創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(823)『アメリカのユダヤ人』を読む(40)

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死滅するか?


ユダヤ教存続の高価な犠牲 



 ユダヤ教がアメリカで存続の可能性があるかどうかには、誰もが疑いの目を
向けている。
イエシバのリーブマン教授は完全な悲観論者である。
「この国でのユダヤ教の未来は絶望的である」
ユダヤ人会議のプリンツ会長は慎重な悲観論者である。
「ユダヤ教は存続できるとか、ユダヤ人は不滅の人種であるとかは断言できない」(注1)
楽観論者も一方で悲観論者であることが多い。
そして「私の信仰心は論理に勝っているので、ユダヤ人はアメリカでも存続しうると思う」と繰りかえす。(注2)


 悲観論、楽観論はさておき「なぜユダヤ教はアメリカで存続しなければならないか?」という第一義的命題に対する見解には相当な違いがある。
実際、なぜユダヤ教は、独立的実体として存続しなければならないのか?
自然に摩耗していぐのだとしたら、生き残らせる努力をする必要があるのだろうか?


 これに対する大方の答えは「倫理的弁明」である。
ユダヤ教は組織化されたユダヤ人共同体を通して、世代から世代へと受け継がれていく重要な倫理的価値基準――一神論、慈善、平和を愛する心――を備えている。
ユダヤ教はそうした価値基準をその民に伝えるだけでなく、他の人々のためにも保存している。
ユダヤ人共同体センター運動の幹部の言「爆撃後いずれかの道徳グループが破片処理をしなければならない。
歴史的にいって、これをやってきたのがユダヤ人である。過去、他の文明がユダヤ人的な価値観を失った時には必ず滅びていった」


 この倫理的弁明の弱点は明らかである。ユダヤ教が西洋文明に絶対必要な価値基準に貢献してきたのなら、それはいまも続いているはずである。
その価値基準がすでに万人の天性の一部となっているはずだとすると、ユダヤ教はなぜ従来通りの独立した形で存続しなければならないのか?


 倫理的弁明には反論する者も多く、彼らは「感情的、審美的弁明」をする。
ユダヤ教にはたしかにすばらしい倫理的内容があるが、それは他宗教とて同じで、世俗主義者だって誠実で慈悲深く勇敢でありうる。ユダヤ教で特徴的なのは、その美――ユダヤ人に穏やかさと満足をもたらし、暖かく愛に満ち、人生に輝きを与える感情――だから、ユダヤ人がそういう感情を持続するためにユダヤ教は存続すべきだと主張する。


 この意見はあまりに強固にすぎて議論にならない。
ユダヤ教が暖かく愛に満ちた感情を与えてくれるなら、実行に移し子供にも伝えるがいいと言えるだけである。
だが、暖かく愛に満ちた感情を持ちあわさないアメリカのユダヤ人が多くなっているのをどう説明するのだろうか? 
彼らの生活はユダヤ教がなくても、色彩と興奮と刺激に富み、暖かささえあるではないか。
ユダヤ教の存続が彼らにどれだけの意味があろう?


 ユダヤ教存続擁護者は好戦的というより告発的なロ調になることすらある。
「罪」を楯にとった弁明をやる時である。
有史以来おびただしい人間がユダヤ教に殉じた――これらの死者のためにもユダヤ教の存続に尽力しなければならない。ユダヤ教奉持の結果、殺戮された大量のユダヤ人……最後がヒトラーによる600万人の犠牲者である。
いまユダヤ教を消滅させてしまうことは祖先への裏切りと誇りを捨てたことを示すというわけである。


 感情的すぎる意見なので論理的弱点を見過ごしてしまいやすいが、何百万もの人が一つの生活様式を維持するために生命を犠牲にしたといっても、その生活様式に維持すべき価値があったことにはならない。
そうであったと仮定して、同じ立場にあったらわれわれも自己を犠牲にしたとしても、同じ立場にないときに、同じ犠牲を払うべきだということになるだろうか? 
かつて人々は気高く正当と認められるやり方で戦い、死んでいったが、正常な心の今日的な人間なら命まで賭けはしない理想(宗教的なものも含めた)が歴史の中にはたくさんある。
ユダヤ教が存続すべきならかつての姿ではなく、今日あるがままの姿、現在の機能のままの姿で正当化しなければならない。


 ユダヤ人共同体の多数派には、右の弁明は不敬でしかない。
正統派ユダヤ人がこうした弁明に賛成しようがしまいが要点がはずれている。
彼らはより大きな基本的弁明に包含されているからである。
これを「信仰を通じての弁明」と呼ぼう。
ユダヤ教はモーゼ五書が命じているがゆえに維持保存されなければならない、存在理由を考える必要はない、神の言葉だけで十分だとする主張である。
スターソ女子大生が私に言った。
「ユダヤ教の存続の可否は重大な問題ですが、私が関わることではなく神の問題です」


 この意見は反論できない性質のものである。
論点を無証明のまま真と仮定して論じており、実際にはなぜユダヤ教が存続すべきかわからずに問題を云々することには興味がないと言っているにすぎないのだが。


