創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(496)『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(1)

ジェリー・デラ・フェミナ(Jerry Della Femina)の『広告界の殺し屋』(栗原純子・西尾忠久共訳 1971)は<悪魔の書>とも呼べないこともありません。原書『真珠湾をくれたすばらしき民族より』が1970年に米国でベストセラー入りしたことは、2009年4月14日から8回にわたって第2章を紹介したときに触れておきました。
「これ、米国の話だろう?」「面白くするために誇張しているんだろう?」「1970年の話だよね?」「日本には終身雇用制の伝統が残っているもの---」
「そう。米国もニューヨークの話だし、40年も前に針小棒大の好きなコピーライターが書いたものだからね。でも、ファッションと違い、世の中はあまり急にはかわらないけどね」としか答えようがないこともたしかです。


「面白い、もっと読みたい」「読みたくない」のご意見をコメントしてください。
ニューヨークでも賛否両論がありましたが、大勢は現実に近い---でした。






年に一度、ニューヨークのコピーライターはパーティを開く。
去年はあるカメラマンのスタジオで開かれたが、200名ぐらいしか入れないスタジオに500人もつめかけた。
思考力さえ失ってしまいそうなほどの騒々しいロックン・ロールのバンドが入っていた。
コピーライターは普通はパーティに出かける人種ではない。だがこればかりは別で、揃って出かけて仕事をみつけたり、誰かに会ったり、人生を変えてくれそうな友人を探したりする。
 
彼らは契約をとりつけようと懸命だ。クリエイティブ・ディレクターが端から端まで行く間に、少なくとも8人が寄ってきて、てんでに言うのだ。
「私の作品帳を持って、月曜日にお伺いしてもいいですか?」
次から次へとだ。「やあ、元気? うまくいってるようじゃないか。月曜日に作品帳を持っていってもいいかな? おれの今いるところはひどいんだ。我慢できないよ。一日もいられない」


すこし昔のことだが、パーティである男に会った。いい男だった。すぐれたライターで、少々変わってはいたが、もの静かで異常なところがなかった。3万ドルかせいでいた。
だがパーティでは窮地に追いこまれているように見えた。
何が起こったというのだろう? その朝、首になってしまったのであった。
彼は言った。「銀行に500ドルあるが、1ヶ月の家賃に248ドル払っているんだ」
お金はどこへ行ってしまったというのだろう? 洋服? アパート? 女……?
とにかく使いつくしていたことだけは間違いない。31か32歳なのに絶望的になっていた。あんな彼を見だのは初めてだった。
「おれはどうしたらいい?」と聞いた。
フリーランスの仕事をしたらどうだ?」
彼は首をふった。
その日、20回もいろいろ電話を入れたようだった。
「ネッドに電話したか? ロンは? エドは?」
聞くたびに、うなずいていたのだから、電話する価値のあるところへは全部かけてしまっていた。そしてもう電話をかけるところもなかったのだ。
首になって1日にしかならないというのに……。


すぐれたライターであったが、あまりにも強情だったので、仕事を失ってしまったのだ。
くず仕事は絶対にしようとしない男であった。リーバ・カッツ・パチオン広告代理店で働いていたが、パッチも生意気な口を封じることができなくて出すことにしてしまったのだ。
パチオンの前はダニエル&チャールス広告代理店で働いていた。クリエイティブ・ディレクターのラリー・ダンストとうまくやっていけなくて首になってしまった。ダニエル&チャールズの前もワイズ広告代理店のロイス・ワイズに「くたばれ」と言って失敗していた。


彼の話によると、ある小さな代理店に電話をしたという。そこは広告代理店というより、ドレス・ハウスといったほうがピタリとくるような会社で、『ウィメンズ・ウェア・デイリー』とか『サンデー・タイムズ』で目にするよう七番街広告(注・ファション広告)をつくっている。ガードルとかブラジャーの広告を手広くやっている。
それはともかくとして、その代理店のオーナーが言ったというのだ。、
「ちょっと寄って、あいさつでもしたいというなら、月曜日に会おう」


