創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(497)『広告界の殺し屋』第6章 クリエイティブ生活(2)

書き手のジェリー・デラ・フェミナ(Jerry Della Femina)氏は、『ニューズ・ウィーク』誌に〔ホットな広告代理店〕の一つと折り紙をつけられたデラ・フェミナ、トラビサノ&パートナーズ社の社長でした。
最もらくな職業と錯覚してコピーライターとなった経緯は、「ジェリー・デラ・フェミナ氏とのインタヴュー」で紹介ずみ。いくつかの広告代理店で経験を積んで1968年に自身の代理店を創業。米国の広告界きっての一言居士的、イタリア系ニューヨークっ子として有名。






今日(1970年前後)のニューヨークには、商品を売る広告をつくり出せる能力のある人がたくさんいる。


問題は、その広告を代理店と広告主に売ることができるかどうかである。


大代理店の中には、なんらかの理由でそういった情況を救い、広告をつくり、しかもうまくやっている優秀な人物がいるものだ。どんな代理店にだっている。
テッド・ベイツ広告代理店にいた時代の私のチームは(私は少なくともそう信じているのだが)そういった上質の広告をつくっていた。私たちはベイツで、かなりすぐれた広告をつくっていた。


ある年、私たちはパナソニック・エレクトロニクス(米国で松下電器のブランド名。のち世界的に統一)の広告を一変させた。
それにはちょっとした話がある。


私は、クリエイティブ・スーパバイザーとしてベイツ社ヘ入った。
だが私は、動物園の一員でしかなかったのだ。ベイツは、広告主に気に入ってもらえるように動物園をつくらねばならなかったのだ。
彼らは、私をクライアントに見せてこう言う。
「ご覧ください。彼はクリエイティブで、いくつも賞を獲得しています。変わった服装をして、お聞きおよびの奇行をやってのける男です」
彼らが言いたいのは、「私たちはこの業界での名手なので、どういったものが必要かは、性格に把握しています。気をお使いにならなくても、他の代理店で得られるのと同質の仕事をして差し上げますから」ということなのだ。


「要するに『ユダの山羊(やぎ)作戦』なのよ」と、うまくたとえた人がいた。
私は外部の人びとの前にひき出されるのだ。
他のライターやアートディレクターが「へえ、デラ・フェミナがあそこに入るんなら、それだけの価値があるんだろうな。アスピリンをくらってる内部の連中の頭の中の、クレージーなハンマーのことなどすっかり忘れて、ネラってみるべきかな」とでも願っているのである。


私はすぐれた仕事をするので、クリエイティブ・マンの間で評判を得ていた。
だからベイツのような代理店でも、一度試してみたくなるような気を起こさせることができると彼らは思った。
私を雇うことで、その代理店の評判をあげようという魂胆だったのだ。それが彼らの計画だった。


私はまず宣言をやらねば---と決心した。
「私は、この代理店の負けてばかりいる雰囲気に耐えられそうもありません」
1目目から日本の電機会社パナソニックについての打合わせがあった。
アカウント・スーパバイザー、アカウント・エグゼクティブ、エグゼクティブ・アートディレクターなど6、7人が出席していた。


私は最初の朝らしく、2、3分のあいだは口をとざしているつもりだった。
一人の男が口火をきった。
「さて、パナソニックをどういうふうにもっていこうか?」


そしてみんな眉をしかめ、パナソニックについてチエをしぼっていた。


私は決心した。まずはくつろいだ気分にしてやるために何か言ってやろう。
年に5万ドルと、5千ドルの交際費をくれたんだから、当然それに値するものを私に期待しているだろうから……。


私は奇声を発した。
「これだ、これでいけるぞ」
みんなが飛びあがった。
私はドラマチックな気分になった。
「ヘッドラインを思いついた。そうだ、これだ!」
「どんなのだ?」みんな口々に叫んだ。


「決まりだぜ」と私。「このヘッドラインでキャンペーンの全体像が浮かんできたぞ!」
もうみんな目を凝らしていた。
「見出しは、こうだ………『真珠湾をくれたすばらしき民族より』」


完全な沈黙。
死の静寂。
アートディレクターはヒステリックになって、床をドンドンやった。
バカにされたと思ったのだ。パイプをふかしていたアカウント・マンはその見出しを耳にするとポカンと口をあけ、パイプをひざに落としてしまった。5分間ほどは火の粉を消すのに大あわてだった。


残りの連中はこう言いたげだった。
「あーあ、おれたちはどこにいるんだ? 何をやったんだ?」


彼らはすっかり意気消沈していた。
私は嬉しくなった。そんなに悪い見出しとは思えなかった。
その後、私を雇ってくれた男にも同じことを言い、同じような目にあわせてやった。
2度目なのでそれほど自然にはいかなかっったが、ともかく目的を達することができた。
どうしてそんなことをしたのかというと、そうすることでペースを決めることができ、私がどんな人間で、どんな感じ方をするかわかってもらえると思ったからだ。


参照第2章は 2009年4月14日から8回にわたって紹介


つづく?)