創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

2009-07-01から1ヶ月間の記事一覧

From The Beginning---Phyllis Robinson and Bob Gage. (1)

"DDB News" June 1974 The 25th anniversary of establishment issue Mrs.Phyllis Robinson Copy-Chief Mr.Robert Gage Chief Art Director INTERVIEWER: Can you remember what was on your minds when you left your jobs to join Berobach and Doyle in t…

(410)ゲイジ、ロビンソンさん、25周年を語る(1)

DDBの略称が、ドイル氏、デーン氏、バーンバック氏の頭文字であることは、いまでは知らない人はいません。しかし、順番は、BDDでも、DBDでもよかったのです。DDBに決まったのは、3人でコインを投げて決めたのだそうです。D、D、Bと出て、落ち着いた社名…

Mr.Bernbach talked for 25 years of DDB (3)

DDB NEWS, JUNE 1974 INTERVIEWER: I know that every publisher in America has asked you to write a book. BERNBACH: But I never said yes before. Now I have. In fact, I'm having lunch with my publisher today. INTERVIEWER: Why did you always sa…

(409)バーンバックさん、25周年を語る(了)

バーンバックさんは、ほんとうに、自著を上梓したのでしょうか? この1974年ころから、国内にアンチ・DDBとでも呼んでもいいような蔭の声がささやきのように広がりはじめたのです。「米国は米国、日本は日本」という名分をかかげて。知的鎖国に近いような…

Mr.Bernbach talked for 25 years of DDB (2)

DDB NEWS, JUNE 1974 INTERVIEWER: Do you think it will be different when you eventually retire? BERNBACH: No I don't. I think the idea is too strong here, and the pool of talent too deep for there to be a difference. Even now much of what I…

(408)バーンバックさん、25周年を語る(2)

バーンバックさん(写真)の発言で、胸を衝かれるのは、DDBにとってトラブルの多いクライアントは断るしかない、というひと言です。この発言を支えているのは、DDBが成長するにともない、広告予算の引き受け水準も上がるが、まだ小さい時に引き受けた…

Mr.Bernbach talked for 25 years of DDB (1)

DDB NEWS, JUNE 1974 INTERVIEWER: At what point did you realize that' the agency you and Ned and Mac started was going to be successful? BERNBACH : Well I think we knew it before we opened, because we had a concept that we strongly believed…

(407)バーンバックさん、25周年を語る(1)

DDBは、1974年6月1日に創業25周年を祝いました。そのクリエイティブ・パワーの凄さと、豊富に育ったクリエイターたちは、米国マジソン街---いや、世界中の広告界の羨望の的であり、目標の一等☆になっていました。DDBが創り出すキャンペーンの新…

The creative life of a DDB copywriter; Ronald Rosenfeld

"The creative life of a DDB copywriter" Ronald Rosenfeld By HELEN KRUGER "Printer's Ink" magazine July 23, 1965 While it is generally accepted that good little copywriters who never split infinitives, never leave widows dangling and cuss o…

(406)DDBのあるコピーライターのクリエイティブ生活

この記事は、つい2ヶ月前に原文が資料庫からでてきたので、掲示しました。ところが、つづいて、バーンバックさんの日経ホールでのスピーチ掲載号『日経広告手帖』(1966年5月15日号)のコピーが手に入りました。それで、ローゼンフェルド氏が手がけたキャン…

(501)『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(了)

ジェリー・デラ・フェミナ氏による『広告界の殺し屋』(原題『真珠湾をくれたすばらしき民族より』1970刊)の第6章でした。クリエイターについての正当な評価、嫉妬による悪評、ゴシップなどが生々しく描かれた章が、あと3章ほどあります。 読み手が、強靭な…

(500)『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(5)

クリエイティブな仕事に就いていると、たいていの人は、ときどき、壁にぶつかるものです。その超え方を、デラ・フェミナ氏は、バーンバックさんからクリエイティブ・ディレクターの重責をまかされたDDBのボブ・ゲイジ氏のスピーチから引用しています。スピ…

(499)『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(4)

あの会議は私で終わりだった。 「本当にやったのかい?」といつも聞かれた。 「もちろんやったさ」 この話はクリエイティブ部門全体に知れ渡った。 クリエイティブ部門の誰もがやったぜベイビー。風向きが良くなりそうだぜ!」と感じていた。 クリエイティブ…

(498『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(3)

〔クリエイティブ検閲委員会〕という名前でなくても、クリエイティブなキャンペーンの息の根をとめる組織は、多くの広告代理店に存在していたようです。もちろん、DDBやWRG(ウェルズ・リッチ・グリーン)にはありませんでした。DDBの場合は、直接の…

(497)『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(2)

書き手のジェリー・デラ・フェミナ(Jerry Della Femina)氏は、『ニューズ・ウィーク』誌に〔ホットな広告代理店〕の一つと折り紙をつけられたデラ・フェミナ、トラビサノ&パートナーズ社の社長でした。 最もらくな職業と錯覚してコピーライターとなった経緯…

(496)『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(1)

ジェリー・デラ・フェミナ(Jerry Della Femina)の『広告界の殺し屋』(栗原純子・西尾忠久共訳 1971)はとも呼べないこともありません。原書『真珠湾をくれたすばらしき民族より』が1970年に米国でベストセラー入りしたことは、2009年4月14日から8回に…

"I love advertisements"

A speach by Mr.Robert(Bob) Gage Seniore Vice President Head Art Directoe, DDB at Art Director Club of Mountreal 1963 In order to tell you how I like to work, I have to go back to when I first met Bill Bembach. I was working for Kelly Nason…

(495)ボブ・ゲイジ氏のスピーチ

ロバート・ゲイジ氏が公の場へ姿を見せることは極めて珍しい。このスピーチ記録も、まず、彼の秘書と仲良くなって---秘書の例に洩れず、切手収集が趣味だったので、浮世絵などの珍しい切手を貼った手紙をしばしば出して---送ってもらった。もちろん、ゲイジ…

(494)創業30周年を祝う パーカー夫人

1979年6月1日---DDBは、創業30周年を迎えました。そのときの『DDB News』は、古顔の回想コメントを特集していました。パーカー夫人も選ばれ、暴露的な談話を寄せていましたが、その号を『日米コピーサービス』誌に貸したままになっていたみたいで、原…