彼は、生計のためにまじめににそこへ行くことを考えていた。万一彼を雇ってくれればのことだが。
だからビクビクしていた。
この週末は彼にとってひどいものになるはずだった。別れる時は、ブルブルふるえておびえきった様子をしていた。
パチオンはすでに代わりを雇っていた。
広告こそ人生の目標と考えている22歳になる女の子を8000ドルで雇ったのだ。
私もこの女の子を2、3度誘ったことがあった。
私は職にあぶれたこの男と話すのをやめると、すぐに22歳の女の子のところへ行った。
「今晩は。仕事につきました。月曜から。カッツ・パチオンのところで働くことになりました」
彼女は生き生きとして言った。
「すばらしいじゃないか!」と私。そして計算をしてみた。
パッチはこの娘を8000ドルで雇った。あの3万ドルの男を首にしたことで年に2万2000ドル節約した計算だ。(写真:オノフリオ・パチオン リーバ・カッツ・パチオン広告代理店クリエイティブ・ディレクター)


あの娘もそのうち1万ドルとるようになる。それから1万5000ドル、2万1000ドル……そして3万ドルになることだろう。
そうしたら、彼女も首になった男と同じような立場におかれるかもしれない。
別の新進気鋭の奴が入ってくるのを恐れてビクビクするようになるのだ……。


野球に似ている。長くは現役でいられない。気鋭で、自分がつくるものは何でも効き、仕事を頼まれるのは7年8年、よくいって9年である。
それからは長い下り坂だ。いつかは自分にもそういう日がくることを誰もが知っている。40歳以上のコピーライターに会ったことがないということを考えて、私は死にそうになったものだ。
ほんとうに数えるくらいしかいない。1人や2人なら語るに値する人はいるが、それだけだ。40歳になったら彼らはどこへ行くのだろう? 
とにかく去っていく。象とコピーライターとアートディレクターでいっぱいの島がどこかにあるに違いない。そこへ行くのだろう。


私といっしょに広告界に入った人たちはどこにいるのだろう?
ラスロフ&ライアン広告代理店時代以来ずっと広告界にいるのは一人だけだ。イバン・スタークといってDDBにいる。
彼らがどこにいるか、気にしないことにしよう。
それでは広告代理店は? ラスロフ&ライアン社はすでにない。私はビオー代理店へ仕事をもらいに行ったことがあるが、そこももう存在しない。ドナヒュー&コウ社も消えた。
セシル&プレスピー社と言ったというのだ。こんな社名を耳にしたことがおありだろうか?
現在のレンネン&ニューエルはレンネン&ミッチェルの別の姿だ。
あの、死んだ象と元コピーライターで占められているという島があることを祈ろうではないか。そこには死んだ広告代理店も存在することだろう。


ファッションは移り変わる。広告も同じである。広告の様相は毎年変わっていく。去年の広告も違っている。
自分がつくった昔の広告を見るのはうんざりする。わずらわしい。
若者がすべてを変えていく……言葉、洋服、スタイル、そしてビジュアル・アートも。
学校がすごい若者たちを生んでいく。
パッチがあの32歳になる男を首にした時、首筋が寒くなるのを感じた人がたくさんいるとあなたは考えないだろうか? もちろんそのとおりなのだ。
パッチのところで働いている年俸4万ドルの男を知っているが、8000ドルのコピーライターのことを考えて、ひとりごとを言ってるに違いない。
「パッチが年俸8000ドルのアートディレクターをみつけてきたらどうしょう? 年俸4万ドルの私はどこへ行ったらいいんだ?」と。
マジソン街中の電話は鳴りっぱしである。誰もかれも職場を変えている。遅れをとってはいられない。
若者が年俸4万ドルのアートディレクター、コピーライターを葬ってしまうからだ。
奴らは死神なのだ。
もしかしたら、今私たちが不景気のまっただ中にいるのに、気がついていないのかもしれない。
広告人は他の人よりずっと早く不景気を予知できるものだ。私はいつ経済が腐敗していくかもわかるし、臭いをかぎつけることもできる。
広告主たちが後退していくからである。
代理店の社長はイライラし始め、この後退はコピーライターが雇ってもらえなくなるまで続いていく。 
1969年恒例のコピーライター・パーティは恐怖に満ちており、部屋全体がイライラしていた。十分な仕事がなかったからだ。
電話のベルが鳴りっぱなしで、求人難という時期もあった。
今は違う---もっと悪くなっていきそうな気配さえ感じられる。あの500人という人問---ほとんどがコピーライター---の中で私が雇いたいと思うのはたったの4,5人だ。
パーティは別として、マジソン街全体でも特筆に値するようなコピーライターは25人くらいしかいない。
ニューヨーク全体でである。
J・W・トンプソンのような広告代理店となると、私が賞讃できる仕事をしているライターはロン・ローゼンフェルド1人だった。その彼も1年で辞めてしまった。


