創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(817)『アメリカのユダヤ人』を読む(39)

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生  活


ほかに誰をあてにできる? (この項 了)



(承前)
 フロイドが精神分析を創始して以来、ユダヤ人はそれに魅せられてきた。
アメリカ全体のユダヤ精神分析医の数は知らないが、ニューヘブンの精神分
析医の84%はユダヤ人だし、ニューヨークでもそれを若干下まわる率である。(注9)
わが国で牧師精神医学課程を設けたのはユダヤ人の神学校が最初だった。
1920年代初期にはユダヤ人機関が最初に青少年犯罪に精神医学的アプロー
チを適用した。
ホーソンは宿泊設備つき治療センターとして個人療法とグループ療法を正規の
課程に組み入れた最初の少年院だった。


 精神分析を受けている患者の大半がユダヤ人であることに疑問の余地はない。
ユダヤ人の両親は同等に裕福な非ユダヤ人の両親よりも子供に精神医学的治療
を受けさせることも真実だろう。
精神分析を受けるだけの余裕がない親たちも、安価な精神医学的治療法の恩恵
にあずかろうとやっきになる。
この分野のある指導者は「精神衛生診療所を開けば広告もしないのに群がって
くるのはユダヤ人だけだろう」と言う。
事実、ユダヤ人共同体のある地区では精神医学が生活の一様式や代用宗教にさ
えなっている。
カリフォルニア南部で分析医の世話になっていないユダヤ人家庭を見つけるの
は困難である。


 ユダヤ人に精神医学が人気がある理由はたくさんある。
ユダヤ教の場合は、キリスト教のある宗派のように教義と精神医学が相いれな
いということもない。
ユダヤ人は自分の健康のこととなると気まま勝手に振舞うし、病気のときには
最高の治療を受けたがる。
現代的で今様のものや実験的なものはなんでも気に入るし、精神医学特に精神
分析の知性尊重主義がユダヤ人の心に得もいわれぬ魅力を発揮する。
というともっともらしいが、実は二義的なものでしかない。
私は最も明解な説明は「ユダヤ人には何がしかの精神医学的治療が必要」なの
だと思う。


 この件についての統計に関する限り、ユダヤ人の精神病形態には一つはっき
りしたパターンがあるようである。
1950年にニューヘブンで精神医学的治療を受けでいる入院・外来患者の調
査が行なわれた(注10)。
当時のニューヘブンの全人口に占めるユダヤ人は9.7%が、そして精神医学的
治療を受けている患者の12%がユダヤ人であった。
これはニューヘブンの他のグループを少々上まわる程度でさして驚く数字では
ない。
だが患者を病名別に分類して食い違いがはっきりした。
精神分裂症、情緒不安定症、精神異常の患者の11%がユダヤ人であった――
人口総数に占める率からすればそれほど高率ではない。
だがなんらかのノイローゼ患者の場合は24%がユダヤ人だった。


 1962年にもニューヨークで同様の調査が行なわれた。(注10)
マンハッタンで、年齢、収入、教育等に応じで1,660名が対象に選ばれた。
精神医学的治療を受けている患者に対象をしぼったわけではなかった。
そして調査対象者は、ノイローゼ兆候の程度によって等級付けされた。
そうした症状が少ない者は「良好」の部に入れられた。
この部ではプロテスタントの20.2%ガが「良好」だった。
次がカソリック教徒の17.4%、ユダヤ人はわずか14.5%がでしかなかった。
次にひどい情緒不安定――ノイローゼというより精神異常――者の数に応じてグ
ループが等級付けされた。
ユダヤ人の精神障害者は、プロテスタント23.5%、カソリックの24.7%に
比べてわずか17.2%だった。
どんな宗教を信じていようと危険の多い今日、社会にあってなんらかの精神病に
かからないでいるのは至難のわざだが、この調査を見るとユダヤ人が完全な病気
にかかることはまれでも、つきまとって離れない不安だとか日ごとの不安や精神
緊張など体の具合いが悪いような気分に陥りやすいことがわかる。


