創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(824)『アメリカのユダヤ人』を読む(41)

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死滅するか?


ユダヤ教存続の高価な犠牲  (2)




 ユダヤ教の本質は非知的ではないのだが、現実にはマスコミ媒体と同
様、最小公分母にしか共感されない。
だからアーサー・ハーツバーグ・ラビが私にこう語ったのである。
「14歳になると聡明な子供は去っていき、25歳になるとフイリップ・
ロスのような小説を書きます」


 もう一つの条件が知識層の疎外感をさらに深める。
ユダヤ教を馬鹿にしているのは知識層だけではないが、彼らは大きな利点
を持っている。
それはユダヤ人共同体外に住む世界を持っていることである。
アメリカの宗教的多様性から逃れうる幸運な数少ないアメリカ人の一部でも
ある。
本とか絵や音楽に熱意を持っている彼らは、生活にもそういった雰囲気を漂
わせている人々に深い連帯感を感じている。
だから大学教授は他の人々よりも異種族間結婚をする可能性が強い。
異種族間結婚だなどと思ってもいない。(注5)


午後6時以後もアカデミックな社交社会からユダヤ人教授を引き離すことはで
きないし、アーチスト仲間からユダヤ人アーチストを切り離すこともきないし、
科学者仲間からユダヤ人科学者を切り離すこともできない。
彼らはまず知識層であって、ユダヤ人であることは二義的なことにすぎない。


 この問題にユダヤ人共同体がどぅ対処したらいいかは一目瞭然であろう。
ユダヤ人共同体が知識層をユダヤ教にひきつけたいと願うなら、ユダヤ教が刺
激に富んでいることを知識層に示すべきである。
ユダヤ教的価値基準を知識層の言葉に鋳なおすべきである。
不可能な作業ではない。
ユダヤ教ほどの知的な伝説を待った宗教があろか?
ユダヤ人は本の虫ではないのか?


事実、いろいろな努力が行なわれている最中である。
共同体と知識層との和解を意図して1945年にユダヤ人委員会がコメソタリー
誌を発刊した。
知識層に非ユダヤ人街的・非教区的な方法でユダヤ人的なものを考えさせ、ひいて
は自分がユダヤ人であることを再評価させるのが狙いであった。
ユダヤ人共同体の堅実なビジネスマン――連合体やユダヤ人アピールを支援したの
と同じ人々――によって支援されているブランダイス大学も同じ線にそった試みで
ある。同
大学は、宗派に属さない教育をユダヤ人の後援でユダヤ人的な雰囲気のなかでやろ
うという野望を持っている。
イェールが会衆派教会信者的、スワースモアがククェカー教徒的であるように、ユ
ダヤ教徒的な狙いを持っているだけのことでもる。ニューヨークのユダヤ人美術館
も同じ趣旨で運営されている。
ユダヤ神学校が所有運営してはいるが、宗教に関連のある古い祈りのショールや九
手燭台などとともに最新前衛美術の展示にも努めている。


 以上の諸企画はかなり成功している。
コメンタリー誌は一流雑誌の一つに、ブラソダイスは一流大学の一つに数えられて
いるし、ユダヤ人美術館は前衛美術が観賞できる最高の場所の一つである。
若いユダヤ人知識層もかなり敬意を払い注目している。
宗教体制側のお歴々もさ芒かしご満悦であろう。
ユダヤ人知識層がユダヤ人の伝統に共通の立場を見出しているのだから喜んでいい
はずである。


 ところがさにあらず、喜んではいない。
前述の三機関はユダヤ人共同体指導者から矢つぎ早の攻撃を受けている。
コメンタリー誌は「ユダヤ人の認識を強化できない」記事ばかりを掲載していると
叩かれて、パドホレッツ編集長が「ユダヤ教が存続すべき理由は全然ない」と公言
したと語り草にされている。(注6)
ブラソダイスも学生を「立派なユダヤ人」にしない。
同校のヒレルヘの参加学生数は非ユダヤ人大学のヒレルと同様の少なさだと非難さ
れている。
ユダヤ人美術館も「ポップアートのどこがユダヤ人的か」知りたがるユダヤ神学校
のお歴々の攻撃の的である。
ユダヤ人的内容が「普遍的」内容のどちらを強調すべきかで理事会はもちきりであ
る。
1965年以来この美術館の館長で、最近辞めたサム・ハンターは教区的なものより
普遍的なものを熱烈に擁護してきたが、体制派の権力のほうが優勢だと言っている。


