創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(803)『アメリカのユダヤ人』を読む(34)

はてなスターカウンター

今の★数累計です。

生  活


ユダヤ人はすぐれていなければならない



 ユダヤ教キリスト教も、神学的見地から信者が神の存在を信じて善良な生
活を営むことを命じている。
この2大条件を果たさなければ救いはあり得ない。
しかし実際にはユダヤ教は、信仰よりも労働のほうに重きをおいている。
神自らユダヤの民に、この世の生活に重きをおき、来世のことは必要以上に思
いわずらうなと命じたのだから、十戒の前半よりも後半に重きをおくのも当然
であろう。
相対論、無意識的動機、「新モラリティ」についてのユダヤ人の見解を聞いて
いると、人間――そして地域社会、組織、政治活動、イデオロギー――を「道
義にしたがっているか」という観点で判断する傾向があることがわかる。


 アメリカのユダヤ人共同体は一般的基準ではこの試練に好結果を示している。
第一にユダヤ人の犯罪率は他の市民以下である。
全国統計はないが、ニューヨーク市がそれを立証している。
東欧移民の最盛時の1906年に、ニューヨーク市警長官が同市の犯罪者の大
半がユダヤ人だと公表した。
その見解が偏見によるものかどうかはわからないとしても、1930年頃には
状況は一変していた。
当時ユダヤ人は同市人口の23%を占めていたのに、被逮捕者の中のユダヤ
は3〜4であった。
60年代でも刑事裁判にかかるユダヤ人は依然3〜4%と推定されている。


 ユダヤ人の犯罪には一つのパターンがある。
殺人は中国人を除く他の民族的、宗教的グループよりもはるかに少ない。
強盗、ギャングの、暴行殴打その他の暴力沙汰もユダヤ人はめったに犯さない。
窃盗が一番多い。
脱税も多くて、有名なのがフィラデルフィアの出版王モー・アネンパーグで、
100万ドルの脱税で数年間獄中にいた。
ニューヨークの法廷では、ユダヤ人中小企業主の詐欺事件が多い。
最近収賄を疑われた福祉事業員、建築検査官の中にもユダヤ人がたくさんいた。
だが統計的に調べてみると、ユダヤ人犯罪率は思ったよりずっと低い。


 今日のアメリカ人と同様、ユダヤ人も法律違反については皮肉な姿勢をとっ
ている。
脱税やらスピード違反カードをごまかしたり、宣誓しておいて偽証する
ことには昔ほど罪悪観を感じなくなっている。
清浄食品調達業界では万引きが戦後増えた。
原価上昇の理由の一つは、結婚式やバー・ミツバ(成人式の一種)のシーズン
になると皿や銀器やガラス食器やらを平気で買物鰭にしのばせるように
なったためだと言われている。
大手の清浄食品店が万引き現行犯を捕えた。
店を出ようとしている婦人客を「何かお忘れになっていませんか?」と
呼びとめて「そのスプーンとフオークに皿をつけたらいかがでしょうか
?」
彼女はあやまるどころか開き直って言ったという。
「すごい! スプーンとフォークはくださるのね?」
この「あ、そう」的態度がアメリカのユダヤ人にどの程度までしみこ
んでいるかをはかる手だてはないが、間接的には非行の統計を見ると
わかる。
不正直な両親の性質は子に伝わる。
各種統計を総合してみると、ユダヤ人には非行少年の数が比較的少な
いことがわかる。
過去10年間にやや増えはしたが、人口の増加率には比例していない。
ニューヨーク地区のユダヤ人非行少年施設……ホーソーソ校は、1950
年代と同人数しか入れていない。
それでもユダヤ人だけでは定員に達しないので非ユダヤ人少年を15%
程度入れているという。


 ユダヤ人青少年にふえている非行は麻薬である。
ニューヨークのある判事は、以前には扱ったことがなかったユダヤ人青
少年の麻薬非行をいまでは毎週扱っていると語った。
それもよく調べてみると思ったよりたいしたことはない。
10代のユダヤ人や大学生がやっている麻薬で一番多いのがマリファナで、
次が(それほどではない)LSDで、ヘロイカーンや中毒を起こす恐れの
ある麻薬はまれである。
ユダヤ人青少年も他の青少年なみに、一時的に麻薬をやるだけのようで――
親たちが禁酒時代に自家製の酒を試したように――根っからの常習者はほと
んどいない。


 ユダヤ人の間では違法行為よりも、合法的あるいは半合法的な不道徳行為、
反社会的行為のほうがずっと少ない。
飲酒解禁とか戦争や一大変化があったにもかかわらずシュテットル時代と同
じでアル中のユダヤ人は少ない。
地方の社会的習慣もユダヤ人の飲酒にはまるで影響がない。
アル中が最も多いミネソタでも、ユダヤ人にはほとんどいない。
誘惑に負けやすく離婚や不義も多いハリウッドでも、ユダヤ人は飲んべえに
はならない。


