創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(448)『トミ・アンゲラー絵本の世界』(第4回)


桃太郎は、鬼ヶ島へ鬼退治に----
ゼラルダは、腕によりをかけて料理をつくり、鬼の心をとろけさせてしまう。
戦争か、外交か---なんて、むつかしく考えない。
孫子』だったかに、すくなくとも相手を「敵にはまわさない」って外交努力が書かれていましたな。




『ゼラルダと人喰い鬼』(上)


トミ・アンゲラーの手になる15冊目の絵本が『ゼラルダのオーグァル(Zeralda's Ogre)』です。


「オーグァル」は童話に出てくる「人喰い鬼」あるいは「鬼のような男」のことですから、『ゼラルダと人喰い鬼』(訳・たむら りゅういち あそう くみ 評論社)と邦訳されています。


「ゼラルダ」は少女の名前ですから、『少女と人喰い鬼』と意訳してもいいでしょう。


もっとロマンチックに『美女と野獣』というのも考えられますが、残念ながらゼラルダはちょっぴり太めの田舎娘、健康美は誇っていても、ジャン・コクトオの脚本で、ジャン・マレーとジョゼット・ディが演じたLa Bell et La Bete……『美女と野獣』ほど洗錬されてはいません。
古い映画ファンの夢をこわしてもいけませんしね。


やっぱりここは『少女と人喰い鬼』あるいは『ゼラルダと人食い鬼』ってことにして物語をすすめましょう。


『ゼラルダと人喰い鬼』は、こんなふうに始まっています。


「昔むかし、あるところに、人喰い鬼がひとりぼっちで住んでいました」


人喰い鬼のことを人間並みに、「ひとりぼっち」と訳してしまっていいのか、大いに議論のあるところですが、子供というのはなんでも擬人化して判断するくせがあるものです。
だからこそ空想力が豊かになるともいえます。
ですから、「人里離れて」とか「孤独に苦しみながら」と文学的に訳すよりも、「ひとりぽっち」と人間くさく訳しておいたほうが童話らしくっていいでしょう。


ひとりぼっちで住んでいるその人喰い鬼は、ほかの人喰い鬼同様に、鋭い歯とモジャモジャ伸び放題のかたいあごひげと大きな鼻と、そして大きなナイフを持っており、短気で、巨大な食欲ぶりを発揮していました。


西洋の童話の中に登場する人喰い鬼の姿かたちをトミは「鋭い歯、モジャモジャひげ、大きな鼻、そして肉でも骨でも切ってしまうナイフ……」と描写しています。


このくだりを読んで、「ハハーン」と思いあたりました。


人間の考えることで俗っぽい現象は洋の東西を問わないな……と。


赤ら顔で、鼻が高く、口はワシのくちばしのように鋭く、手にはナイフならぬ羽うちわを持っている……そう、天狗ですネ。


天狗も深い山の中に住み、子供ばかりか大人までさらいます。ほら「天狗にさらわれた」っていうでしょう。


もっとも天狗にすればヌレギヌでしょうが……。


仏教系のお稲荷さん……豊川系がそうですが、荼枳尼天(だきにてん)は、釈迦にさとされるまで、子どもの心臓を好んで食べていましたね。


ま、大人たちは、自分に都合の悪いことは、超自然現象のせいにして、それで口をぬぐってすましてしまう習性があるのです。


ぐだぐだいうよりそのほうが便利なことも確かです。


トミの『ゼラルダと人喰い鬼』も、よく、子供をさらうのです。


その人喰い鬼は、朝の食事に、子供を食べるのがとりわけ、お気に入りでしたから、毎日、町へやってきては、子供たちをさらってゆきました。


『ゼラルダと人喰い鬼』は、トミの36歳の時の作品です。


そのころ、トミはニューヨークの42丁目に仕事部屋を構えており、住まいはアップタウンのセントラル公園が見おろせる高級アパートでした。


そこには5歳になったばかりの娘のフィービィとその母親……あ、「その母親」っていい方はないですよネ。
トミ夫人……です。夫人と娘が暮らしていました。


ゼラルダと人喰い鬼』のとびらの献詞に、トミは「この一冊をサラに捧ぐ」と書いています。


サラ・ウィルソン嬢は、アルゼンチン生まれで、眸がぱっちりと大きい、黒髪の美人です。イラストレイターの集団会社であるプッシュピン・スタジオに勤めていて、同社のPR誌『アルマニャック』の編集をしていました。


