966.10.3)というスキャンダリズムによるところも大きい。
もちろん、彼女自身のパブリシティ上手もあるが……。
したがって「時々、興味半分に私のことを書いた記事を読みますのよ。そうするとどこのご婦人のことを言っているのかわからなくなってしまうことがありますわ」 (「ヘラルド・トリビューン」前出)などというセリフは韜海でしかない。
それはともかくとして、
「女性はよいアイデアのものを買ってくれます」 (「AA」1970.4.20)
という言葉は、メリーの自信のほどをよく示している。
同性に対するこれほどの信頼感がなければメリーは広告に今までほど力を注がなかったであろうし、WRGもよいアイデアの広告づくりに意を注がなかったであろう。

▼妻・夫・家庭


「私は、広告代理店の社長、母、妻の3つの生活全部をキチンとやっていると思います。私は、これという座右の銘は持っていませんが、何かをやればやるだけ物事を処理していく能力が身につくということを知りました」 (「AA」1968.7.1)


メリーはWRGの社長として「私はすべてのアカウントについて考えています」と同じ時に発言しているが、単に社長として決断を下すというばかりでなく、お得意である広告主のための広告アイデアを考えだし、その売り込みにまで行くのである。
逆にいえば、WRGのクライアントは美貌のメリーがいるからWRGに広告の扱いをまかすのではなく、メリーが直接自分の社の広告アイデアを考えてくれるからこそお得意になっているのである。
考えてみると、これだけでも重労働なのにさらにメリーは、母、妻の2役もこなしているという。
母としての役は二つあって、メリーの2人の養女……キャシー、パメラの母親役、そして夫ハーディングと先妻の間にできた3人の子ども……ジム、デビー、ステートの継母役である(23歳のジムは映画制作を勉強中、20歳のデビーはデューク大学で心理学を専攻しており、高校生のステートはフットボールと野球の選手)。
ところでメリーは、WRGの社長および養女たちの母親としては、月曜日から木曜日まですごすニューヨークでその役目をこなし、妻としての役目と3人の息子の継母としての役目は、木曜日の午後に飛行機でダラスに飛んで、月曜日の朝までテキサスのダラスの家で果たしている。


「ニューヨークに勤めている人のほとんどが、1時間も2時間もかかるコネチカットみたいな所から毎日通っていますでしょ。私は週1回、3時間かけてダラスから通うだけです。そういうふうに考えればみなさんよりも簡単なのですよ」 (「ヘラルド・トリビューン」前出)


コネチカットというのはニューヨーク州の隣州のコネチカット州のことで、ニューヨーク市にある企業の経営上層部の人たちの多くはここに住んでいて毎朝汽車で通勤してくる。
もちろん、ニューヨーク郊外のロングアイランドから車で通ってくる人もあれば、ニューヨーク・アップ・ステートのハドソン河畔の高級住宅地から通ってくる人もいる。
その人たちに比べれば、中南部の都市ダラスから週1回3時間かけてニューヨークへ通うメリーのやり方も賢明かもしれない。
また最近のニューヨークにはメリーのような人がふえているらしく、A・トフラーの『未来の衝撃』(徳山ニ郎訳・中公文庫)の中にもオハイオ州コロンバスから毎週ウォール街へ出勤している重役が紹介されている。


「私はまったく異なった2種類の生活を送っています。こうやって家(ダラス)へ帰れば、ほんとうにリラックスして、自分の家庭と家族を楽しむことができるわけです」 (同上)


メリーがこのように2つの生活を楽しむようになったのは、ハーディング・ロレンスと結婚した1967年暮れ以降のことで、それまでの彼女は「自分の時間がありません。WRGと結婚したみたいです。WRGは家族のようなものです。でももっと自由な時間がほしいですね。子どもたちの面倒ももっとみてやりたいし……」(「AA」1967.4.17)とぐちっていた。
もっとも彼女の仕事好きは昔からのことで、DDB時代に夜の更けるのもかまわず仕事をし、それが片づかなければ帰宅しなかったというモーレツぶりが今でも語り草になっている。
だから、


「私は洋服のことにはほんとうに興味がないんです。それに選んだり楽しんだりする時間もないんです。でも、こういう、いつも人様の前に出る仕事なので、現代風に見えるようにはしています」 (「ヘラルド・トリビューン」前出)


ということになって、洋服のことは人まかせになるのであろう。
しかしさすがに夫ハーディングの服装については妻として気を配るようにしている。
その夫について彼女は、「私の夫は、経営について普通の人が20年かかって覚えるようなことを、たった5年間で私に教えてくれました。彼が私に教えてくれたのは、広告代理店のコントロールとマネージの方法ではなく、一般の会社のそれでした。彼はまた、会社の財政的コントロールについてもずいぶん教えてくれました。というのは、彼は非常に厄介な会社(ブラニフ・インターナショナル航空)を自分で経営していますので、とても良い教師です。
また、人の率直な扱い方、彼らに期待してもよいことについても教えてくれました。彼はとても多くのことを私に教えてくれました。ビジネスに関しては、私が知っている中で最大の影響を私に及ぼした人と思います」 (「AA」1971.4.5)
と手放しでのろける。(写真は、パリでの結婚式後の2人)
彼がメリーに与えた助言についてはこの言葉のとおり信じていいであろうが、ただ一つ聞き捨てにできない文句がこの中にかくれている。
それは「5年間で私に……」という箇所である。
メリーが彼と再婚したのは1967年の末だから、このインタビューまでどう数えても3年半しか経っていないのに、どうして彼女は「5年間……」などと言ってしまったのであろう?
この不用意な彼女の発言で、2人の間に秘密の関係が生じた時期を1965年か6年……と想像するのはうがちすぎであろうか?


評論的読み物なので、以後も、敬称は省略。


続く >>


お願い以上のメリーの発言に対する賛同・反対のコメントをお待ちしています。