 悪癖あるとすれば、ギャンブルである。
シュテットル時代でもユダヤ人はギャソブラーだった。
多くの精神学者がこの現象を説明してくれたが、一人として正確には
説明できなかった。
多分「人生は結局、運次第で、自分ではどうしようもない」という根深
い感情、ユダヤ人の懸念を表わす一つの兆候なのだろう。
たしかにギャンブルをやりすぎる傾向はあるが、多額の賭け金はかけず、
たいていスッテンテンになる前にやめる。


 社会からの完全な逃避は、若いユダヤ人が現制度からのがれるための一
種の道楽である。
1950年代にはビート族という少数派が現われ、現在ではヒzピーになる
ユダヤ人青年が圧倒的に多い。
指導者ぐるみでヒッピーの25%がユダヤ人である。
サンフランシスコのユダヤ人委員会は毎年ハイト・アシュペリー(ヒッピーが多い地区)
に移住してくる若者の40%がユダヤ人だと推定している。
実数7,100人で、サツフランシスコの全ユダヤ人口に匹敵する――若い
ラビが彼らのために「ミッション」を計画しているほどの人数である。
しかしこうした「ヒッピー・ラピ」は取り越し苦労しているのかも知れない。
ほとんどが立派な中流家庭の出で、ヒッピー国滞在期間は平均3〜4ヵ月で
ある。
非規則的生活を満喫したら大学や大学院へ戻り、医者や弁護士やビジネスマ
ンになって両親と同じように郊外に住みついてしまうだろう。
早計は禁物だが。 


 フリーセックスについてのユダヤ人の姿勢はあいまいである。
姦通は十戒で固くいましめられており、正統派には姦通はあり得ない。
だがユダヤ教には、キリスト教のようなセックスに対する偏見はない。
ユダヤ人には淑女ぶる女や禁欲者はまずいない。
それにユダヤ人には、なんでもやってみよう、最新のものは試してやろう
という衝動がある。
世界がセックス革命中ならば、絶対に遅れをとろうとはしない。
だから戦後、ユダヤ人女性に婚外妊娠が急増している。
20年前には、里子1件に12組のユダヤ人夫婦が応じたものだが、いま
は3組だという。
ユダヤ人が養子をとることに興味を失ったからではなく、赤ん坊のほうが
増えたからである。


 しかしこうした兆候が目立つものの、ユダヤ人女性が私生児を産む率は
低い。
20年前非ユダヤ人赤ん坊1人に10組の非ユダヤ人夫婦が応じたがも、
いまは1組か2組だという。


 ユダヤ人の最高の罪は拝物主義だと思っている人が多い。
ユダヤ人はアメリカでの経験の衝撃で守銭奴となり、
万能のドルを讃えるために全能の神に背を向けてし
まったと言われている。


 これを裏書きするような例は簡単に見つかる。
掟にかなったリソザート・ホテルの半数は、食物、
ゴルフ、高価な娯楽はもちろん、株式投資の講演会ま
で毎週開いている。
家が突如として金持ちになったブロンクスの14歳の
少年は、毎朝、新聞の株価欄に目を通し、投資に備え
て貯金しているという。
親も会う人ごとにそれを吹聴してまわっている。
いつだったか、ハダサ会員の婦人が『屋根の上のバイ
オリン弾き』の慈善興行を見て友人
に言ったものである。
「あれは安くついたでしょうね。俳優が着てたボロ、
見た?」


 ユダヤ人は財をなしたいと望むだけでなく、財をなし
た人に並々ならぬ関心を寄せる。
――特にどのくらいの財をなしたかということと、何に
どのくらい金を注ぎこんでいるかということに興味があるらしい。
例えばある婦人に、私が読みあげたばかりの本の話や、
ある俳優の演技がすばらしいとほめた時の彼女の質問
はこうである。
「その本でどのくらい稼いだのかしら?」
「出演料は幾らかしら?」
初めて友人の家を訪ねると、カーテンにさわったり、
じゅうたんをじっと見たり、皿の裏を見たりする。
知りたいことは「全部で幾らかかったのかしら」である。


 この婦人が例外だというのなら、一般ユダヤ人の意見
の指針……レオナード・ライオソズを調べてみればいい。
彼はニュ―ヨーク・ポスト紙に週6回書く。
そして金持ちの有名人が何にいくらはたいたと書かな
い日はない。
1966年の1,2ヶ月で彼から学んだことは、シャガ
ールは小品でも1万ドルはする、ディームス・テーラー
オペラ1作から750ドルの著作権料しか受け取ってい
ない、ジーン・アーサーはスターになってから週2万7,0
00ドル稼いでいる、ジョセフ・リバインは1万ドルでモネ
を買った、エイブ・ファインバーグはワイツマン大学院の
建設費に15O万ドル寄付した、医療調査のジュールズ・
スタイン補助金ノーベル賞の賞金よりも多い……といっ
た調子である。