彼女に会ったのは、『ゼラルダと人食い鬼』が出版される1年前の1966年(昭和41年)でした。


プッシュピン・スタジオでの昼間の勤務が終ると、数ブロックの距離を飛ぶようにしてトミのアトリエへきて、トミの仕事を手伝っていました。


トミの留守中にきた手紙を点検して返事をタイプしたり、出版社との交渉を代行したり、カナダで映画をとっていたトミに電話で連絡したり……つまり、私設秘書。


「この一冊を、サラに捧ぐ」という一行を目にした私は、もしかしたら、この「ゼラルダ」という少女は、サラ・ウィルソン嬢の少女時代のことかもしれないな、と想像しました。


トミの作品集をまとめて日本で出したいという私をニューヨークに残し、トミは「あとのことはサラとよく相談するように……」というと、さっさとカナダの仕事場へ帰ってしまいました。


なんでも、カナダのどこかで、女をつぎつぎに犯す破戒坊主の映画をつくっている最中とのことでした。


アトリエにあった未発表の作品までサラ嬢の立ち合いのもとにコピーをとり終ったある晩、私はその労に謝するためにギリシャ料理店に誘いました。


その席でちょっと酔った彼女は、はっきりした日本語で「雨、雨、降れ、降れ、かあさんが……」と歌いました。


美しい眸(め)をいたずらっ子のように輝かせ、「私、北海道の札幌に7年間、住んでいたことがあるの。子供のころ……そう、12歳まで。父が軍人だったもので。弟は札幌で生まれたわ」


12歳までの7年間といえば、5歳からです。


だとすると、彼女がトミに話した少女時代の思い出ばなしは、日本で見聞きしたものかもしれません。
もしかしたら、『人喰い鬼』の話は、日本の話かも……。


『ゼラルダの人喰い鬼』の第Iページには、人喰い鬼の住まい……森の中の城が描かれています。まわりには深い堀があり、そこに、重い鎖であがったり、かかったりするはね橋がしつらえられています。


その、はね橋がおさまる正面のところには、奇妙な紋章がはめこまれていましてね。
丸裸の人間の子供が両腕を開いて泣き叫んでいる上に、交叉したナイフとフォークが置かれている図柄です(日本版では変えてあります)。


1枚の絵を2、30分で手早く仕上げるトミですが、細かなところにもみごとなアイデアを効かせています。


トミの頭脳は一瞬も休まないかのようなのです。
もちろん、手のほうもピカソ同様、一瞬も止まっていません。
いつもなにかを描いているか、つくりだしています。
私がトミのアトリエを訪ねていた時に電話がかかってきました。
彼は電話に答えながら、机の上の白紙に淫猥な絵をつぎつぎといたずら描きしていました。


バルセロナピカソ美術館で、展示されている小学生時代の教科書の余白いっぱいに落書きしてあるのを目にして、ピカソって人も、じっとしていることができない人だと思いました。


子供を朝ご飯に食べるのがなによりも好きなものですから、町へ出てきては子供をさらいます。そう、子供を見つけると、濃いあごひげをよだれで濡らしながら追いかけては、肩の袋の中に投げこみました。


こうやって、2、3日分の食糧を仕こむと森の城へ帰っていきます。


とくに学校の前の広場が、人喰い鬼に目をつけられていました。


町の人たちは学校当局に休校を申し入れたのですが、学校側は聞き入れません。
学校というのは、いつの時代でも杓子定規の考え方をとり、世間の動きに2歩も3歩も遅れがちなのは、古今東西をとわず、共通しているのですね。


