創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(766)『アメリカのユダヤ人』を読む(21)

 

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ユダヤ人自身の国


 アメリカのユダヤ人の対イスラエル感情は強烈である。
1967年の六日戦争(同年イスラエルアラブ諸国間で行われた)の時の世論調査では、
ユダヤアメリカ人の99%がイスラエルを支持した。
六日戦争中に不安を感じなかったユダヤ人はいなかった。
そして重荷が消えた時には得意然とした。
だがイスラエルの存続がなぜ彼らの一大事なのか。
ナセルが公約通り「イスラエル人を海へ投げ込」んでしまいはしないかという
恐れになぜ駆られるのか、理由を説明できるユダヤ人は少なかった。
思うに、ユダヤアメリカ人にははっきり言いたくない理由があるのだろう。


 イスラエルが今日あるのは、聖書の思想のおかげである。
ユダヤ教が宗教の一派以上のものであり、ユダヤ人が同一宗教の信奉者の集ま
りというだけでなく一民族であるなら、その国があって然るべきなのである。
神がアブラハムに約束した国である。
モーゼは40年間も砂漠を流浪してアブラハムの子孫をこの国……約束の地……
シオンに導いた。
その後ユダヤ人は侵略者にこの国を二度も追われた。
最後は西暦初期にローマ人によってだった。
タルムドによればユダヤ人はその時から離散ディアスポラした。
しかしいつの日かアリヤ流浪の民をまとめること)が行なわれてユダヤの民と約束の地が
再現するだろう。
ゲットーやシュテットルの敬虔なユダヤ人を2000年近くも支えてきたのは
この希望であり、それはいろいろな祈りの言葉にも出てくる。
エジプト人の束縛から逃れたことを祝う過越祭(パスオーバー)だのセダーの祝い(家族が時間をかけて食事し話し合う)
の最終日(7日目)には「来年はエルサレムで」と言い交わす。
 

 シオニズム――聖書の夢の政治的実現――は19世紀末にウィーンのジャー
ナリスト、セオダー・ハーツルによって始められた。
そして欧州、特に受け入れも同化も許されることのなかった東欧の積極的な少
数のユダヤ人に引き継がれた。
彼らがシュテットルを去る時、数人の先達がパレスチナへ行ってキブツを始め
たが大多数はシオニズムをひっさげてアメリカヘ渡ってきた。


 ハーツルがその主義を説き始めた瞬間から、シオニストの間にいくつもの
派が生まれた。
理念的にはモーゼ五書(創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記
タルムド(ユダヤ律法とその解釈を記した全20巻250万語の書)
を根拠にはしていたものの、宗教的であったのはシオニストの一部にすぎなか
った。
過激派や無神論者も多く、創設した組織に社会主義的な色彩を帯びさせた。
神を信じなくても自分の生命を神の予言の成就に捧げた。
アメリカヘやってきた非宗教的シオニストにも過激的なハショメル・ハツァイエ
ル(青年親衛隊)から寛容で民主的なハボニムまでさまざまな色あいの分派が
あった。
また宗教的シオニストにもコミットの度合いに応じた正統派のさまざまな分派
があった。
1920年代から1930年代にかけて多数のシオニスト組織があり、いがみ
あう組織もあったが、だいたいは大いなる希望に支えられて協力しあった。


 他の理想主義者のごとく彼らも強烈で残忍でさえあった。
いまは40代になっている私の友人は、12歳でハショメル・ハツァイエルに
加入した。
中西部の中都市の出身でユダヤ人に接する機会は限られていた。
家族以外では組織の仲間だけが彼の全世界であった。
大学へ入ると文学と古典文学に目ざめ、一年生の終わりに英文学専攻を決心し
た。
ハショメル・ハッアイエル支部は厳粛な会議を開いて、母国のキブツは英文学
専攻学生を好まないからと獣医学専攻を命じた。
彼は命令に従って1年間はそうしたが、四六時中自分の資質を台なしにしてい
るように感じてイライラしていた。
ついに仲間の許に行って英文学部への転部許可を求めた。
ところが12歳からの親友だった仲間は、命令に従わないなら組織から追放す
ると言い放ったのである。
彼はハショメル・ハツァイエルを脱け、シオニズムからも足を洗った。
だがこの脱組織による混乱と孤独感を克服するには相当な時間が必要だった。


 こうした狂信ぶりは、多くの小シオニスト組織の特徴だった。
というのもほとんどが東欧系移民なので、理念だけでなく方法までかつての故
郷でのやり方通りに行なったのである。
これとは異なったアメリカ製シオニズムが発生するのも当然だった。
ボルチモアの裕福な改革派の家庭育ちのヘンリェッタ・ソールドは1912年に
パレスチナを訪れ、仲間には人気がなかったシオニズムに改宗してしまった。
帰国するとエマニュエル聖堂所属の婦人12人――全員が似たような経済的社会
的背景を持っていた――に呼びかけてハダサを結成した。
これは後にシオニスト機構の婦人部となった。


