創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(494)創業30周年を祝う パーカー夫人


1979年6月1日---DDBは、創業30周年を迎えました。そのときの『DDB News』は、古顔の回想コメントを特集していました。パーカー夫人も選ばれ、暴露的な談話を寄せていましたが、その号を『日米コピーサービス』誌に貸したままになっていたみたいで、原文は手元にありません。
訳文だけでも、きのうまでのパーカー夫人つながりで、紹介します。


DDBに出した私の最初のヘッドラインは、「親愛なるロビンソン夫人」でした。
それがみごとに成功。
最もエキサイティングだと教えられてきた広告代理店で駆け出しのコピーライターとしての仕事にありついたのです。
コピー・チーフのフィリス・ロビンソン夫人に出した手紙には、DDBで働けなかったら、3番街のエルの前で身投げするといった意味のことをしたためたものです。
新入社員の歓迎という意味で、ビル・バーンバックがコピー部全員をランチに招待してくれました。
たしかアルゴンクイン・ホテルのすみのテーブルに5人座ったと思います。
ビルは誇らし気に、この代理店は理想的な規模---従業員数45人---になった。
これ以上大きくするつもりはないと言いました。


私はDDBで育ちました。家族さながらに---当時、ビルとフィリスが私にとって両親、大好きなおじさんがボブ・ゲイジでした。
ジョー・ダリーというエネルギッシュなアカウントマン、シ・コーンブリットというトラフィック・マンもいましたっけ。
セールス・プロモーション部門からライターに抜擢されたばかりのボブ・レブソソンをなぐさめたこともあります。
ハートマン・ラゲージで初めての広告を書いたのに、ビルに嫌われてしまって、ボブ・レブンソン自身はDDBでは長持ちしないって思ってましたのよ。


chuukyuu注】ジョー・ダリーは、バーンバックさんのあとを継いで、DDBの社長になった。ボブ・レブソソン氏はVWビートルの初期のコピーライターのジュリアン・ケーニグの退社をうけてコピーを担当した。


ヘルムート・クローンの個室へ入っていったことがありました。
彼は寡黙でめがねをかけていて、私の歴史の教師そっくりでした。
あの時、彼は真っ黒なページに赤い電球を描いていて、ヘッドラインは「さらば、暗室!」とかなんとかだったと思います。
丁度ポラロイドの仕事をとろうとしてた時でした。


それから見かけだけは温厚だったマックスウェル・デーン(写真)。あんまり上品とは言えない西42番通り11へ引っ越した時、彼は西43番通り20ってみごとな言いまわしで呼んでました



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chuukyuu注】ぼくが取材していたころのDDBが入っていたビルは、南側がマンハッタンではきわめて淫猥な店が並んでいた42丁目に面してい、北側の通用口は静かな43丁目に面していた。もちろん、ぼくは43丁目側からのみ、出入りした。Googleの地図の上から斜めに下りているのが5番街。5番街から43丁目を左へ入った2つ目が西20番地ビル。


威勢のよいネッド・ドイル(写真)。彼は私が最初のクライアント詣での時、道端のバーに入ってスコッチを頼んでるのを見て、「シャーリー・テンプルを気取ってるのかい」と言って、いたく私を傷つけたものです。
それから、ビル・バーンバックは、クリエーティブ部門の廊下をうろつき回り、肩ごしにのぞき、ほめたりけなしたり。
おかげで私たちはエクスタシーを感じたり、落胆したり。
ビルに気に入ってもらえれば、広告に使ってもらえることがわかってましたからね。


私の広告にビルが初めて「すばらしい!」と言ってくれたときは、恋人の所にすっ飛んで行き、アルゴンクインで祝いました。
私はついにDDBの1人前のコピーライターになったぞ!ってね。
そしたら、ウエイターが角のテーブルにお座りのドイル氏からですと言って、お酒を持ってきてくれました。


シーヴァス・リーガルでした。

[:W450

いまでなかったら、いつ?


If not now, when?


The New Yorker, December 17, 1973


明日は、バーンバックさんからクリエイティブ・ディレクターを引き継いだボブ・ゲイジ氏のスピーチ「私は広告が大好きだ」を和英両文を一挙に再録。