[6分間の道草](841)『アメリカのユダヤ人』を読む(了)
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ユダヤ教存続の高価な犠牲 (4)
(承前)
ユダヤ教保守派の著名な哲学者ヘスケルーラビは、キリスト教側は今日ユダ
ヤ人に何かを求め価値観率経験から何かを学びとろうとしているが、ユダヤ人
がアメリカ式生活の中庸さとだらしなさを振りきってユダヤ教に戻らない限り、
望まれているものを与えることはできないという。
ユダヤ人共同体の中でも多くの者(非宗教側と宗教側双方)がこれと同じこ
とを言ってきた。
ユダヤ人はキリスト教側ですら学びたいと願うユダヤ人の遺産を再評価すべき
である。
だがこれは半面の真実で虚言というより損傷に近い。
キリスト教側がユダヤ人から学ぶべきことが多いからといって、ユダヤ人もキリ
スト教側から学べるものを考えてみる気にならない限り手放しで喜んではいられ
ない。
たしかにユダヤ教には人類が必要としているいくつかの答えがあるが、全部はない。
キリスト教の伝統や非ユダヤ的西洋文明にはユダヤ人に役立つものは全然ないのだ
ろうか?
私にはユダヤ人が必要としていることがはっきりと言える。
長年の受難と迫害で、ユダヤ人はある種の技術や性格のある面をかなり発展させる
ことができた。
理想主義と強健な実用主義が組み合わさった伝統的な道徳が今日ほど適切だったこ
とはいまだかつてない。
ユダヤ人の知的才能は四千年にわたる厳しい訓練の賜物である。
フロイド、マルクス、アインシュタイン――3人ともユダヤ人――が世界の顔をす
っかり変えてしまったのも偶然ではない。
だが3人とも、程度の差こそあれユダヤ教に背を向けたばかりか、ほとんどの生活
をユダヤ人共同体の外で送ったのも偶然ではない。
今世紀になって特に宗教的でもシオユスト的でもない業績を築いた著名ユダヤ人に
もこのことが言える。
今日のユダヤ人が芸術家、科学者、政治家、作家などユダヤ人の世界に背を向けて
しまった人のことを目標にすることは皮肉なことである。
ユダヤ人を強くした受難や迫害の歴史が同時にユダヤ人を弱くもしたということ
を、ユダヤ人は認識しなければならない。
知性と道徳力を与えはしたが優雅さと自然さを奪ってしまった。
人間尊重を教えはしたが自然を愛することを忘れさせてしまった。
孤立していた世界、ゲットーの壁の中の世界では、こうした弱点も仕方なかったろ
う。
それ以上よくなることは無理であったろう――そして彼らがそれ以上悪くならなか
ったことを誇りにするのも当然である。
だが、そんな世界はアメリカには存在しない。
そしてもはや必要でない自衛癖にしがみついているために片輪になろうとしている。
かつてはユダヤ教の孤立主義、排他主義は必要であった――そして彼らがそれ以上
悪くならなかったことを誇りにするのも当然である。
だが、そんな世界はアメリカには存在しない。
そしてもはや必要でない自衛癖にしがみついているために片輪になろうとしている。
かつてはユダヤ教の孤立主義、排他主義は必要であった――それしか破滅を防ぐ方
法がなかったのだから。
だがアメリカでは不用で破滅を招く根源でしかない。
キリスト教についても同様のことが言える。
キリスト教も本質的に孤立主義で排他主義であった。
形式、儀式、機関もユダヤ教と同じくらい他から孤立しようという意図があった。
そして今日ユダヤ教が苦しんでいるのと同じ腐食と摩耗に苦しんでいる。
最も劇的な例はカソリックで行なわれている改革であるが、こうした兆候は他にも
及んでいる。
キリスト教世界の芸術家、科学者、哲学者などの偉人は、ユダヤ人の偉人がユダヤ
教にそむこうとしたと同じようにキリスト教に背を向げてしまっている。
理由は神の存在を人が信じなくなったからではなく、モーゼの神や三位一体の神
や第一戒が「彼ら」と「われわれ」の間に隔りを置いている部族的神を信じなくな
ったからである。
人間が以前よりも神秘的ではなくなり理性的なにつてからではなく――その反対だ
と私はおもう――生活の生活の神秘観が「組織化された宗教」として知られるよう
になった拘束服(皿齢認)のなふにに見出せないからである。
人間が形式や儀式に我慢ならなくなったからでもない。
むしろ人間は彼らの仲間により近づかせてくれ、自分自身でありたいという衝動を
励ましてくれる新しい形式と儀式を捜し求めて――ときにはぎこちなくときにはコ
ミカルに、憐れにそして悲惨に――いるのである。
異教徒間結婚はユダヤ人をキリスト教徒に変えるだけだと反対者は言う。
ユダヤ人はキリスト教に改宗するという気持ちにはなれないが、信仰を度外視した
結婚によって子供のために――少なくとも孫ために――キリスト教の世界への道を
開いてやれると、ミルトン・ヒメルファーブは1967年のデダラス誌に書いたが、