参照DDB時代のロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(12345了)


コンプトンのような広告代理店では、おそらく50〜60人のコピーライターがいるはずだが、注目に値するような仕事をしているのは、私の前のパートナー、ネッド・トルマッソだけである。
4年前のパーティと比べて、今年はまったく異なった顔ぶれが集まっていた。10〜15人の常連はいたが、他は広告こそ最も魅惑的な商売だと決め、船出したばかりのにきび面のひょろ長い若者と娘ばかりだった。
コピーライターがパーティのような人前でみせる恐怖と同じ恐怖が一人でいる時も彼らを襲う。
キャンペーンは自分が生んだ赤ん坊みたいなものだ。
自分がつくったキャンペーンを愛し、台紙に貼ってしげしげと眺める。一枚の紙きれなのに、台紙に貼ってセロファンでつつみ、見てもらうために運びまわる。
この街のすぐれたライターは恐れず、ゆったりとしていなければならない。ゆったりと働かなければならない種類の職業だ。
隣りの部屋で何が起こっているか、仕事を失いはしないかなどと気に病んではいけない。だが広告のクリエイティブ分野にはそういった人物は非常に少ない。ほとんどいないと言ってもよい。コピーライターはほとんど似たような生い立ちだ。
中産階層か中産階層の下。この街のコピーライターは『ポートノイの不平』を読んで、異口同音にこう言っている。「おれの人生と同じだ。『ポートノイ』だ。おれは一片のレバーのためにあんなケチなことはしないが……」


広告界の人びとはまごついている。特にクリエイティブ・マンはそうだ。人生全体がひっかきまわされている。この商売に入ったら、それ以前とはうって変わってしまう。
広告のように血の中まで入りこんでしまう商売はない。
しばらくこの世界で働くと、本来の姿とは違った人物になってしまう。アルミニウム壁板業に入っていたら、一体どんな人間になってどんな行動をとっているか……と何度も考えたことがある。


中にはこんなことになる男もいる……スポーツにたとえてみよう。
野球界には人気プレーヤーがいる。だが次の年はこのプレーヤーの人気も冷めきって給料が落ち、トレード要員にされてしまう。
何年か前のことだ。ニューヨークですぐれたクリエイティブ・ディレクターと評価されていた男がいた。次に耳にしたのは、シカゴの代理店で働いているという話だった。シカゴに行くということは、ヤンキースが球界で羽振りをきかしている時、ニューアークヘトレードされるのと同じ意味を持っている。シカゴの後はどこへ行くのか知らない。大金を稼いではいるだろうが、そんなことは意味がない。シカゴはシカゴだ。
マイナー・リーグなのだ。ピッツバーグヘ行く。これもマイナーだ。クリーブランドヘ行く。マイナーだ。
大リーグとは急速にニューヨークに接近してきているロサンゼルスだけだ。ニューヨークとロサンゼルスの間にはシカゴのレオーバーネット広告代理店以外にはない。


つづく?