創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(477)『コピー年鑑』の刊行まで(続)

大兄、学兄という尊称がある。その上を雅兄と書く。この上はない。ぼくが、雅兄を冠する知り合いの数少ない一人が、土屋君である。ありあまるほどの才能の持ち主で、怒った声をきいたことがない。『証言で語る 広告史』(日経広告研究所 2001刊)の語り口をみても、遺漏がない。頭脳が明晰なのである。埋もれさせておくにはあまりにも惜しい証言なので、奥方の許しを得、取りこませていただいた。目にしたTCCの会員は、若い人たちに言い伝えてほしい。




地位向上への皆の思いが結実
四十周年を控えて次の飛躍へ 


土屋耕一氏(当時、資生堂宣伝部員
        現在はフリーランス・コピーライター)=取材時2000年


 コピーライターになられたきっかけは何だったのですか。


資生堂のコピーライター第1号


土屋 フリーランスのライターとしてラジオ向けの雑文を書いていた時に、ある企業がコピーライ夕ーを募集していることを聞きました。

それは1956年のこと、その頃はコピーライターという言葉は使われておらず、「文案家」と言われていたのですから、正式には「文案のできる人」を募集していたことになります。

最初はどこの企業が募集しているのかを伏せたまま、電通が窓口になって募集していたのです。

試作作品を提出するなど採用試験が進んでいって、やっと募集している企業が資生堂であることが分かりました。

いままでは宣伝部の部長や課長が書いていた文案(コピー)を、それができる人材を採用して専門職として育てていこうとするための人材墓集だったのです。

テストが繰り返し行われるうちに、最初百数十人いた応募者が絞られ、最終的に私ひとりが嘱託として採用されました。

ですから、私か資生堂での専任コピーライター第1号というわけです。


 それで、すぐにコピー・ライティングの仕事を始めたのですか。


土屋 最初は先輩たちに書いては直され、書いては直されの毎日でした。

部長が飲みに連れて行ってくれた時にも、自分の書いた文案を私に見せて感想を求める。

そこからコピー談義に入る。

上司、先輩たちは初のコピー専門職として育てようと懸命だったのです。

こうした社内での教育訓練のほかに、おいおい他社のコピーライターたちとも顔見知りになり、コピーについて話し合う機会も増えてきました。

そのうちに、互いに連絡を取り合って集まろうじゃないかということになり、1958年の1月10日、銀座7丁目にあった文春倶楽部で会合を持ったのです。

資生堂からの私のほか森永製菓、花王、三共、昧の素、高島屋などでコピーを書いていた10数人が出席したのですが、この時が初対面の人も多く、「この人があの商品のコピーを書いている人か」といった具合で、それぞれのコピーについて感想を述べ合い、会は盛り上がりました。

そのうちに誰言うともなく、こうした有意義な集まりは1回で終わるのはもったいないということになり、毎月10日を定例会合日に決めたのです。


 その会では具体的にどんな活動をしたのです。


土屋 まず互いに自分の作品を待ち寄って合評会をしました。

この時には、特に森永製菓の村瀬尚(後に森永乳業)さんのコピーがうまいなあと思ったものです。

このようにしてそれぞれの能力をこ高めると同時に、コピーライターの社会的な地位の向上を図ることも「十日会」の大きな目的だったのです。


「年鑑広告美術」に働きかけ


広告制作者の団体としては、すでに1957年に「東京アートディレクタークラブ」(ADC)から「ADC年鑑」の前身である「年鑑広告美術」(美術出版社刊)が出版されていました。

しかし、当初この年鑑で紹介される広告作品のクレジットには、アートディレクターはもちろん、デザイナーやイラストレーター、カメラマン等の名前は出ていたけれど、コピーライターの名前は出ていなかった。

ことほどさように広告制作においてコピーライターの存在は軽く扱われていたわけです。

そこで、早速ADCに働きかけて、1年後にはコピーライターの名前が出るように改めてもらったのです。

とにかく、コピーライターの存在を認識してもらうには、他の広告関係団体とのつきあいが大切と、各団体との連携を築きました。そのうちに、1954年に「全日本広告技術者協会」が設立され、あらゆる広告制作関係者が東京・日比谷の帝国ホテルに集い、皆がベレー帽をかぶって気勢を上げました。

