創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(816)『アメリカのユダヤ人』を読む(38)

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生  活


ほかに誰をあてにできる? (3)



(承前)
 調査によれば、ユダヤ人の親たちは子供の業績のことを自慢し、失敗にはロ
を閉ざす傾向が強いという。 (注6) 
これは当てにならない。
子供が失敗してもユダヤ人の親はめったにぶたないし、ユダヤ人の夫もめった
に妻をぶたないが、心理的圧力は容赦ない。
学校でも仕事でも結婚のときにも、ユダヤ人ほど子供に厳しい親はない。
次の一族集会で毅然としていられるかどうかも子供の成功次第だからである。


 ユダヤ人養子縁組代理店で働く人はもっとも生々しい形でそれを目にする。
近年では母親がユダヤ人で父親が黒人という混血私生児が増えている。
ハラカ的見地からすれば、この子供は明らかにユダヤ人であるはずなのに、
養子希望のユダヤ人夫婦を見つけるのは困難だという。
養子になるユダヤ人赤ん坊が不足しており、公民権運動についてユダヤ人が
リベラルな見方をしており、ユダヤ人口が減っていると体制派が嘆いている
のにである。
ユダヤ人の人種偏見のせいである。
「ハンディキヤップ」を背負った黒人との混血児を養子にすれば、自分の身
に悪く作用してくる。
つまりここでも「ユダヤ人にとっては子供は自分の延長」なのである。


 ユダヤ人の子供ははっきりと知ってはいるが家族生活の感情調査では回答
されることのない親の計略もこれで説明がつく。 
ユダヤ人の親は服従を強要するために折檻はしないかも知れないが、もっと
抗しがたい武器を用いる。
――罪である。
「お前は母さんを殺そうとしてるのだよ」と子供にしてほしくないことをさ
れた父親は言う。
子供の行動の良し悪しは無関係である。
問題はママに与える影響である。
娘が正統派の結婚式を拒否したら窓から飛び降りるとおどした母親もいるし、
中国人と結婚したいと言う娘の求婚者に娘の感情なんかそっちのけで「あな
たが今私たちにどんなことをしでかそうとしているか知らないのですか! 
妻は糖尿病で死にそうだし、私も薬物治療中なのに!」などと書きつづった
父親もいる。


 この習慣はユダヤ人の中に深くしみついているので、子供時代にこれに悩
まされた張本人ですら自分の子供には同じことをやる。
この性癖について友人の一人と自分の子供時代から例を拾いあげて議論して
いた。
すると彼小さな娘が不作法な振舞いを始めた。
彼は娘をどなりりけて言った。
「やめなさい、リサー お客さんの前でお父さんに恥をかかしたいのかい?」


 シュテットルの住人はこの策略を理解してはいただろうが、起源を知った
ら驚いただろう。
昔から子供を叱るのは父親ではなかった。
父親とは食卓の上座に黙ってすわっているか、椅子でモーゼ五書に夢中にな
っている、かの尊厳をたたえた人物であった。
もっとも、くそ真面目な説教のときくらいしか父親は狩りだされず、父親の
罰のくだし方は黙って違反者に目を向け、数秒間静かに悲しげに見つめるだ
けであった。
子供心に恐怖を植えつけるのにはこれで十分であった。
家庭内のきりもりは母親の役であった。
母親は料理、掃除、小言だけでなく、家計もいっさいまかされており、商人
との取り引きや貯金さえ一人でやった。


 今日のユダヤ人の若い父親はシュテットル時代の彼の父親やおじいさんと
は大きく異なるが、両者の関連性が完全に消えさったわけではない。
シュテットルの住人がローアー・イーストサイドに落ちついたとき、新しい
環境に当惑することが多かった。
彼の沈黙、学究的な態度は昔の国では価値があったが、アメリカというジャ
ングルでは無意味だった。
衣料工場の裁断師が東欧の家庭内での敬虔な家長のような宗教的尊敬をどう
してかち得ることができよう? 
外見だけはとりつくろわれたが ある中年の大学教授は家族が住んでいるち
っぽけなアパートの一番前の部屋は日曜日に父親が占有するものとして平日
はドアが閉ざされたままであるが――精神のほうはどこかへいってしまった
と話してくれた。


