創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(441)トミ・アンゲラーとの対話(8)

2009年8月号『芸術新潮』がトミ・ウンゲラー特集をしています。
アンゲラーは、彼が世にでた英語圏読み。ウンゲラーは、母国読み。
米国時代の彼からアンゲラーと教わったので、ここではアンゲラーで通します。



42丁目西220番地-------

動物見立て


偉大芸術でも,
世界の美しきを措いているものには,
ぼくは興味を感じなかった。
           ジョージ・グロス


     ●




私が初めてトミを訪ねたのは、1966年11月12日の午前10時30分であった。


私の企画による『アイデア』誌でトミ特集号の打合せのために、トミはカナダのモントリオールからニューヨークへ帰ってきてくれたのたった。
指定された場所は、42丁目西220番地にある彼のアトリエ。
私は、予定の時間よりも40分も早くそのビルを探がしあて、1階のダイレクトリィのアルファベットの「U」のところに「Ungerer, Tomi, 2100」と銘板がはめこまれているのを確かめると、もういちど小雨の街へ出ていった。
アスファルトは濡れて、映画館群のイルミネーションの点滅を映していた。
このあたりは7番街と8番衝にはさまれたエログロナンセンスの街だ。


映画館は2本立て、3本立てのボリュームを誇示し、その中のいくつかは日本流にいえばエロダクション製のフイルムをかけている。
その隣りには小規模なカフェテリア食堂、安物トランジスタ製品の店-・・・などが並んでいる。
エロ雑誌・春本の類いをウィンドゥに飾っている書店兼レコード店もある。
すべてが露出狂的で、官能的で、野卑で、卑猥で、ほこりっぽく、野放図だった。
二ューヨークの火傷あとのような街だ。


(写真:42丁目のディスカウント店の前でポーズをとるトミ。
Tomi posing front a shop, at 42nd Street, which was doing a elearance sale.He said "I like 42nd Street best because this is the wildest." )

私は、春本の題名を克明に読み、内容を想像し、あるいは入念に映画のスチール写真を鑑賞し、あるいは日本製トランジスタラジオのドル価を邦価に換算したりして時間をつぶした。
あとでトミといっしょにこの界隈を歩いた時、「ニューヨークではこのあたりがいちばん好きだ。だからここに仕事場を持ったんだよ。無秩序で、野卑で、整理されてないだろう。だから好きなんだ」と、いたずらっぼく笑い、新聞紙をウィンドゥにベタベタと貼り、それに黒と赤のポスターカラーで肉太に「値下げ」とか「割引き」とか書いたトランジスラジオ店でポーズをとってくれたことを思い出す。



その時、彼の言った言葉をすぐ理解できたのは、時間つぶしの賜物だった。
トミのアトリエは、その西220番地ビルの21階にあった。
土曜日だったせいか、エレベータにはほかに客がいなかった。
あっと思う間に、私たちは21階に到達していた。


私たち--- そう、友人のグラフィック・デザイナーの稲垣行一郎氏と、通訳を勤めてくれた大井 孝さんである。
稲垣氏は彼自身の興味を滴足させるために同伴を申し出た。
コロンビア大学の大学院で政治学を専攻している大井さんは---あとで「ぼくには、気違いとしか思えない」とトミ評をして私を喜ばせてくれた。


アトリエに招じ入れられた途端、異様な雰囲気に、私もちょっと身構えた。
42T目の街でみた以上のエログロ・ナンセンスが部屋いっぱいに散乱していたからである。
それらの一つ一つを描写することは不可能だ。
トミにしたところで退屈しのぎにやったいたずらの産物だろうし---手に触れるもの、目にふれるものをつくり変えなければ気のすまないトミなのだから---つくり変える---というより、彼自身の観念を、目が見ているものに似せるだけのことなのだが---。
一つだけ措写しておこう。
彼のライティング・デスクの背後の書架に、リンドン・ジョンソン大統の半身像写真絵はがきが画鋲でとめてあった。
ジョンソン氏は、可能な限り謹厳さと親しみを平衡させた表情でポーズをとってい、た。
民主主義の米国の象徴としてポーズしていた。
ところがトミは、ジョンソンの写真の股間に油性粘土のペニスをくっつけていたのである。
巨大なべニスは、だらしなく垂れさがっていた。負け犬が逃げ去る時の尻尾のような形で---。


ゴヤの「マハ」の現代版だな・・・・・と思った。即興的で、一元的表現の「マハ」。
トミと私は、目を見合わせて笑いあった。
その瞬間、私たちは親しみを増し合ったようだった。


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【chuukyuu補】DDBにあこがれたぼくたちは、某デザイン会社を退職し、小さな広告制作会社を興した。そのときの同志の一人---森島くん(故人)を創業2年目にニューヨークへ研修旅行に送りだした。DDBを見てきてもらうためであった(創業者のぼくが初訪米したのはその1年後)。
彼は、前の職場の同僚で、ニューヨークで活躍していたイラストレイター・三橋陽子(故人)さんといっしょにトミ・アンゲラーのアトリエも訪ね、リポートを隔月刊『アイデア』誌(1967年・第80号)に寄稿していた。故人お2人のご冥福を祈る意味で、写真を転載させていただく。(右の写真:アトリエのバルコニーで。トミと陽子さん)


下の写真:コメント欄でraggamuffin さんが見たいとアピールなさったバルコニー。前住者のバレー教師が描いた草の絵に、トミが女体ら加筆。実物はカラー。
Tomi's the balcony of his atelier, Tomi added semi-nude women to the ballet-teacher, former resident, had dawn. )




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