また年鑑の発刊がTCCの重要な課題でした。

特に私はコピーライター地位向上のためには、「年鑑広告美術」の向こうをはって、コピーを主眼に広告作品を選んだ年鑑の発刊が欠かせないと思っていました。

そこで私は「十日会」の集まりなどの際には「年鑑が必要、年鑑を発行しよう」と言い続けていました。

それを聞いた西尾忠久さんが出版社に話をつけてくれて、懸案が実現の運びとなったのです。

「コピー年鑑」とはいえ、広告はコピーのみで成り立つわけではなく、広告作品全体の中でのコピーの優劣を判断するという審査基準で作品を選び年鑑に掲載しました。

ただ、作品につけるクレジットではコピーライターをトップに据えました。

「年鑑広告美術」で当初コピーライターの名前が無視されたかたかたき討ちかな(笑)。もちろん、アートディレクターの名前は二番手に載せましたよ。

その「コピー年鑑」も平成2年からは「TCC広告年鑑」と改称しています。

私たちの活動もあって、コピーライターの評価が定まり、あえて"コピー″をうたわなくともよくなったことの表れでもあるのです。


広告制作会社へ転進


 1963年に出たその「コピー年鑑」の創刊号では、土屋さんの作品は審査員のページに掲載されていますが、それは資生堂の広告ではなく、東レの広告ですね。


土屋 1960年に資生堂を退社して、広告制作社社のライト・パブリシティに移ており、東レを担当していたからです。
1960年代(昭和35年)までは広告制作者は主に広告主企業内で活躍していましたが、60年代からは広告制作会社がいい仕事をするようになり、私に限らず企業内の宣伝部から制作会社に移る人が次々に出てきました。

その意味では60年代は広告制作会社の時代といえましょう。

先にお話しした広告制作者たちのベレー帽の集いは、いわゆるサラリーマンではなく、広告マンであるという意気込みの象徴でもあったのです。

そして75年(昭和50年)あたりからは、制作者は会社から独立して、フリーランスとして活動する時代を迎えるのです。

私か資生堂を退社したのは、こうした時代の流れに乗ったというだけではなく、資生堂ではラジオ・テレビCMが増えてきましたが、私自身はグラフィックの仕事をやり続けたいと思っていましたので、それを専門に手かけているライト・パブリシティに移ったこともあるのです。


60年代は機能主義の時代


 「コピー年鑑」が出た頃の広告作品はどんな傾向のものが多かったのですか。


土屋 年鑑創刊号での私の東レの広告のように60年代の広告は機能主義の時代と言え、コピーは商品のメリットをきちっと語っていました。

それがや70年代に入って、ライフ・スタイルの表現時代になり、次第に感覚的な表現で商品の説明をする傾向が強まってきました。

その後、それが行き過ぎて、いわゆる"モノ離れ”広告へと進んでいくのですが、これをどう修正していくか、コピーを含めて広告表現全体の課題であったと言えましょう。


 最後にこれからのコピーライターのあり方についてひと言……。


土屋  平成13年(2001)には、東京コピーライターズクラブが設立40周年を迎えます。

「コピー十日会」からクラブ設立までの問に活動した人たちの中にはすでに鬼籍に入られた方も多く、私をはじめ当時のことを知っている者が少なくなってきました。

このため、わが国におけるコピーライター誕生の歴史をちゃんと記録にとどめ、後世に残しておく必要があるとの思いが私たちに強まっています。

40周年を機に、クラブの活動を中心にコピーライターの活躍の足跡をまとめた「クラブ史」をまとめようと目下、資料集めに取り組んでいるところです。

こうして過去を振り返ることで、これからのコピー・ライティングのあり方も見えてくるのではないかと思っています。(文責・鷺谷克良

同書に収録されている土屋君のプロフィール

つちや・こういち 昭和5年東京・麻布生まれ。1953年フリーランスのライターとなり、1956年資生堂宣伝部入社、1958年「コピー十日会」に参加、後に「東京コピーライターズクラブ」(TCC)創設メンバーの一人。1960年ライト・パブリシティヘ移り、後に副社長。1970年独立して東京・青山に事務所を構え、平成9年には東京・南平台に移る。平成5年から9年に愛知県立芸術大学客員教授。主な著作には『土屋耕一のガラクタ館』(1975年、誠文堂新光社刊)
『コピーライターの発想』(1984年、講談社刊)、作品集『土屋耕一全仕事』(1984年、マドラ出版)、得意とする回文集1『軽い機敏な仔猫何匹いるか』(1986年、角川書店刊)など多数。

>>大阪時代のコピーの勉強が結果的に『コピー年鑑』創刊に力(chuukyuu)