 最も説得力があると思われるユダヤ教存続の弁明は、論理的にいって自滅的ではないということを示した弁明である。
「形式的な弁明」とでも呼んでおこう。
コメンタリー誌の「ユダヤ人らしさと若い知識人」の序文にパドホレッツ編集長が書いている。
「真の普通救済(万民は結局救われるという)説を実現するには、地域的『教区的』愛着を持つ必要がある」
著名なシオニスト(奇妙に独断的でない)も似た考えを詳細に話してくれた。
「私はユダヤ的価値基準を信じません。ナンセンスです。普遍的な価値基準として通用しないいわゆるユダヤ的価値基準など一つもありません。しかし人間は、普遍的価値基準がなんらかの形をとらなければならないようにできているのです。


 この意見には真実味がある。
全宗教・政治運動の基本をなすものである。
儀式やスローガンや国旗は抽象的なものを具体的に表現するために必要なものである。
抽象的なものが人間の心に根づくことはないのだから……学習の基礎でもある。
子供は絵を見ることで考えることを学んでいく――そしてユダヤ人の子供はは過越祭にマツオやわさびを食べることで、自由を尊び屈従を憎むことを学んでいく。


 だが、この意見もそれだけではユダヤ教存続の弁明仁はならない。
この弁明にも別の一面がある。
抽象観念仁特殊な形式を与えることは必要だが、いったん形式化が行なわれてしまうと、人間は観念に汚いいたずらをする。
儀式や象徴が抽象的なものの代理をしはじめたときから破壊が始まる。
時とともに形式が幅をきかし、最初は支援目的だった観念を窒息させてしまうことになる。
観念を救うためには形式を捨てる必要がある。
すると次の形式が必要となり、同じことが反復されていく。


 今日のアメリカのユダヤ教にも同じことが言えないだろうか? 
ユダヤ教の形式面……特に制度面がユダヤ教から生命を奪おうとしてはいないだろうか? 
枯れ枝を払って精髄を救う時がきていないだろうか?


 そういう兆候がある。
ユダヤ教存続論議には枯れ枝への愛着傾向が強い。形式を固執し組織を支えようとやっきになって、宗教体制や非宗教体制側の連中はユダヤ教の普遍的倫理価値基準を傷つけ、ひいては放棄したがっているように見える。
例えばユダヤ人は公民権運動への参加を控えるべきだと言うラビが急増している。
公民権運動はユダヤ教存続のための戦いという「真の問題」から時間と金を奪う結果になっている。
つまり、道義的義務を全うすることとユダヤ人教育の改良を同時にはできないのだから、道義的義務のほうはうとんじておこう……というわけである。


 同様に改革派のある若いラビ(趣味も高尚で知性もある)は、派手になったバー・ミツバや結婚式を弁護した。
儀式でユダヤ人らしさを強調して存続に貢献しているというわけである。
掟にかなってさえいれば俗悪な行為も正当と認められるらしい。


 学問上の偉大な理念でさえ存続の邪魔になるとみれば犠牲にさえする。
ユダヤ人知識層がユダヤ教やユダヤ人共同体をうとんじるのも実はこのためである。


 もちろん自分がうとんじられているのを認めたがらない人はいつの世にもいる。
コメンタリー誌が『ユダヤ人らしさと若い知識人』を出したとき――ほとんどの寄稿者が激しい言葉で自分の疎外感を表現していた――人選が不適切という声が上がった。
ユダヤ敬アメリカ人を客観的に調べてみれば不当な言いがかりであることがわかる。
ヒレル財団は、同組織に属していると思っている学生が10%しかいないと発表している。
調査でも、大卒ユダヤ人はそうでないユダヤ人よりも異種族間結婚率が高く、大卒の両親の子にもその傾向が増えていると出ている。(注3)
ニューヘブンのユダヤ人精神医の64%は異種族間結婚をしている。(注4) ワシントンのユダヤ人政府職員は、数少ない例外を除くとユダヤ人共同体に属しているとは考えていない。
こんな例は数えればきりがない。


 知識層がユダヤ教を嫌うのは、意義を認めないからだろう。
I・B・シンガーが信ずるように知識層が神秘的な体験の必要性を感じるとしても、ユダヤ教の儀式、食物のタブー、ラビの態度、無意味な祭日がなんと不敬に見えることか! 
しかもたんとくだらないことであろうか!
知識人の天性――知性――には何の栄養にもならない。
会堂でのうんざりする儀式や説教、起立着席の連続やヤマ場もなく順序もでたらめな讃美歌に低能でもない人間が我慢できようか?
会堂通いするのは最も趣味が悪く無器用で無知で心の狭い人間にしか見えない。
ラビなんて知的には二流品でしかない。
体制側は公に認めようとはしないが、ラビ組織内部では、器量の大きい学生をラビにする策がいつも議論されている。
神学校の教課が貧弱で薄っぺらなので、子供を1、2年でやめさせた知識人に何人もお目にかかっている。
父兄の一人が言った。
「子供を侮辱しているような教課内容です」




この項、未完。明日につづく。