 私が話した専門家の個人的経験でもこのことが明確にされた。
精神分析医は精神分裂症、緊張病、ホモ、偏執狂になっているユダヤ人にはあま
り会わないが、ノイローゼのユダヤ人にはいやというほど会うという。
これには家庭生活の長短両所が大いに作用しているとみられる。
ユダヤ人は精神異常を起こすほどの残忍でショッキングな子供時代を送ることは
めったにないし、他の宗教教徒のように拒絶や残酷さ、愛してくれない両親にさ
らされることもない。
だが彼らはノイローゼをもたらす家庭の雰囲気にさらされる機会は多い。
愛情を与えすぎ、子供に自分の道を切り拓かせてやらない「親」の存在によって
徐々に情緒の成長が妨げられていくのである。


家庭生活だけでなく人生に対するユダヤ人の姿勢――そしてあの神聖にして犯す
べからざる「倫理的伝統」――にもノイローゼを生む何かがある。ユダヤ人が祝
いたいと思う時に最もよくロにされることが多い、例の倫理的伝統にもう一度目
を移してみよう。
ユダヤ人はどんな人間であっても、まずアル中にはならない。
罪やあやまちを犯しても飲みすぎはしない。


 これは心理学者や社会学者の思考対象となってきた。(注11)
質問やインタビューその他のデータ収集の手段を駆使した結果、こんな結論に達
した。
ユダヤ人が酔っぱらうのを恐れるのは、異教徒に見苦しい姿を見せたくないから
だと。
反ユダヤ主義に悩まされ続けた結果、酔ったら敵の世界に利用されるという恐れ
にとりつかれて自制心を失わぬように用心と警戒を怠らないのである。
ユダヤ人の心に節酒は異教徒にない道義上の長所だとする考えがあり、異教徒を
見下すための手段として固執しているのである。異教徒との差をつけ、異教徒と
親しくしたくない気持ちの象徴であり、ゲットーの壁を維持するための一手段と
して固執しているのである。


 こうした説明は形こそ異なれ、すべて同じ感情――異教徒の世界での不安――
を表現している。
これを読むとユダヤ人はわざと道義的な理由から飲まないということを選んでい
るのか、それとも飲めないのかと考えさせられる。
多分ユダヤ人の酒に対する反発は、アル中の酒に対する愛着と同じくらい強いも
のであり、「心ならずも」のものであるのかも知れない。
「私は飲めるユダヤ人にとんとお目にかかったことはありません。無理にでも飲
もうとはするようですが、3杯も重ねると気分が悪くなってしまうんですね」と
ある食品調達所で働くバーテンダーは言った。
これはわけのわからない多くの兆候を説明する明白な事実である。
ユダヤ人は異教徒と飲むことがなぜ少ないか? 
大学や軍隊の若いユダヤ人は家庭の束縛を離れたときでさえ、適度にしか酒を飲
まないのはなぜか? 
商用の夕食会でユダヤ人が異教徒の顧客の気分を害する恐れがあるにもかかわら
ず、1杯か2杯をチピリチピリやるだけなのもこれで説明がつく。


 良い飲み手になるためには、自分を解放してすべては風まかせ、二日酔いを気
に病まず、今宵の楽しみに心からひたらなければならない。
多くのユダヤ人はこう言うだろう。
そんな人間になりたい者がいるだろうか? 
人には未来というものがある。
二日酔いは不快なものである。
それに自分を馬鹿にしたところで何の得があるというのだ?


 「なんの得があるのか?」
これはユダヤ人がいつもロにする言葉である。
物質的な得のことを言っているのではないかも知れない。
もっと高尚な文化とか慈善とか公共福祉に関する理想について言っているのだろう。
しかしその「ポイント」が見えるまでは何もしようとしない。
何千年にもわたるゲットーでの生活経験――異教徒に向かって正確に計算してから
ものを言う、異教徒がどう利用するかわかったものではないではないか?――が本
能の恐れを本能そのものに変えてしまった。


 ユダヤ人は自分たちがのびのびとしており、自然でいかに暖かい心の持主である
かを好んで語る。
ある意味では――冷血なピューリタニズムは快楽主義よりも彼らにとってほど遠い
ものであるから――そうかも知れない。
だが、その自然さには常に安全弁があって、行き過ぎないように用心を怠らない。
ある精神病学者はユダヤ人女子の乱行についてこう言っている。
「たしかに統計には一目置きますが、感情まで説明はできません。やたらにいろい
ろな人と寝ているユダヤ人女子にはたくさんお目にかかるが、異教徒の女子のよう
な喜びや楽しみを得てはいません。それを見ると妻が毒づいたときに言ったマーク
・トウェインの言葉を思い出します。
『たしかにその言葉は言いえて妙だが、気持ちまで表わすことはできませんよ』」


