創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

[6分間の道草](840)『アメリカのユダヤ人』を読む(42)

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今の★数累計です。


死滅するか?


ユダヤ教存続の高価な犠牲  (3)

(承前)
 異教徒間結婚の調査はいろいろある。ほとんどが統計的なもので、どのユダヤ
人共同体が異教徒と結婚する率が高いかとか、キリスト教に改宗する数とか子供
ユダヤ人として育てる者の数などについての回答が得られる。
心理面を扱った調査も若干あり、異教徒間結婚に踏みきった理由を分類している。
しかし私の知る限りでは、異教徒間結婚の失敗や成功を測る徹底的な調査はない。


 異教徒間結婚の反対者は、それに踏みきった人を非難する動機にはこと欠かな
い。
異教徒がユダヤ人と結婚したがる理由は推測できなくても、ユダヤ人が異教徒と
結婚したがる理由はよくわかる。
すべてを自己嫌悪のせいにする。
ユダヤ人であることから逃れるために異教徒と結婚する。
ユダヤ人共同体にとどまったとしても、シクサ(非ユダヤ人の娘)である彼の妻が彼に
一種の威厳を持たせ他の者よりも「ユダヤ人的でない」立場に立たせてくれる。
自己嫌悪でなければ打算である。
仕事のコネをつけ、社会的地位を向上させ、出世の階段を一歩でもあがるために
異教徒と結婚する。
そうでなければ、「ノイローゼ」が原因である。
不幸な子供時代を送ったので親に反抗し親を傷つけるために異教徒と結婚する。


 そうした理由で異教徒と結婚するユダヤ人もいるかも知れない。
だが私はそうした理由による異教徒間夫婦を一組も知らない。
もちろん他人の心まで読めはしないが、たいていはなにかしらの形となって外に

われるものである。
異教徒間結婚をした私か知っているユダヤ人は自己嫌悪のそぶりを感じさせない
人ばかりである。
ユダヤ人であることを隠しもしないし、ユダヤ人の友人をうとんじもしないし、
ユダヤ野郎」に関する悪意ある冗談もとばさないし、子供が手ぶりで話しても
戸惑いも感じない。
どちらかと言えば、多数派のユダヤ人よりも何ごとにも鷹揚である。
結婚のおかけで社会的、経済的「出世」したユダヤ人を私は一人しか知らない。
異教徒の妻が名家の出であったからだが、彼も一流の科学者である。
人である多くの夫婦と同程度だと思う。


 これは信頼できる数種の調査の結果からいえる。
どの調査でも、地域に関係なく似たような結果が出ており(注7)、異教徒間
結婚はノイローゼの現れてでばない。
事実、この異教徒聞夫婦は、そうでない人々よりも幼児期の家庭の絆からユ
ダヤ人、非ユダヤ人双方ともうまく解放されているという兆候が見られる。
この結婚はユダヤ人であることから逃れるための手段でもない。
二世代目よりもユダヤ人であることを恥じない三世代目のほうが異教徒間結
婚がはるかに多い。
異教徒聞結婚は社会的、経済的地位を得るための手段でもない。
今日異教徒と結婚している大多数のユダヤ人はその親と同程度の社会的経済的
地位にある。
調査や個人的観察からもわかるように、異教徒間結婚もふつうの結婚と同じで
いろいろな理由から結婚に踏みきるが、最も平凡な理由は敬虔な者は口にしな
いが――愛である。


しかし異教徒間夫婦には違うところが一つだげある。
恋におちても結婚に踏みきるまでの時間が長いことである。
まず克服しなければならない不安かおる。
信仰を度外視した結婚をする者に待ちかまえている困難さを事あるごとに聞か
されて育っている。
不安を克服しても、結婚に踏みきるのをしぶるかも知れない。
親たち(統計の結果では特にユダヤ人の親)の大反対が目に見えているからで
ある。