 問題はそれでも外見がとりつくろわれていたということである。
家庭を支配するのは母親であり、ぼんやりとしてはいるが父親は畏敬にみち
た外見をとどめていた。
ところが次の世代に父親が事業に成功するや、わずかだが変化してしまった。
子供たちが父親の姿を見るのはやはりまれではあったが、会堂でではなく、
会社でだった。
子供たちの厚生と行動の責任も妻のものであった。
いま40代かそれ以上のアメリカのユダヤ人の多くは、子供時代にいたずら
をしたときに父親が母親に言っていた言葉を憶えているだろう。
「お前はこんなふうに子供を育てたのか?」


 そしてアメリカに渡った初期のころの滅びかけていた感情は、財をなした
二代目の父親にも残されていた。
会社以外での彼はまるでこの世に属していないかのように見えた。
夕食の会話は彼のまわりでははかどらず、興味もひかなかった。
休日には彼は無用の長物だった。
2、3人の友人とトランプに興じたり新聞で顔をおおってぼ日光浴するだけ
で、いっしょに楽しんでいる家族に加わろうともしなかった。


 ところが今日では変わっ七しまった。
ユダヤ大の父親は皿洗いを手伝うし、子供のおむつはかえるし、息子を野球
の試合に連れて行き、他の人種の父親と同じになっでしまった。
だがどこかに昔の感情が残っている。
私は郊外に住む幾人もの10代の若者と話したが、家庭内の決定をし、家を
本当にきりもりしているのは母親だと言わない子供は数人しかいなかった。
「母って精力的ですよ。父は違います。母の言うことに耳をかすだけです」
とある少女は言った。
女性が勘定を払い子供に関する重要な決定を下だす家庭に私もずいぶんお目
にかかった。
そうでない家庭でも央との行動予定を決めるのはほとんどが妻側である――
父親の「真の生活」は会社であって、彼の社交生活は力の及ぼす必要のない
分野だという含みがこれにはあろう。
郊外に住んで都心へ定期券通勤をするので家族と過ごす時間が少なくなって
いる。
前の部屋のドアを平日に閉めておいてくれる者はいなくなったし、家族に会
えるのはほとんどが週末だけである。


 この半世紀の間のアメリカの慣習の変化で最も恩恵をこうむったのは女で
あるとよく言われる。
ユダヤ人女性に関する限りは的はずれである。
ユダヤ人の姿勢には常に多義的なところがあるからである。
一方では女性は昔から蔑視されており、会堂では2階にすわらなければなら
ないし食卓でも下座につくし、男のようにタルムドを学ぶことは許されてい
ない。
だが一方では男は尊敬をこめ、ときには崇拝の念をこめて女を扱うようにモ
ーゼ五書は強要しているし、ハラカではセックスの究極の目的は女性を喜悦
させることである。
喜びを与えずして女をセックスの相手として利用する男はたとえ妻であろう
とも罪を犯すことになると説いている。
女はおもちゃとも道具とも駄獣とも考えられてはいない。


 この多義性は今日のユダヤ人女性の地位にも現われている。
ユダヤ人クラブでは会員に推薦されるのは夫であって妻ではない。
夫が死ぬと妻が会員資格を継ぐが、再婚すれば新しい夫と同じことを繰りか
えすわけである。
最近では女も男と同じように大学へ行くが「あまり利巧になる」のは女らし
くないという感情があって、聡明な娘に夫を見つけたいならお馬鹿さんらし
く振舞えと言う母親が多い。
ウイルクルバーレの10代を対象にしたユダヤ委員会の調査では、ユダヤ
女子は男子以上に両親に親近感を抱いてないという結果が出た(注7)――
男子中心の文化の中で育てられたことを確証するものではないにしても、
何かは示唆する。
さらにユダヤ人女子が家族にたてつくときには男兄弟よりもはるかに非社会
的な方法でやる。
家を出て妊娠するのだ――それも相手がユダヤ人であることはめったにない。
一世代前はイタリア人だったが今日では黒人であることが多い。
女の子たちは背景も趣味も外見も家族とできるだけ違う相手を選ぼうとして
いるのである。


 と同時にユダヤ人の生活で女性が優位を占めていることも明らかである。
ユダヤ人の婦人クラプ会員タイプ――五指に余るほどの組織に加入して会合
で司会役を勤めて新聞に投書する――は役立たずで花の帽子をかぶっている
ヘレン・ホキソンソンの漫画とはほど遠い。
手ごわい生きもので、屈強な男をも震えあがらせる存在として知られている。
事実、どんな調査をしても、ユダヤ人女性は他の女性よりもずっと組織への
関心が強く、家庭以外のあらゆる慈善活動や文化活動に忙しく出かけるとい
う結果が出る。
そんな種族は消えようとしているというなら、日曜学校を訪ねてみるがよい。
女子も男子と同じくらい手をあげているし、答弁も聡明で挑戦的である。