 両派とも他のシオニストと同じ理想――ユダヤ人は離散を終えてパレスチナ
戻る――を目ざしていたが、シオニスト機関とハダサは、東欧的というよりもア
メリカ的だった。
イディッシュ語ではなく英語を話したし、パレスチナ建国運動者のための資金集
めに重点を置いていた。


 アメリカでシオニズムが強くなるにつれて、反動も大きくなっていった。
第一に、ドイツ系ユダヤ人は最初からこの運動に反対だった。
アメリカでうまくやっていたので、本来属すべき場所が中東の未開の砂漠地帯だ
などという話は迷惑でしかなかった。
シオニズムなんて「ロシア人」の悪趣味と時代遅れの観念の見本でしかなかった。
しかし間もなくこの時代遅れの観念も、正面からの危険に比べたら無意味でも悪
趣味でもないと思うようになった。
この始末の悪いシオニストが言っているのは、アメリカのユダヤ人は外国に第一
の義務を負っているということのようである。
このことを声を大にして叫べば叫ぶほど、仲間の非ユダヤ人の耳に入る機会も多
くなる。
ドイツ系ユダヤ人の心――そして山の手へ移って改革派の聖堂へ加入しYahuda
(ドイツ系ユダヤ人)が見回りのやり方を見習っていた東欧系ユダヤ人にも
――「異教徒はどう思うだろう? という昔ながらの恐ろしい疑問が根ざしてい
た。


 そして強烈で時には辛辣な反シオニズム感情が生まれた。
まず組織面ではドイツ系のユダヤ人委員会とラビ中央会議の二つの砦に反シオニ
ズム感情がぶつけられた。
そして1939年のユダヤ人共同アピールの設立で敵対感情が明確になった。
ユダヤ人アピールははっきりとしたシオニストではなかった――政治イデオロギー
ではなく、博愛主義の名の下に運営された――がパレスチナに金を送ったので、反
ユダヤ感情を刺激した。
ユダヤ人アピールの誕生後、多くの反シオニストユダヤ人アピールに寄付しない
ことで積極的にその見解を表現した。
地方連合体がユダヤ人アピールと手を携えることが多くなると、頑迷な反シオニス
トは連合体への寄付をやめ、ユダヤ人に無関係な慈善運動に寄付することが多くな
っていった。


 ヒトラー時代の到来で、アメリカのシオニズムに最大の拍車がかかった。
シオニストの理想に無関心であったり敵意を抱いているユダヤ人でも、パレスチナ
ヒトラーの魔手から辛くも逃れた人の避難場所とする実用価値は認識できた。
シオニスト団体しか難民を救えないということもわかったので、多くのアメリカの
ユダヤ人は、理念は信じなくてもシオニズムを支持していくようになった。
少数だが協力を断わる者もいた。
難民には同情するが、だからといってパレスチナユダヤ人に特別資格を持つとい
う考えを支持するのは、間接的な支持でも断わるというのだった。
筋の通った理論でもあった。
だが仲間のユダヤ人は、彼らの論理はあまりにもよそよそしく、ミスを認めるより
は何千人もの人が死ぬのを見るほうが好きな、頑固で冷酷な老いぼれ百万長者と酷
評した。
シオニスト対反シオニストではなく、シオニスト対非シオユストの対決の時がやっ
てきているのは明らかだった。


 対決の年は1942年だった。
フィラデルフィアのレッシング・ローゼンワルドに率いられたユダヤ人委員会の金
持ち連中が、シオニストに関係するすべてのことを公式に拒絶することを同委員会
に強要した。
委員会の大半はこの圧力に逆らった。
シオニストに干渉されないでシオニストに協力できると信じたのである。
その結果、ローゼンワルドー派は脱退して旗幟鮮明な反シオニスト組織……ユダヤ
教協議会を結成した。
彼らがユダヤ人委員会から分離した時期に、改革派の反シオニスト・ラビの多くも中
央会議と同様の闘争をくりひろげていた。
これらのラビがユダヤ教協議会の精神的支柱となり、ドイツ系年配者の金力をもって
しても得ることができなかった正当性をこの組織に与えた。


 これで線が引かれたわけで、以後年々小さなもめごとが起きた。
例えば1943年にニューヨーク・ラビ会――同地区のユダヤ教各宗派に属する認定
ラビ全員の組織――が一年交代の名誉職である会長にシャクテル・ラビを選ぼうとし
た。
しかし偉大なワイズ・ラビがシャクテル・ラビはユダヤ教協議会の一員だと異議を申し
立てた。
熾烈な争いの末、敗れたシャクテルは脱会してしまった。
改革派でも著名な数人を含めて11人のラビが彼に従った。