 この間断ない攻撃こそ、知識層をユダヤ人共同体から引き離す原因ではないだろう
か? 
共同体は、知識層が異教徒も含めたより大きな世界に属しているという意識を捨てる
ことを望んでいる。
体制派にとっては、「本」の理念とか無制限の真理探究とかユダヤ人の学問に対する
伝統的熱意は、分離主義や排他主義孤立主義――真正正統派の厳格で実際的な孤立
主義やリベラル正統派
イデオロギー孤立主義ではなく、混乱した意識下の半信半疑の孤立主義――よりも
重要ではない。
体制派が知識層に言うのは「絵を描いても本を書いても異教徒の友人を訪ねてもいい。
だが精神と心はわれわれに属していーることを忘れないで」である。


 ユダヤ人作家が「ユダヤ人」として分類されることを嫌がるたびに見せる体制派の反
応を観察してみると、もっとよくわかる。
こういう嫌悪感を表現した作家――ウェイドマソ、ペロー、ロス――は多い。
ブルース・ジェイ・フリードマソは作家を代表して言う。
「そりゃあ、F私の作品にはユダヤ人的特性があるさ。それを消すことはできないかも
しれない――なくてはならせないものかもしれない。でもでも付随的なもので、私の作
品の心臓の鼓動ではない」
こういう意見を誰かが公言すると、体制派の連中はたちまち非難を浴びせにかかる。
会堂の機関誌は例のユダヤ人共同体の嫌がらせの万能語「自己嫌悪」を使って不運な作
家を非難する。


 共同体には作家の真の動機がわかってはいない。
自己嫌悪ではなく自衛本能である。
作家には共同体が望んでいること、すなわち自分の真の姿とほど遠い状態を強制される
ことの恐れが深層にある。
共同体は作家を外部の世界から引き離して――知的自由を奪うことになるにもんんわら
ず――立派な自由ユダヤ人にむ仕立てたいと願っている。
作家がこの引き離しを恐れるのは自分がユダヤ人であることを恥じているからではなく、
ユダヤ人以外のなにものでもない、何にもましてユダヤ人であることを先行させた――
それこそ共同体が望むことなのだ――人間になるのが嫌だからである。


作家の心の片隅にも共同体に妥協してもとのサヤに納まりたいと望む不安定な気持ちが
あるので、反動はより強くなる。
彼を攻撃する人々と同様、彼も異教徒を恐れる気持ち(孤立主義の遺産)から完全に逃
れることはできない。
しかしどうしても逃れたい。
自分の中にたまっている最高のものを書くには、逃れなければならないことがわかって
いる。
すべてのユダヤ人作家はこの内部闘争を経て書かなければならない。
自分の作品にマツオ・ボール・スープを多すぎるほど盛りこむか、その臭みをさせないよう
にできるだけ遠くへ引き下がるかの2つの誘惑と戦わなければならない。
そしてユダヤ人共同体から離れていない限りこの戦いに勝てないことも本能的に知ってい
る。
ユダヤ人作家(すべてのユダヤ人知識人)が疎外感を持っていることは常識にさえなって
いる。
重要なのはその疎外感はユダヤ人的な「外部」の世界からのものではないということであ
る。
彼らが拒否している世界――その世界が彼らを拒否するがゆえに――はキリスト教の世界
でなく、ユダヤ人の世界なのである。


 だからユダヤ教が独立した一つの宗教でなければならないとする形式的な弁明はもっと
もらしくはあるが、やはり他の弁明と同様満足のいく弁明ではない。
他の弁明が成り立たないのと同じ理由で、この弁明も行き詰まってしまう。
彼らの心の中には昔ながらの妄想、異教徒を恐れる気持ちが巣くっている。
「異教徒」はユダヤ人を傷つけ堕落させる、
だから「異教徒」から離れていなければならない。
こういう考えが共同体の指導者がユダヤ教の存続を正当化するために考え出し得る最良策だ
としたら、われわれはそれに代わるべき手段を構じなければならない。
ユダヤ教が消えてしまうと仮定して、個々のユダヤ人に与える影響は? 
恐ろしい影響か? 
それともためになる影響か? 存続に反対する意見はあるか?


 回答を得るには勇気を出して吐き気がするほど大嫌いな異教徒聞結婚を偏見のない目でく
わしく見るべきである。



 この項、未完。つづきは27日(土曜日)