 そしてついに結婚式の日がくると、親たちの予言が現実化するように思えて
くる。
宗族や共同体の潜在的恐怖や敵意のすべてがむきだしにされる。
式を執行してくれるようなラビはいない(もちろん神学上の理由からである)。
キリスト教教会で挙式しても、ユダヤ人親類縁者は終始眉をひそめているし、
機転のきかない牧師がキリストの名を口にでもしようものなら……。
結婚登記所や花嫁の家で式を挙げてもいいが、若い二人が非ロマンチックに感
じよう。
それにどこで式を挙げても挙式中に緊張状態が表面化してしまう。
招待客がシャンペン・グラスを重ねるにつれて爆発の危険が大きくなっていく。
セントルイスからきたエドじいさんが昔の反ユダヤ主義的物語をしたらどうし
よう? 
シカゴからきたハイミーおじさんが反異教徒的な話をしたらどうしよう? 
若い2人は敵意と無理解と疑いにみちた雰囲気の中を新婚旅行に出発する。
初めがこうだとどんな恐ろしいことが先に待ちうけているか!


 おかしなことに、恐ろしいこ恚は待ち受けてはいないのである。
悲嘆にくれていた親たち、パーティに出席していたおじさんたち、教会で陰険だ
った親類縁者「特別の問題」を始めるのではなく終わらせてくれるのである。
親が警告していた「こわいこと」は起きない。
喧嘩のときに異教徒の妻が夫を「薄汚ないユダヤ野郎!」とののしるのをおそれ
てご破産にたった婚約がどのくらいあろうか! 
ユダヤ人の親が子供にたきつける話では、この瞬間に妻の「真の感情」が暴露さ
れるという。
しかし、実際にはそんな恐ろしい瞬間は訪れない――訪れても大事にはならない
のである。
妻が夫に腹を立てて思いつく限りの恐ろしい言葉、しかも夫がやり返せないような
言葉をロ走るまでのことである。
喧嘩が終わってしまえば、2人ともキスをして仲直りするぐらいの良識は持ちあわ
せている。
夫婦というものは喧嘩の時には心にもないことを口走るものである。


 ユダヤ人の親が子供を震えあがらせようとする馬鹿げた話のすべてにこれと同じ
ことが言える。
「異教徒の女はユダヤ人よりも姦通が多い」「
{異教徒の夫はユダヤ人の夫のような扱いをしてくれない」
冗談ではない。
私の知っている異教徒間夫婦にはそんなことは見られない。
一般論たというなら、離婚統計(完璧な統計はない)に現われるはずだが、異教徒
間結婚の離婚率はユダヤ人同士よりも高くはない。(注8)  
「こわいこわい話」はユダヤ人の親が異教徒間結婚に反対するロ実でしかない。
親たちを震えあがらせているのは、異教徒と結婚した子供が自分に背を向けるので
はないか、自分がユダヤ人なので見下すのではないか、「異教徒」の中にはいりき
ってしまって家族の集いに顔を出さなくにるのではないかしいった恐怖である。
息子がこんなひといことをしたくなくても――「息子の嫁」がそうさせるかもしれ
ない。
あの女の家族ときたら冷血漢揃いだから! 
姻戚同士が当然、持つべき暖かくくつろいだ集まりを持つことができようか! 
背景が違うし、何百マイルも離れているのにいったい何の共通話題があろうか!


 しかし忌むべき事態は起きはしない。
親をうとんじるどころか、異教徒と結婚した息子は前よりももっと忠実になる。
ユダヤ人を「見下す」と責められはしないかとびくびくしている「息子の嫁」がす
すめるからである。
双方の両親もともに集まる機会が多くなり、しかもユダヤ人同士みたいに親密にな
る。
ユダヤ人の姻戚同士だけにあるとされる暖かさは伝説以外の何ものでもない。