その引例はすべて19世紀か20世紀初頭のものばかりである。
メンデルスゾーンやハイネを引例しているが、彼らは西洋文明の宝庫が突然ユダヤ
人に入手可能になり、キリスト教に改宗すれば社交、財政、芸術の世界で望みどお
りのものになれるようになった時代の人間である。
キリスト教に改宗するユダヤ人も多かったが――特に近台世界がもたらしてくれる
ものを手に入れたがった知識層――彼らにはどこか屈辱的なところがあった。
しかし今日ではどんなユダヤ人にも世界は解放されている。
屈辱的な改宗式をあげる必要もない。
自由に対して手を伸ばすだけの勇気があればよいだけである。
大多数にはそれだけの勇気はないにしても、少数者は持っている。
異教徒と結婚する人――あるいはしない人――であり、そんなことを無視している
人である。
いや完全に無視しているわけでもない。
社会学的調査によると異教徒の女性と結婚するユダヤ人の多くはユダヤ人の女性を
意識的に拒絶している。
だがこの拒絶には自己嫌悪は関係ない。
自分の母親に見たもの――異教徒に対する恐れ、孤立主義にとりつかれているさま、
そして結婚、家庭、ユダヤ教、生活自体をゲットー内に封じこめようとする衝動―
―をユダヤ人女性に感じているのである。
異教徒の女性は自分自身のため、心のあるがまま、将来の可能性のために彼らを受
け入れてくれる。ユダヤ人女性が自由と生活に対する開かれた姿勢を持つようにな
れば――そういう女性は増えている――異教徒間結婚は減るかも知れない。
だが公的なユダヤ人共同体にとってはうれしからぬ事態であろう。
ヒメルファーブらの意見にはそういう欠点がある。
今日では異教徒間結婚はキリスト教からユダヤ教への旅券でもなければ、ユダヤ教
からキリスト教への旅券でもない。
異宗教徒間夫婦の大半はキリスト教徒にもユダヤ教徒にもならないし、子供もどち
らにも属さないように育てる。
キリスト教的的面もユダヤ教的面もありながら、どちらにも片寄らない世界をつく
り出している。
キリスト教徒同士、ユダヤ人同士で結婚しながらも、カテゴリーを必要としない夫
婦も多い。
ヒメルファーブ、ブネイ・ブリス、会堂関係諸機関、ユダヤ人共同アピールが非ユダ
ヤ人との結婚を禁じる法律を通過させても、アメリカのユダヤ教の存続は保証され
はしない。
前よりも摩耗の速度がゆるやかにもならないし避けられもしない。
若いユダヤ人――いまは少ないがだんだん増えている――はユダヤ教とキリスト教の
復合に向いているように私は思う。
彼らは伝統に背を向けているのではない。
それを誇る気持ちは真正のものであり、四千年にもわたる迫害にも負けなかった偉大
な理念の後継者たることを誇りにしている。
しかし、その理念を孤立させたり排他的にすることは裏切り行為でしかないと考えて
いるのである。
今日必要なのは他の理念から栄養を吸収することであり、これまで軽蔑し、恐れてき
た方面から栄養を吸収し、刷新をはかることである。
そうでなければ、死滅を待つだけである。
したがってユダヤ教が生き残るためには、これ以上孤立に頼ることも古い規則を盲目
的に崇めることもやめにして、それらを乗り越えていくようにしなければならない。
ユダヤ教とキリスト教の複合はまだ組織化されてはいない(そんなに長くはかからない
だろう)ので、目下のところはすべてが不安定で一時的なものである。
例えば安息日(サバス)に
ろうそくをともすだけで――祈りの言葉も清浄食品戒律も全然なく、人を偏狭な未来に
しばりつけない方法で過去のことを思いださせる最も簡素な象徴的な行為――ユダヤ教
を信じ、ユダヤ人であることを表現する家庭がいくつもある。
ある家庭では異教徒と結婚した夫が子供の小さい頃にこういった慣習を定めた。
その息子もやはり異教徒と結婚して散人の子を持ち、同じ習慣を守っている。
この家庭では過越の目に三世代が一同に会し――美しいクリスマス・パーティを開
く――孫はすべて旧約聖書に因んだ名前をつけている。
そして何年も会堂や教会――ユダヤ人アピールの宴会場――を訪れていない。
これらの人々はラビや非宗教的指導者にとって悩みの種である。
たいていは「たいしたことじゃない。第一そんな人間がごまんといるもんじゃな
い」とか、
「奴らは偽善者だ! 義務なしにユダヤ人であることの利益だけを欲している!」
といった反応がみられる。
体制側が動揺する理由はよくわかる。
たそんな異端者がいることすら挑戦なのである。
だが現実に異端者はいるのであり、彼らを払いのけることはできない。
こうした異端者が新しい方向を見つけて発言しはじめたときが、新しいユダヤ教の
先導者となるときだろう。
そして、その名はユダヤ教ともキリスト教とも呼ばれないだろう。
「それではわれわれの特色ある存在、ユニークなユダヤ人らしさはどうなるのか?
