創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(476)『コピー年鑑』の刊行まで

〔歳時記〕にこだわるつもりはないのですが、「敬老の日」らしいので、古い話に耳を傾けてくださいますか。
書棚の隅から『証言で綴る広告史』(日経広告研究所 2001.5.30)が出てきました。「会員にのみ頒布」とありますから、ほとんどの人の目にふれていないでしょう。70名ほどのいろんなステップにいた人がインタヴューに答えています。[東京コピーライターズクラブ設立への道]という章では、土屋耕一君とぼくがインタヴューを受けました。聞き手は山本武利教授(一橋大学社会学)、書き手は鷺谷克良さん。『日経広告研究所報』の連載をまとめた貴重な資料です。まあ、一刻、おつきあいください。



大阪時代のコピーの勉強が
結果的に『コピー年鑑』創刊に力(抜粋)



 広告の仕事を始められたのはいつからですか。


chuukyuu 1952年に大阪の三洋電機の宣伝部に入りました。
実は、学生時代からアルバイトとして、宣伝部でハウスオーガン(売店向け販売指南誌)の編集の仕事をしていましたので、正社員となって、そのまま仕事を続けたわけです。
その編集の仕事をするかたわら、広告の仕事も手がけるようになりました。
学生時代に同人雑誌の編集をしていた関係もあって、とりわけコピー・ライティングに興味を持ちました。
もっとも当時の日本では、コピー・ライティングという言葉は定着しておらず、コピーライターも「文案家」と呼ばれていました。
コピーライターという呼称がいちばん早く広まったのは大阪だったのじゃないかと思います。
それには松本善之助という人の力があったのです。
この方は、米国の広告雑誌「プリンターズ・インク」の記事の翻訳を中心にした「廣告と販売」という雑誌を大阪・道修町で1949年から出しており、その松本さんの提唱によって、1950年代後半に「大阪コピーライターズ・クラブ」が設立されたのです。(写真:創刊号)
メンバーは松本さんをはじめ、木庭光(松下電器産業等で活躍)さん、西田茂数(高島屋)さん、葦原治(藤沢薬品)さんら、若手で開高健サントリー、当時は寿屋)君、それに私など10人ほどでした。


原著講読で米国流を学ぶ


 具体的にはどんな活動をしたのですか。


chuukyuu 米国の広告界に通じておられた松本さんからアイデアの立て方やコピーの書き方など広告制作の具体的な方法論を勉強しました。
とくに三洋電機では、松本さんを講師に招き、勉強会を開きました。
"Effective Advertising Copy”をテキストに、月に2回ほど仕事の後、原書講読を行ったのです。
読みっ放しではなく、毎回邦訳した分をタイプで打って残しておきました。
このように会社の内外でコピー・ライティングについて学んだわけで、大阪の広告界では1950年代後半にはコピー・ライティングやコピーライターといった言葉は常識になっていたのです。


 大阪でそんな知識を身に着けて東京に来られたわけですか。


chuukyuu 1957年に宣伝課に転勤してきました。
東京に来て間もなくの頃、コピーライターの地位向上のために、会を結成しようという機運が高まり、確か村瀬尚(森永製菓から後に森永乳業に移る)さんから参加を呼びかけられたと記憶しています。
連絡を取り合って10数人で第1回目の会合を持ちました。
ほかに上野壮夫(花王)さん、近藤朔(電通)さん、土屋耕一資生堂)君ら10数人が集まりました。
土屋君と私は同年生まれの若手でした。
後に同年生まれの梶祐輔君も加わりました。
その日が1958年の1月10日だったことから、今後も毎月十日に集まろうということになり、会の名前を「コピー十日会」と名付けました。