ほら、流感がピークを過ぎた頃に学級閉鎖を決めたり……もっとも、遅れるから児童に流感を体験をさせるという、教育の基本が守れる美点もありますが。


さて、いたずらをやめない子どもに向かって、面倒くさがりの大人たちが「雷さんにヘソをとられるよ」とか「サーカスの人さらいにさらわれるよ」とか「お巡りさんにしばられるから」とヒステリックに叫ぶのも、これまた、洋の東西をとわず、共通のようです。


「天狗にさらわれるよ」が、森の深い北ヨーロッパでは「オーグァル……人喰い鬼にさらわれちまうからッ」と、天狗が人喰い鬼に替わるだけ。


しかし、現実に人喰い鬼が出現したとなると、面倒くさがってばかりもいられません。


人喰い鬼にわが子がさらわれることを恐れた親たちは、幼い子どもたちの秘密の隠れ場所をつくりました。


物かげの穴倉とか、地下室のトランクやたるの中に、小さな男の子や女の子を押しこめました。


で、学校は空っぽになり、教師たちはは仕事を失ってしまいました。  


1931年11月28日生まれのトミは、いまや50歳(1979年当時)に近い。11年前にカナダ・ケベック地方ノバ・スコシアの無人島へ移り住み、馬と牛とニワトリとアヒルと犬と兎、そして娘のフィービィと3度目の夫人とで暮らしている……と、もらった便りにありました。


7、8年前のことです。
あの寒いノバ・スコシアでは、40腰50肩も早くやってきて、絵筆を持つリウマチ病みの腕の動きもままならないのではないでしょうか。


『ゼラルドと人喰い鬼』は、底冷えのする冬のニューヨークで描かれたものです。


この絵本が出版される1年前に、私は東フランスのストラスプールにトミの生家を訪ねたのでした。


ストラスプールは古い町です。
町のそばをライン川が流れていて、川の向うはもう西ドイツ領のキェールという町です。
このキェールの町とストラスプールを結ぶ長い橋のまん中が、国境です。


ことのついでに、この橋を歩いて渡り、まん中あたりでドッコイショと国境線をまたいだつもりになりました。
国境線をまたぐ行為をしてみたかったのです(笑)。


ほんとうは国境線なんか描かれてはいなかったのですがね。
白い国境線』なんて映画が昔あったものですから、橋のまん中に白い国境線を想定しましてね。


吹きっさらしの寒い日でしたっけ。


それはそれとして、トミの生家で、母親のアリスから奇妙なものを見せられました。


トミが小学校時代……つまり、ナチス・ドイツがストラスブール一帯を占領していた時代に描いた絵です。


どの絵も、ナチスがフランス人をつかまえては収容所へ送りこんでいる情景が描かれていました。



トミが小学校5,6年生のころの絵


当時のトミにとって、ドイツ兵は「人喰い鬼」だったのでしょう。


私は、戦争中、「鬼畜米英」という観念的なスローガンで育ちました。


『ゼラルダと人喰い鬼』をつづけましょう。


人食い鬼の朝ご飯に食べられてしまってはかなわない……と町の親たちは学校を休ませて、地下室や穴倉にわが子を隠したのでしたネ。


町のどこにも、子どもたちの姿はまったく見られなくなりました。


人喰い鬼は、オートミルと生ぬるいキャベツ、冷たいポテトという制限食でがまんしなければなりませんでした。


そんな朝食がつづいた人食い鬼は、しだいに不機嫌になり、ブツブツとこんな言葉をつぶやくのでした。


クンクン、プンプン。おなかがペコペコ。5人か6人の子供があれば、すてきな食事ができるというのに。


クンクン、プンプン。チョキチョキ、パチン。
子どもを見つけ次第、とっつかまえなくっちゃな。


朝ご飯に子どもが食べられなくなって、さすがの人喰い鬼も意気消ちん……。


この朝食用子どもを、情報とか知識に置きかえて考えてみてください。1日や2日はさっぱりしても、知的空腹はやがて精神を蝕みはじめますよネ。


>>『ゼラルダと人喰い鬼』(下)に続く