 今日のアメリカのユダヤ人女性と祖国との相違点は基本的性格ではなく、
アメリカでの経験が性格に与えた影響にある。
シュテットルの女性は多義的に生きたが、その多義性には何の葛藤も起こさ
なかった。
だがユダヤアメリカ人女性には侵略的な面と従順な面とがあり、両極端な
性格に心を悩ませている。
「女性のあり方」――家にとどまって家族の面倒をみるべきか、それとも仕
事につくべきか?――という問題も他のアメリカ女性同様頭を悩ます。
だが彼女の中には自分がユダヤ人であるために他のアメリカ女性にない疑い
や困惑がある。
家庭内のことを怠ればユダヤ人を裏切ることになるのではないか? 
だからユダヤ人女性が家を出て仕事につく場合、ユダヤ人組織関係の仕事
が多い。
そうしておけば、買物やマージャンなど自分が本当に好きなことをしても
良心の苛責を感じないで済むわけである。


 結局、子供のそばを長く離れるということはしない。
自分の場所が子供のそばであることを知っているのである。
彼女の中のユダヤ人の血がそう告げる――あるいは彼女のユダヤ人的な不
安なのかも知れないが。
子供を可愛いがり心配し小言を言ってやましさを感じさせるのは自分以外
にないではないか? 
新しい母親の語彙は彼女の母親よりもずっと洗練されている――娘の無精
さよりも反抗癖のことを話すし、息子の成績が悪くてもお前が私を殺すな
むどとは言わず、「母さんたちのやり方が悪かった」と言うが、彼女のラ
ドクリフ女子大の卒業証書の下には本来の姿――懐しきユダヤ人の母親像
――が隠されているのをかいま見ることができる。


 最近ではユダヤ人家庭の衰退ぶりを嘆き悲しむ人がいる。
祈りやモラルの衰退とともに説教の共通テーマの一つになっている。
この意気消沈につきまとう問題は「ユダヤ人家庭は今日この時代にどうす
べきか?」という興味深い質問から注意をそらしてしまうことである。
家庭の長所はその欠陥を相殺しているだろうか? 
なぜ衰退すべきではないのか?


 家庭の擁護者は2つの長所をあげる。
第一にユダヤ人の両親が子供たちから緊張と同時に大きな満足・幸福感も
感じているはずだと言う。
生まれ変わることができたら、今度は子供はいらないとため息まじりに言
ユダヤ人の親や老人の話は聞いたことがない。
第二にユダヤ人家庭擁護者はこうも言う。
ユダヤ人の子供はたいていがよい結果になるのだから育て方が悪かろうは
ずはない。
アメリカの他の民族グループの中で、家庭の団結を重視している中国人だ
けが少年犯罪率が低いではないか。


 たしかにそれはユダヤ人家庭生活の長所を裏付けてはいるが、弱点がな
いという証明にもならない。
第一、少年犯罪だけを見て良し悪しの判断はできない。
非行に走るのは家庭に見捨てられた子供である――社会が彼らを見捨てる
から、社会に対して復讐してくるのである。
たしかにユダヤ人の子供は見捨てられることはまずないが、正反対の問題
に直面しているように見受けられる。
「どうしたら出られるか?」である。


 彼らは出ているとユダヤ人家庭擁護者は反論するだろう。
比較調査の結果、ユダヤ人は両親の町から離れたところで仕事につきたが
り、両親の近くに住みたがる夫婦は少ないし、若いユダヤ人で両親に結婚
の許可を乞う者はまずいないという事実がでている。(注8)
これらの事実はユダヤ人ぱ成長すると巣から飛び立つことができることを
まさに証明するものである。
  一見したところはそうだろう。
だが表面はともかく裏面はどうなっているのだろう? 若いユダヤ人が巣
から飛び立つとき、難くせをつけるのをやめることができない重荷をどの
程度までかかえていくだろうか? 
この問いには青少年犯罪の統計ではなんの答えも得られない。
その代わりユダヤ人が他の民族よりもしぱしば話題にはするが理解するこ
との少ない問題に目を向けてみる必要がある。


明日に、つづく。