1963年に「コピー年鑑」創刊


十日会ではコピーライターの存在を世に知らせるためいろいろな活動をしましたが、印象に残っている一つが、「コピー年鑑」の創刊ですね。
年鑑の発行については私が走る結果になったのです。
三洋電機から日本デザインセンターに移ってまもなく、広告雑誌「ブレーン」(誠文堂新光社)の編集者が訪ねて来て、広告についていろいろな話をしているうちに、「広告ではコピーが重要なのだから、おたくの雑誌でコピー講座を連載すべきですよ」と提案しました。
すると「書けますか」と言われました。
こちらは大阪時代に米国流のコピー・ライティングの作法については勉強していて、いささか自信があったので、連載を引き受け、後に連載をまとめて単行本『効果的なコピー作法』(1962年、誠文堂新光社)になったのです。
大阪時代の仕込みが生きたといっていいでしょう。


【参照】『効果的なコピー作法』目次クリック


その連載中、同社にコピー年鑑発行を働きかけました。
それ以前、1957年にアートディレクターの作品をまとめた「年鑑広告美術」(1988年から「ADC年鑑」 )が美術出版社から出ており、対抗上、誠文堂新光社も何かを発刊する必要に迫られていたこともあったのでしょう。
この申し入れはOKになりました。
十日会の会合の度に年鑑の発行が話題になっていただけに、これは大きな成果といえ、年鑑発行のメドが立った1962年には「コピー十日会」を「東京コピーライターズクラブ」(TCC)と改称し、翌年の1963年5月15日に正式発刊の運びとなりました。


ことばと視覚的映像の結合を重視


 では、その年鑑に採用する作品の選択基準はどうだったのですか。


chuukyuu 年鑑の創刊号の序文で会長の上野壮夫さんが書いておられるように、年鑑に掲載する広告作品を選ぶ際は、「ことばと視覚的映像との適切な結合」を重視しました。
だから「コピー年鑑」といってもコピーだけを抽出したものではなく、視覚的造形を含めた全体の出来栄えを基準に作品を選びました。
「コピーライターは文章家である以上に、優れたアイデアとゆたかなビジョンの所有者でなければならない」という考え方に基づくものでした。
審査員は「十日会」からのメンバーが中心で10人ほどで構成しました。会長の上野壮夫さんのほか蟻田善造、近藤朔、竹岡美砂、村瀬尚、土屋耕一などの諸氏に、私、それにアートディレクターズクラブから向秀男さんと山城隆一さんにも加わってもらいました。 地方のコピーライターの中かからすぐれた新人を発掘することも狙いの一つでした。 
「新入賞を取らなければ、東京コピーライターズクラブのメンバーになれない」という決まりでした。
また審査員の作品は賞の対象とせず、そのかわりに1,2ページを与えて自分の作品を紹介することにしたのです。


DDBのバーンバック氏を信奉


 コピー年鑑が出てから、しばらく後にD・オグルビーの原著を翻訳して『ある広告人の告白』を出版されていますね。


chuukyuu 私も翻訳者の一人になっていますが、ほとんどの翻訳を手がけたのは松岡茂雄君です。
松岡君から話か持ち込まれた時、まじめな本で、コピーライターの地位向上の一つのステップにもなると考えOKしました。
出版社に交渉したり、この本に掲載する広告作品を集めたり、校閲などは私が担当しましたが、翻訳作業はほとんど松岡君がやったのです。
1967年に出版したこの翻訳本はおかげさまで評判もよく、広告界の話題を集めました。
電通の吉田秀雄社長時代に専務だった島崎千里さんに、コピーライターだけではなく、広告界全体のイメージを高めたと感謝され、高級料亭で一席設けていただいたうえに、オメガの時計までちょうだいしたほどです。
オグルビーがこの本で主張していることは、たしかに立派ですし、教えられることも多いが、調査マン出身のためか、クリエイティブが調査に縛られ過ぎている点もなきにしもあらずです。
DDBのW・バーンバックの信奉者である私は、コピーライターとしてはバーンバックさんの方が上かな、と思わないでもありません。


>>土屋耕一氏による『地位向上への皆の思いが結実 四十周年を控えて次の飛躍へ』