 大評判をとるためや友人親族間での地位を確立するために
金を使うことは、ユダヤアメリカ人には当然のことになっ
ている。
ミンクのコートや宝石で満艦飾のマイアミ・ピーチのご婦人連
のことや、カーペットを敷きつめてブルックリン・ルネッサン
ス調と呼ばれる高価な家具つきの高級アパートに住んでいるパ
ーク街のご婦人達のことや、黒いキャデラックを乗りまわして
いる男たちのことでみんながジョークをとばす。
「コーエンさんの奥さま。お宅の坊やはもうアンヨができま
して?」
「いいえ、その必要がございませんの」(車所有者へのジョーク)
こうしたジョークに人気が集まることからして、それが現実
であることのいい証しであろう――ただこうしたジョークをと
ばす人たちは自分のことではなく「他のユダヤ人」のことを言
っているのだと主張しはするが。


 この現実を自分の目で確かめたいなら、キャッツキルのコン
コード・ホテルで1,2日過ごしてみるがいい。
ある若者がそこでの経験をこう表現した。
「コンコード・ホテルに着いた朝、ロビーに立っていたんです。
あそこの内装はご存じでしょう? 
まさにヌーボー・スカーズデールですよ。ぼくは赤じゅう
たんまるで――バッキンガム宮殿からもってきたかのようでした
――を敷きつめた階段の下に立っていましだ。
すると醜い婦人が階段の上に姿を見せました。どうみても60
歳にはなっていました。
髪をオレンジ色に染めてヒップにパットを入れた闘牛士風ズボン
にビキニといういでたちでした――階段を半分降りた時に見まし
た! ビキニにダイヤのブローチが光っているではありませんか! 
ぽくはすぐにチェック・アウトしましたよ。2度と行く気はしません
ね!」


結婚式やバー・ミツバの式では、もっと俗悪なものにお目にかかれる。
非常識なことが起こるのだ――6フィートのケーキ、ホロホロ鳥
キャビア、肉ゼリーにシャガールエルサレムの窓をあしらったもの
などでのビュッフエ式晩餐会、人よりも高価なプレゼントをしようと
ひしめきあう知人親類……まさにすさまじい(バー・ミツバの式の招
待状にこんな追記をした親もある。
「贈物は貯蓄債券にしてください」)
祝典もこうしたすさまじい競争をまぬがれることはできない。
特に結婚式は会堂ではなくホテル(豪華なほどいい)の宴会場で挙げ
られる。
屋外音楽堂が祭壇に仕立てられる。
食品戒律のきずなから離れることのできない人のためには掟にかなった
食品調達所のホールがある。
そこには通路を歩く花嫁の姿を浮き彫りにする極彩色のスポットライト
が備えられた超豪華な「礼拝所」がしつらえてある。


 数えたらキリがない。
しかしユダヤアメリカ人の歴史的背景を考慮に入れてみるまでは、これ
がどの程度の意味を持っているかを理解することはできない。
移民やその子供たちの大半は貧困の中で育った。
彼らが今日示している反応――ミンクのコートヘの子供じみた喜び、値段
に対する好奇心、俗悪性、虚飾――は特にユダヤ人的なものでもなければ、
特にアメリカ人的なものでもないことは確かである。
もっと万人向きのものである。
どの時代にもある成金特有の行動様式である。
アプレイウスが『黄金のロパ』 (2世紀後半}で、モリエールが『町人貴族』で、
トロロープが『ハーチェスターの塔』(1857)でシンクレア・ルイスは『ドッズワース』 (1729)でそ
れを書いている。
アメリカヘやってきた移民団はアイルランド人もイタリア人もユダヤ人に
負けず劣らず同じパターンをなぞった。


 この成金病は三代目には消えてなくなるのが常である。
一代目はがむしゃらに働いて子供の人生の門出に備える。
二代目はこれを利用して財をなし、世にそれをひけらかし、子供に「自分
の親が与えてくれることができなかったものをすべて」与える。
三代目は金のかかるアイビー・リーグ教育を含めたこうしたものを利用して、
一代目、二代目の無邪気な行為や悪趣味を超越してゆく。
いまアメリカのユダヤ人共同体で起こっているのはまさにこれである。
バー・ミツバや結婚式のパーティがここ10年間にぜいたくでも高価でもなく
なってきたのは、子供が親に逆らっているからだと食品調達店主たちは言っ
ている。
ホテルや食品調達所ではなく会堂での挙式を望む若いユダヤ人が増えている。
真相は虚飾にうんざりしたからであって、宗教に立ち戻ったからではない。
ユダヤ人の娘たちは母親のように宝石をじゃらじゃらさせはしない。
ミンクのコートは夏も冬も昼も夜も着られる年間衣装ではなくなっている兆候
さえある。
二代目的な目につく浪費対象の一つは、今日では砕け散ってしまっている。
金持ちのユダヤ人の若い母親でも子供に「家庭教師」をあてがいはしない。


 ユダヤ人がアメリカで物質的成功を得たがために堕落してしまったのかという
質問は愚問である。
もちろん堕落しはした。

貧困から富への急激な変化がそうさせたのである。
だが問題は「ユダヤ人と他の民族とでは結果が違ったか?」であろう。
彼らが堕落に不承不承屈服した証拠、あるいは少なくとも違うように反応したと
いう証拠があるであろうか?


この項のつづきは、明日で完。