 異教徒と結婚したユダヤ人が両親との縁を切る場合には、両親側に問題がある。
息子を許すことができないからである。
しかし長くは続かない。
たいてい婚約発表後24時間以内に和解す。
とるに足らない神学上の理由のために娘の結婚の手はずを整える喜びや息子の結婚
に涙する喜びを拒むことができようか? 
そして最初の孫が生まれる頃には、冷戦のあとかたもなくなっている。


 友人が異教徒の娘と20年前に結婚した。
母親は混乱しヒステリカルな場面も続出したが、結局は事情をのみこんだ。
数ヶ月経つと異教徒の嫁は同じ宗教を持って生まれたかのように家族の一員となり、
子供が生まれるたびに息子夫婦を訪ねてお祝いの品を渡すのが母親の大の楽しみと
なった。
その友人の弟も異教徒の娘と結婚することに決めた。
友人が電話で伝えると、電話の向こうで泣き声が聞こえた。「
だって母さん、ぼくだって異教徒と結婚しているんだよ、母さんはペギーが大好き
じゃないか」
「なんだって? ペギーは異教徒なの?」と母親が叫んだ。


 異教徒間結婚は「子供のために良くない」とよく言われる。
感情の健全な発達に必要なよりどころに欠けるから分裂気味になる……自分が何
人であるかわからないので正常な感情を持てない……どれも馬鹿げた迷信である。
精神医によれば異教徒間結婚による子供の感情障害は、両親がユダヤ人の子供よ
り件数も多くはないし強くもない。
何人であるかはっきりしないとしてもたいした影響はない。
「お母さんはユダヤ人なの?」
と異教徒間結婚による子供が聞いた。
「いいえ、でもお父さんはユ、ダヤ人よ」
「じゃあ、ぼくはどうなの?」
「そうね、半分ユダヤ人ってとこよ」
「大きくなったら、完全なユダヤ人になるのかな?」。
この子の疑問には根深い不安はないように思われる。
私が知っている異教徒間結婚による。
多くの子供と同様、どちらかわからなくても、この子もそれを甘受しているよう
に見える。
子供はどちらかわからない状態が好きだからではなく、あまり意味がないからだ
ろう。
半分ユダヤ人ということは、ブラウンの毛髪が混じっているくらいの意味でしか
ない。


異教徒間結婚の反対者が何よりも嫌うのは、半分ユダヤ人の子供はいかなる宗教
教育も受けず、ユダヤ人共同体に対する一体感がない、ユダヤ教から影響を受け
てもいないという点である。
これは正しい。
異教徒聞結婚をした両親は「子供に何を教えるべきか」について話し合うが、結
局、何も教えないことにするか、不思議な複合宗教に落ちつく――ある家庭では
クリスマスになねとまくさ桶に九手燭台を置く。

こうした子供たちはユダヤ教の形式と諸機関からの影響は受けない。
祈りの言葉を知らず日曜学校にも親に連れられて会堂にも行かない。
だが形式や諸機関が維持すべき普遍的論理の影響は受けている。
異教徒間結婚による子供は、私の知る限りでは、ユダヤ教に属していると思われ
るすべての姿勢を両親から譲り受けている。
親たちは教育に対する情熱を持っているし、家族の堅い絆も道徳基準もあるし、
慈善を信じてもいるし、政治に関してもリベラルな見解を持っている……これは
みなユダヤ人共同体が持っているものと同じではないか。
親たちはすべて点で――形式的、宗教的なものは除いて――子供をユダヤ人とし
て育てているのである。
彼らは家族や共同体の反対を無視し信仰を度外視した結婚に踏みきったのだから、
ふつう以上の勇気と信ずるものに身を捧げる気持とがあって当然であろう。
彼らほど「すべての人間は唯一の神の子であり、神の目にはすべて平等である」
という唯神論を真剣に考えている者はあるまい。


 だから異教徒と結婚するユダヤ人はほとんどが理想家に違いない。
だからユダヤ教の理想を子に伝えていく。
ユダヤ教の理想とともに別の何かも伝えていく。


明日に、つづく。