創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(501)『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(了)


ジェリー・デラ・フェミナ氏による『広告界の殺し屋』(原題『真珠湾をくれたすばらしき民族より』1970刊)の第6章でした。クリエイターについての正当な評価、嫉妬による悪評、ゴシップなどが生々しく描かれた章が、あと3章ほどあります。
読み手が、強靭な神経と風聞にすぎまいという批判力を、そこそこにもっていないと、マジソン街を誤解させてしまうような筆致だが、つづけるべきだ---「ぼくたちは、そこから一粒の真珠を拾うよ」という方のコメントがあれば、あと、機会をみて、つづけてもいいかな---とおもっています。なにごとも記録の世紀ですから---




マジソン街の外では非常におかしなことが起こる。頼まれて地方で講演をすると、真の英雄礼讃に直面する。
彼らは成長して、ニューヨークヘ出てきたがっている。そしてあなたがその町に現われようものなら、ウォーター・クーラーをワイン・クーラーにでも変えてくれると彼らは期待してかかるのだ。
あなたをじっと見て言う。
「おお、彼がここにいる。彼が私たちにどうやったらいいか教えてくれるだろう」
連中はあなたのことを何もかも知りつくしている。

私は講演でノース・カロライナのシャーロッテヘ行ったことがある。隣席の男が言った。
「あなたがつくったエスカイヤ靴下の広告を憶えてらっしやいますか?」
私はエスカイヤ靴下の仕事をしていたことも憶えていなかったし、ましてや彼が言っている広告のことなど思い浮かばな
かった。だが彼はやめなかった。
「あの広告を憶えてないんですか? ほら話をしている男の後ろに女が立っている、あれです……」
その広告を思い出した。だが、この男がそういったものを収集していて、私に追いつこうとしているらしかった。私がノースーカロライナのジャーロッテでスクラップ・ブックになっているのだからぱかぱかしい。

クリーブランドで講演した私の友人も、戻ってくるなり電話をかけてきた。
クリーブランドには、君の奥さんよりも君のことを知ってる奴がいるぜ」
彼はその男の名を言ったが、もちろん聞いたこともない名前だった。友人が言うには、クリーブランドの男は私の書いた広告、講演、『M/C』誌に書いた文章にいたるまでスクラップ・プックにしているということだった。
これがマジソソ街の外での話である。

マジソン街での言い伝えによると、この街以外の人たちはこきおろされるのが好きだという。
この街以外で講演をするのだったら、連中のことを全然良くないと言わなければならない。連中のほうがすぐれていると言おうものなら、嫌われてしまうというわけだ。
「なんて君たちはひどいんだ。まったくひどい。ニューヨークじゃあ君たちのようなのは一人として仕事につけない」
と言ってくれるのを待ちかまえているのだ。
そう言うと「そうだ、これこそニューヨークの広告の話だ」とくる。
どうかしている。


ロサンゼルスで聖者扱いされているのは、ジーン・ケイスだ。ケイスは非常にすぐれたライターで、ヘルムート・クローンというこれまたみごとなアートディレクターと、自分たちの広告代理店を設立した。


ケイスはDDBからジャック・ティンカー&パートナーズ代理店へ移り、クローンはDDBで働いていた。

参照
ユージン・ケイス氏との隔靴掻痒のインタヴュー

ヘルムート・クローン氏とのインタヴュー
chuukyuu注】クローン氏はたしかに、ケイス&クローン広告代理店を設立したが、クローン氏は数年でDDBへ復帰した。ケース氏がどうしたかは、知らない。


ケイスが西海岸に講演に招かれた。講演を終えると言った。
「ここからデたい。この町から飛びださなけりゃ。大嫌いだ!」 
ロサンゼルスの男たちはケイスを気でも狂ったかといった感じで見守った。連中は夕食に誘いたがった。だがケイスは空港へもどしてくれ、ロサンゼルスは以前に見たから食傷していると言い張った。
「ここは知ってるんだ。ジャック・ティンカーで働いていた頃、ここのカーネーション・ミルク社へよくきたものだ。彼らは常に私にひどくあたったからね。この町には耐えられない。空港へ連れてってくれたまえ」


連中はあきらめて握手もそこそこにケイスをニューヨーク行きの飛行機に乗せた。
今日ケイスはロサンゼルスで伝説的人物になっている。「ジーン・ケイス、まったくこの世のものとは思えないほどすごいじゃないか?」
と言うわけだ。もちろんケイスは徹頭徹尾こきおろしをやったのだ。


ニョーヨーク以外はまったく違った広告界だ。テンポもゆるく、生活も楽だ。グリープランドで働いていたら迫放されて行くところがないではないか?
ニューヨークではいつクリーブランドヘやられてしまうかわからない。だがクリーブランドではそれ以上に悪い事態は起こらないのだ。
だからマジソン街と同じような恐怖は持たない。もちろん給料の額も違うし、マジソン街なみの広告主との関係もない。私が知っているような広告界とは違うのだ。
ニューヨークは、すぐれており、それを自覚している真のスター---コピーライター、アートディレクター、クリエイテブ・マン、テレピ・ディレクター---がいる。クリェイティブ・マンの中にはクリーブランドの代理店の社長以上の給料をとっている者もいる。
ニューヨークではクリエイティブ・マンが強調されている。代理店はクリエイティブなものを得るために、連中のクレイジーさにも我慢している。クリーブランドにはクリエイティブなものなどまったくなく、オリジナリティーも乏しい。


まったく異なったゲーム運びをしており、1942年頃の広告界そっくりである。
代理店の社長は依然として広告主の社長とゴルフに行く。代理店の社長は羽振りよく暮しているが、その他は一介の労働者にすぎない。多額の給料をとってもいない。クリーブランドには魅惑的な人物はいない。クリーブランドで「クリーブランドの大物になりたい」なんて思う者はいない。
ニューヨークから魅惑を吸収しているにすぎない。


クリーブランドもすこしづつ変わっていく。
クリエイティブ革命がここでもすこしずつ起きている。
ニューヨークでは広告界は猛烈かつ急速に変わっている。
クリエイティブ・マンがだんだん風を吹かすようになっていく。
いわゆるクリエイティブ広告代理店というのが最も早く成長すると言ってよいだろう。
だが、広告代理店のクリエイティブ分野の生活はこれからも常にたいへんだという気もする。
赤鼻たちで構成されているクリエイティブ検閲委員会が20年もすれば、たぶん規則化されてしまっているかもしれない。
20年経ってもクリエイティブ検閲委員会があると考えるとゾッとするが、この委員会も赤鼻たちで構成されているというわけでもあるまい。
そのかわり、おかしな瞳孔をした年とった男たちがあなたの作品を見ることになろう。
瞳孔の拡大した男たちがチェックするのだ。ナンセンスさはいつまでも変わらないだろう。




この章、おわり