存在もし
ていない不確かな複合のためにあきらめるのか?」とある体制派のラビが言った。
答えを私は知っている。
私はこうした複合のようなものがアメリカのユダヤ教に起きつっあることも知って
いれば、そうでなげればならないことも知っているし、それが私のユダヤ人らしさ
をあきらめることでなく、むしろ拡大することであることも知っている。
とはいえ、このラビの質問は私の確信をゆるがせるし、私の知識に疑問も抱かせる。
私かこれまで述べてきたようなユダヤ人になるには、二重人格性を一つにし、自分
の内部に存在する人の人間を仲直りさせなければならない。
はたして私にはその用意があるだろうか?
昔からの疑問と恐れ――「異教徒」に対するものと私自身に対するもの――は、そ
れがいかに愚かしいことかを自分に納得させことがいできる瞬間にも、心の中に鎌
首をもたげてくる。
しかし私は悲観的ではあるが、ユダヤ人であるがゆえに希望を持っている。
私にはすばらしい資質がある――想像力である。
私は私自身だけでなく一つの「民族」に
も属しているがゆえに、その思考法で考え、見ることができる。
本書に登場したすべてのユダヤ人になりきることもできるし、そういう感情
に共感することもできる。
正統派の葬式で動揺し、うめくこともできれば、保守派のバー・ミツバの式典
でおばさんたちといっしょに涙を流すこともできるし、公民権抗議デモをして
改革派会衆にショックを与えることもできる。
ユダヤ人アピールの晩餐会で自分のカードが読みあげられるのを聞くこともで
きれば「若い知識層」といっしょになってすべてのことを冷笑することもでき
る。
ユダヤ人の母親をセンチメンタルに嘆くこともできれば、成功した隣人につか
みかかりたい気持ちだって持てる。
イスラエルの滅亡を考えただけで病気になってしまうこともできれば、ユダヤ
教協議会の片意地な改革運動家の怒りや不満や特異な誇りを体験することもで
きる。
私の想像力でアメリカのすべてのユダヤ人になりきることができるなら――他
のユダヤ人が私になりきれるように――もうすこし想像力広げることができな
いことはあるまい。
もうすこし訓練をし練習をして決心したら、異教徒にもなりきることができる
のではないだろうか?
たとえ最悪の状態になってうまくいかなくっても、希望を捨てることはない。
私には子供がいる。
子供の想像力は私のよりもずっと幅広く自由ではないだろうか。
私がいま不安気な小さな声でしか「私はユダヤ人だがそれ以上でもある」と呟け
なくても息子はいつか大声ではっきりと言うだろう。
注1. The New York Times, April 28, 1966.
2. W. Lloyd Warner and Leo Strole, "Assimifation or Survival: A Crisis in the Jewish Community of
Yankee City," in The Jews: Social Patterns of anAmerican Group, edited by Marshall Sklare, New
York, The Free Press, 1958.
3. Inter-Religious Dating Among College Students, a study by David Caplovitz and Harry Levy, conductedby Columbia University. また Erich Rosenthal は 異教徒間結婚は、大卒者で37%、非大卒者で 17.9%のであると報告している。
4. A. B. Hollingshead and FrederiCk Redlich, Social Class and Mental Illness: A Community Study, New
York, John Wiley and Sons, 1958.
5. Rabbi Henry Cohen はイリノイ大学のある Champaign-Urbana における調査を指導した。その報告によると、
有識層ユダヤ人の異教徒間結婚率は、一般ユダヤ人の2倍以上であった。
6. Rabbi Samuel Dresner, "Renewal," Conservative Judaism, Winter, 1965.
7. Maria H. and Daniel J. Levinson, "Jews Who Intermarry," YIVO Annual of Jewish Social Science, Volume 12, 1958-1959. John E. Mayer, JewishGentile Courtships: An Exploratory Study of a Social
Process, New York, The Free Press, 1961.
8. ユダヤ人し異教徒との結婚における離婚率、別居率は、ユダヤ人同士の場合よりずっと高いといてうことが当 然のことを確かにしたように思われてきた。多くの調査がこのことを確かにしたように思われる。
9. 0'> Milton Himmelfarb, "Secular Society? A Jewish Perspective," Daedalus, Winter, 1967