創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(413)ゲイジ、ロビンソンさん、25周年を語る(4)


アート=コピー・セッション(アートディレクターとコピーライター会談)がクリエイティブ・チームの最小単位で、かつ、責任範囲です。
それまでの米国における---ということは、ほとんどの国での---広告制作は、コピーライター(文案家)がその広告全体のコピーを一人で仕上げ、下手くそなスケッチを添え、(比喩的にいうと)紙飛行機に折り、デザイナー(図案屋)の机に飛ばしたのだといいます。
ところが、広告人として目覚めたデザイナーは、呼称をアートディレクターと改め、単なる図案でなく広告アート---つまり、セル(売る)ための広告制作に、1:1の立場で参加するようになりました。この方式を考え出し、実行したのがバーンバックさんで、そのために、1949年6月1日にDDBという広告代理店を設立し、みるみる成功していきました。

記事は『DDB News』1974年6月号 25周年特集号より意訳)



:お2人は、創業から25年間、コンビでやってきましたね。


ロビンソン:グレイ広告代理店の時代からだから、もっと、になるわ(笑)。


:そのあいだに変化したことってありました?


ロビンソン:お互い、成長したとおもいます。でも、根本のところは変わってません。永いあいだいっしょに組んでやってきた分、相手が言おうとしていることがすばやく分かり、反応が早くはなりました。相互のアイデアをすばやく捨てたり、発展させたりが早くなったって意味ですが。


ゲイジ : そう、それは、じつに簡単になりましたね……というのは、お互いを深く知りあっているので、つまらないアイデアを投げてきてもそれを一応は受け取るだけは受け取ってやる。ビル(バーンバックさん)が私に、信じられないほどの数のつまらないアイデアを投げてきたので、ぼくはそれをそっくり投げ返したものです。フィリスともそう。フィリスがつまらないアイデアを投げてきたら、投げ返すんです。それができなかったら、他の人と組んでのDDB流の仕事はできませんよ。組んでいる相手が「そんなアイデアじゃ、やってられないよ」と怒って部屋を出て行ったら、DDBでは、その人と組んで仕事がすすめられるということなんです。


長いあいだこの業界で仕事をしていると、自分の感情を口にだして吐きだす前に、制御してしまう習慣がつきやすいのです。新しい誰かと組んだら、まず、27ヶほどのくだらないアイデアを口にだしてみるんです。時間の浪費ともおもえますよ。
ところが、これが違うんです、ぼくがフィリスといっしょにいて、いまの言ったくだらないアイデアをフィリスに投げたとしませんか、フィリスが「バカみたい」「捨て案ね」「ちょとマシかな」フィリスがそう言ってのってきたらしめたものです。フィリスの方からも10ヶのアイデアがでてくるんです。そうやって、仕事がはかどりはじめ、スピードに乗ってくるんです。
実に簡単なアイデア生産方式でしょう? これ以外の方法は、ほんとうはイバラの道なんです。この手くだをコマーシャルで採用してきました。多くのコマーシャルで、人びとが野原を駆け抜け、林の中を歩いているでしょう、でも新しいイメージに到達するのは実に困難です。


>>(5)




参照
>>バーンバックさんのスピーチ[クリエイティブの核心](4)


>>『創造と環境』目次
・第4章 創造のためのペア・チーム
・第5章 ペア・チームの実例