 だが間もなくユダヤ教協議会と反シオニスト派はラビの支持を失い始めた。
戦争が終わって強制収容所の恐怖が暴露され、生存者がパレスチナヘ多数流れこんだ
ことがラビに強い影響を与えたのである。
イスラエル建国運動が盛んになるにつれて、ユダヤ教協議会は反対声明をより強くし
ていったので、嫌気のさした会員ラビが増えていった。
ユダヤアメリカ人はユダヤ人国家に何の義務もないというのと、そういった国が存
在してはならない、何万人もの難民が路頭に迷ってもいいというのとでは意味が違う。


 熱心さが嵩じたユダヤ教協議会はPRの失敗をおかした。
出版物や講演を通じて、シオニズムに反対しないユダヤアメリカ人は「二重忠誠」
の罪を犯している、ということはアメリカに対して不忠誠になると言ったのである。
しかも最も極端なシオニストに対してだけでなく、ユダヤアメリカ人へも公然と
この批判を押し付けた。アピールを支系の人へも公然とこの批判を押しつけた。
この侮辱は彼らをいたく傷つけた。
協議会の連中とて――少なくとも両親は――下船前は善良なアメリカ市民ではなかっ
たはずである。
 1948年5月に大混乱が起きた。
イスラエルの独立国家宣言の翌朝、トルーマン大統領が合衆国の承認を発表したので
ある。



アメリカのユダヤ人を二分していたシオニズムと反シオニズム間の争いは、この20
年間に重要さが薄れたばかりか、焦点がぼけてしまった。
少数派グループは依然として荒れ狂ってはいるが、側線のかなたへ行ってしまった。
その存在すら知らないアメリカのユダヤ人も多い。
35歳以下の平信徒にユダヤ教協議会のことを尋ねると、「防衛機関のことじゃない
かな?」といった答えが返ってくるだろう。


 こんなことを書くのは、ユダヤアメリカ人がもはやイスラエルに対して強い感情
を持っていないとか、そういった感情にはもはや闘争と矛盾の要素は含まれていない
ということを暗示したいからではない。
今日ではこの闘争はユダヤ人共同体内の二分した見解間にあるのではなく、ユダヤ
各個人の内部に微妙に続いているということが言いたいからである。


 表面的には緊張やあいまいさはない。イスラエルは建国され、ユダヤアメリカ人
のほとんどが受け入れ、好意の眼でみている。
これは改革派ユダヤ人も同じである。
その好感情の尺度はイスラエルへの寄付金額で計ることができる(注1)
ユダヤ人アピールからの巨額の金とは別に、ハダサは年間1,000万ドル近い金を集
めるし、ユダヤ婦人協議会は60万ドル、職能再教育機関は1,500万ドル、先達婦
人会は100万ドルも集め、1,500万ドル近い大金がイスラエルの3大高等教育機
関に直接渡され、ユダヤ人全米基金は280万ドル近い金を受け取り、労働機関のヒス
タドルートはアメリカ労働者シオニストから150万ドル近く受け取っている。
こうした公式慈善資金以外にイスラエルユダヤアメリカ人に7,600万ドルの公
債を売り、各地のユダヤ人共同体の保証つき銀行ローンの形でそれ以上の金額を集め、
将来の慈善基金として蓄えている。
 ユダヤアメリカ人で、シオニストの訪問を警戒する人もいない反面、イスラエル
住みつくことを考える者もほとんどいない。
1948年以後のどの調査でも同じ結果が出ている。
リバートン調査では、親の94%とその子の84%がイスラエルについて賛成している
が、移住希望は4%弱であった。
だからユダヤアメリカ人の対イスラエル感情は、アメリカ在住のアイルランド人がア
イルランド自由国に抱く感情――感傷的で望郷的で少々好戦的ではあるがアメリカヘの
受国心と対立する感情ではない――と同じだとよく言われる。


 この感情の感傷面は、イスラエルユダヤアメリカ人の社会的慣習に与えた表面的
な影響の中に見ることができる。
好例は、ヘブライ語が特に保守派信徒の間で流行していることである。
ヘブライ語は宗教言語としてではなく現代言語、聖書研究のためではなくテルアビブで
買い物をするための手段として教えられ、親子に受け入れられている。
地方の会堂もイスラエル中心になってきており、イスラエルのために募金運動をし、安
息日にはイスラエルのために祈り、イスラエル国旗をはためかせ、イスラエルの曲を演
奏し、イスラエルフォークソングを教え、宗教学校でフォークダンスをし、人形、祈
りのショール、いたるところにあるシャガールの窓の複製などのようなイスラエルの人
気商品をギフトショップで売っている。


