創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(410)ゲイジ、ロビンソンさん、25周年を語る(1)

DDBの略称が、ドイル氏、デーン氏、バーンバック氏の頭文字であることは、いまでは知らない人はいません。しかし、順番は、BDDでも、DBDでもよかったのです。DDBに決まったのは、3人でコインを投げて決めたのだそうです。D、D、Bと出て、落ち着いた社名になりました。
マークは、ボブ・ゲイジ氏のデザインでしょう。1949年6月1日の創業時にアートディレクターは氏しかいなかったのですから。
そして、コピーライターはコピーチーフの肩書きのフィリス・ロビンソン夫人のみ。

25年後の『DDB News』で、2人のクリエイターが25年間を語り合います。
記事は『DDB News』1974年6月号 25周年特集号より意訳)



バーンバックさんとドイルさんから---新しい広告代理店を設立するんだが---と誘われ、前にいた代理店を辞めてそれに参加すると決めた時の、お2人は、どう考えてその決心をしたか、思い出してださいますか?


ロビンソン:ビル(バーンバックさんの愛称)を含めて、学校の教室を抜け出し、先生もいない、教科書もなしで、これからは自分たちで自分を律していくんだという解放感を、みんなが味わっていたと思いますよ。言ってみれば、求めていた自由---freedam---をやっと手にしたって感じ。


ゲイジ:ぼくは、それまでの1年間、ビルといっしょにやってました。 その以前は、私は、ある広告代理店でいい仕事をしようと頑張っていたんですが、通らないことが多かったんです。で、ビルが新しいアートディレクターを求めているということを聞いて、私のポートフォリオからダメ作品ら除き、本来やりたかった試作品だけをつめてビルに面会しました。ビルは、その試作品が気に入り、採用ということになりました。それから2人で、広告のこれからなどを話しあったのです。
家に帰るや、「ぼくと仕事を始めるつもりでいる人に会ったよ」と妻に言いました。 ぼくはそれまで、ビルのような考えをもった人には一度も会ったことがありませんでした。 ほんと、感謝の念でいっぱいでした。だって、 ひどいジャングルに住みつづけていたも同然だったんですから。


ロビンソン:そういえば私、ビルとネッド(ドイル氏の愛称)に誘われたときのこと、思いだしたわ。ボストンの広告代理店を辞めて、故郷のニューヨークへ帰って働きたいと頼んでおいた人材紹介会社が紹介してきたのがグレイ広告代理店だったの。そのころは、広告ビジネスに精通してなかったんだけど、お2人が待ち構えている面接室へ行く途中のホール壁に、ビルがつくった作品が掲示されていたわね---バン・ヒューゼン・シャツの広告だった。
はっきり覚えている広告はね。窓からぶらさがっている男の絵柄---。もう一つも奇抜な絵柄ものでしたよ---氷の荷車にシャツを乗っけて牽いてる氷屋の絵柄で、添えられているキャッチ・フレーズは「氷日和でしょ? そこの殿方?」 「ワオ! オリジナルな思考って用語は、こういう時のためのものよ」って自分に言い聞かせましたっけ。


:あら、見たかったわ。


ロビンソン:要するに、それほど涼しげなシャツっていいたいわけ。4分の1世紀後の今日、全国紙に載ってても爽やかな気分にしてくれるものだったんですよ。イメージの転換を企てるというのかしら、そして、新鮮で、それでいて普通に使われている口語体で、しかも記憶にのこるキャッチ・フレーズで。感動的で、滑稽で。しかもタダ見ときている---。


:広告が、これほど人びとの意識を変えさせることができるのだということを考えたことがありましたか?


ロビンソン:残念ながら---。ボブ(ゲイジ氏の愛称)なら、あったでしょうよ。


ゲイジ:とんでもない。この25年のあいだ、そんなこと、考えてみたこともありません。目の前の課題をどう片付けるかってことに精いっぱいでしたよ。でもね、いまかかえている仕事を精魂こめてやり遂げるからこそ、クリエイターって成長していくんではないのかな。天下国家を論じるなんて大それたことは、ぼくの柄ではありません。




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参照】お時間があるときに、再読なさってみてください。↓



ロバート(ボブ)・ゲイジ氏「私は、広告が好きだ」

フィリス・ロビンソン夫人とのインタビュー
(12345678了)


「世界中の女性コピーライターへ」
"Advertising Age" 1968年7月15日号
インタビュアー:John Revett
「コピーライター栄誉の殿堂」入りを、コピーチーフで1968年に初めて受賞したときの一問一答です。


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