 もちろん、シュテットルでもそうだった。
だが、そこでの生活にはかなりの注意深さ、計算、抑圧を要した。
10人もの子供をかかえて路頭に迷い、いつ大虐殺があるかも知れないときに、自
然でのびのびしていることは容易ではなかった。
シュテットルでは自己防衛のために必要であった性格がアメリカに持ってこられる
といったいどうなるであろうか? 
結果はただ一つ、ユダヤアメリカ人が持ちあわせている自己矛盾的性格である。
家族を愛し、かつ憎む。
貧しき者に慈善心をふりそそぎ、かつ食べすぎるほど食べる。
迷信を嘲笑する。
木をたたく(まじない)
人間の兄弟愛を信じながらも、人類のほとんどから身を退ける。
誇らし気に理想家で個人主義者だと宣言しながらも、郊外の安全にすがりつく。
そしてほとんどの者がこうした矛盾を一つとして解決しようとはしていないのである。


 それにこの内部分裂はローアー・イースト時代より今日のほうがはるかに大きなもの
になっている。
それはわれわれがゲットーの壁をこわして外部の世界に住んでいるからである。
自由にのんきに喜びと冒険心を持って。
だが外の世界に完全に入りきってしまったわけではない――貝殻から半分身をのり出し、
半分身を入れている――なかにははい出ようとやっきになっている者もいれば、もぐり
こもうとしている者もいる。
多くの者は
あっちこっちへ引っぱられて右往左往しているのである。
どの調査を見てもノイローゼなる率は一代目の移民よりも二代目のユダヤアメリカ人
のほうが高く、三代目の子供にいたってはもっと高いということは意味深長だと思う。(注12) 
しかし何かよくないことがあるということを認めるほど心の用意のできている人はほと
んどいないようである。
われわれ自身がここアメリカに打ち建てた壮大な建物はその構造に大きな欠陥がある。
しかしわれわれはこのことから目をそむけている。
自己矛盾をかかえて生きることに巧みすぎる。
夢中になっているところさえある。
この二重性がわれわれを「興味深い」「カラフルな」「予測し難い」人間にしていると
さえ言ってのける。
ノイローゼ患者のように、自身の利益のために利口になりすぎているのである。
 この盲目さが、われわれの未来に由々しい結果をもたらすことになるのではないだろ
うか?


次回は、8月20日、21日。最終章[死滅するか?]


注1. "Jewish Social Work in the Unit~d States," The Jew: Social Patterns 0/ an American Group, edited, by Marshall Sklare, New York, The Free Press,1958.
2.  Ben B. Seligman, in ibid
3.  Ibid.
4.  November, 1966, bulletin of Young Israel of Fifth Avenue.
5.  Fred L. Strodtbeck, "Family Interaction, Values, and Achievement," in The Jews: Social Patterns of" an American
   Group, op. cit.
6.  The Jewish Teenagers 0/ Wilkes-Barre, a studymade in 1965 by AJC.
7.  Fred L. Strodtbeck, op. cit.8.
8.  A. B. Hollingshead and Frederick Redlich, Social Class and Mental Illness: A Community Study, New York, John Wiley     and Sons, 1958.
9.  Jerome K. Myers and Bertram H. Roberts, "Some Relationships between Religion, Ethnic Origin, and Mental Illness,"
   in The Jews: Social Patterns an American Group, op. cit.
10. Leo Strole et al., Mental Health in the Metropolis, New York, McGraw-Hill Book Company, 1962, Volume I.
11. ユダヤ人の飲酒癖については多くの研究がある。最も欲知られているもの一つ、ニュー・ヘブンの研究 Charles R. Snyder によ   って描かれ、分析されている。
   ”Culture and Jewish Sobriety,” in The Jews: Social Patterns 0/ an American Grovp, op. cit.
12. Myers and Roberts, op. cit.