 アメリカのユダヤ人の間ではイスラエルは政治論争の種にもなっている。
ほとんどの者がユダヤ人離散がどんなものであるかを知らず、自分がその一員であるこ
とも意識していないが、反イスラエル派政治家にはユダヤ人、異教徒の区別なく投票し
ない。
数年前ウイリアム・ハダッドという名のニューヨーク市議候補はアラブ人だという噂が
広まったためにユダヤ人地区では敗れてしまった。
彼は自分はユダヤ人だと公言していたが有権者の間でエル・ハダッドとして知れ渡って
しまい、みんな対立候補者に投票してしまった。
だから二大政党はイスラエル支持派を応援弁士に加える配慮を忘れず、どんな宗派の
政治家もイスラエル賛成のラリーやユダヤ人アピール主催の晩餐会に出席したがるの
もうなずけよう。


 イスラエルへの愛情を明白にできるものがまだある。
それはユダヤアメリカ人のイスラエル旅行熱である。
1965年にイスラエルを訪れたユダヤアメリカ人旅行者は8万人にも達する。
この中には再訪者も多い。
何度でも訪れたがる。
あるラビによると、会衆がイスラエルに寄らないヨーロッパ旅行を計画する時にはラ
ビに許しを乞うそうである。
団体でもイスラエルに行く。
会員の奉仕への返礼としてこの団体旅行をユダヤ教各機関が用いることが流行してい
る。
ユダヤ人アピールのイスラエル使節団」は演出の奇跡である。
アピールの一団はハイファヘ逃れる難民が乗りこんだ船を見るのにちょうどよい時間
ナポリに到着する。
数日後にハイファに着き、そこで再び難民でいっぱいの船を見る。
このように彼らは自分たちの金が果たしている効果の一部始終を見るという満足のい
く歓迎を受けるわけである。
タイミングを合わせるために船が地中海で1日余分に過ごしたことなどどうでもいい
のである。


 だがイスラエル側では、アメリカの旅行者、特に金持ちの旅行者を好んでいない。
イスラエルの一部を金で買ってやったというような感情を持つアメリカ人が多すぎる
のである。
キブツでは私的な場所にも首をつっこみたがるしホテルでは特別サービスを要求する。
食物がまずい、暑い、安息日である土曜日にタクシーが拾えないのは不便だと大声で
文句を言う。
一方、ホテル経営者と違って率直なイスラエル人は思ったことを堂々と旅行者に言う。
ところがイスラエル中をイライラしながら旅行したユダヤアメリカ人も、帰国する
と友人にイスラエルはすばらしい国だと吹聴し、またまたイライラを求めてイスラエ
ルに旅行するのである。


 このへつらいの大合唱には不賛成を唱える声も混じっている。
ユダヤ教協議会はイスラエル建国後の1年間で80%もの会員を失ってしまったも
ののなお存在している。
決意の固いニ、三のドイツ系の老百万長者が維持費を出しパンフレットには昔ながら
の好戦的な調子が残っている。
だがここの事務員の話だと「意気消沈した雰囲気が重々しすぎて、ナイフで切りつけ
たくなる」ということである。


 正統派の極右翼からも反対の声があがっている。
イスラエルが聖地であることを強く信じているにもかかわらず、イスラエル政府には
尊敬の念を持っていない。
正統派にだけでなく世界中の分派に力を配分している同政府は、聖書の予言にもとっ
た行為をしており、シオニストたちは古代。バビロン人やローマ人のようにイスラエ
ルの地の異教徒を侵略しているというのが彼らの主張である。
右翼のイエシバのある幹部が私に言った。
ユダヤ人に関する本物の歴史書は少ない。ほとんどがシオニズム気味のものだ。例
えば正統派系の学校が採用している本はシオニズムを隠した一大傑作だ」


 イスラエルが彼らの宗教感覚に逆らうようなことをするたびに右寄りのラビ集団が
声を大にして抗議するのも同じ精神が原因である。
最近も死体解剖に関するイスラエルの法律がハラカにもとるという声をあげた。
ニューヨークのイスラエル領事館にピケを張りさえする。
数年前あごひげをたくわえヤームルカをかぶった正統派のピケ隊が、大使館の前でア
ラブ学生協会のピケ隊と平行デモを行なったことさえある。


 だが正統派の不賛成者の憎しみの中にも強い愛の調べが流れているのである。
イスラエル行きの機内で反対者と隣りあわせたラビの話を聞いた。
その老人は機内では、ユダヤ教協議会を意気揚々とさせるようなイスラエル批判やの
のしりの言葉を吐いていたが、飛行機がテルアビブに着いて大地に足をつけた途端、
目に涙をためて、「やっぱり故郷だ」と言ったという。


後半部は、明日。