創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(445)『トミ・アンゲラー絵本の世界』(第1回)

まえがきに代えて、[口上]としたのには、別に意味があってのことではありません。若いころのテライだったのです。

奥付をみると、1981年10月1日となっています(版元は、誠文堂新光社---あのころ、ここからずいぶん出していただきました)。

お読みいただくとわかりますが、ネタ本はきのうまで当ブログにアップしていた『イデア』別冊『シニカルなイラストレイター---トミ・アンゲラー』(1972.1.20)です。
ただ、対象が異なります。『イデア』誌はグラフィック・デザイナー向け、NHK-FM「クロスオーバー11」は若い世代向け。
9年という時差もあります。その間、トミのほうはどんどん高名になっていっていました---といっても、限られた人たちのあいだででしたが。

語りかけ口調を活字にしてみる実験にいどむ心づもりでした。成功したかどうか、売れ行きはたいしたことはなかったけれど、2,3の格式の高い雑誌でみとめられました。




口上


トミ・アンゲラーの童話をラジオでやってみたら……と、とんでもないヒントをだしたのは、NHKの郡司雄彦さんでした。


いわれた私は、考えこんでしまいました。アンデルセンに『絵のない絵本』というのがあります。でも、あれは、初めから絵がない本なのです。


ところが、トミの創作童話ときたら……。文章はさし絵のツマみたいに添えられている、といったらアイデアマンのトミが怒るかもしれませんが、絵のほうが文章よりも断然、おもしろいことは確かです。
しかも、ラジオで、といっても、FMの『クロスオーバー・イレブン』という、曲と曲のあいだに、それこそ、ツマ的に入っている1コマが3〜400字の語りの部分なのです。
いってみれば、コマ切れ文章。
昨夜聴いた人が今夜もダイアルをあわせてくれるという保証はないのです。
昨夜までのあらすじは……と、いちいち説明するのも芸のないことですし。


困難だらけ、八方ふさがり……それで、あきらめかけたのですが、まてよ、奇行をもってなるトミの人柄を正面に押したてれば、番組を支持している若い人たちの共感が得られるかもしれないではないか……と、やってみることにしたのです。


1980年の10月から翌年の4月まで、月に1週(月〜土)ずつ放送されました。


意外にも、好評でした。ひとえに、ベテラン富山敬さんの、聞き手の想像力を刺激する語りのうまさの結果です。


聞き手のひとりに誠文堂新光社滝田実さんがいて、このスクリプトを本にしようといいだしました。こんどこそ、冗談ではない……です。


私の文章が、読み手の想像力をかきたてるとは、とても考えられません。本にするなら、絶対にトミの絵が必要です。


友情ってありがたいものですね。
アイルランドのコークに住んでいるトミから、「おまえさんの企画に必要な資料を送るから、やりなよ」という手紙が舞いこんだのです。


トミの絵が使えるなら……と、心を決めて、ラジオ用のスクリプトに手を入れました。


10年ほど前の雑誌『創』(1971年12月号)に寄稿した『フォーニコン』の解説文も添
えることにしました。トミをよりよくわかってもらえる、と考えたからです。


トミの絵本の色使いも知りたい……とおっしやる方もあろうかと考えて、収録した童話で日本語版が出ているものは、各章のとびらに紹介しておきました(ただし、それらの日本語版の訳文と私の訳文とは、一致していませんから念のため)。


トミの絵本からの絵の再録は、畏友のアートディレクター坂野豊さんにまかせました。イメージがふくらんでいたら、それは彼のお手柄です。


この本で、トミのことがお好きになったら、それはもう、トミの人柄のせいです。


トミをはじめ、上に名をあげた人たちに改めて感謝します。


1981年9月


付記。日本では「ウングラー」と表記している例が多いようですが、トミ本人はニューヨーで「アンゲラー」と発音したので、それにしたがいました。




ザ・ム−ンマン


東フランス、ストラスブール生まれのイラストレイター、トミ・アンゲラーの絵本に『月からきた男』があります。私たちトミのファンは、「月からきた男」The moonman from the moon……と長ったらしく呼ばないで、ザ・ムーンマンと縮めています。隠語に似たイキがりではありますが……。
(のち、原題が「ザ・ムーンマン」となったのか、邦題『月おとこ』訳・たむら りゅういち/あそう くみ 評論社刊で親しまれています)。


この創作童話は、1964年にまずアメリカで発表されました。
トミの絵本は世界各国で本になるのです。
ですから、最初どの国で出版されたか、それはいつだったかというのも書誌学的には重要なことなのです。
ほかにも、1964年(昭和39年)にこだわるわけがあります。


ほら、アポロ11号で、アームストロング船長とオルドリン飛行士が人類で初めて月面に降りたったのが昭和44年7月19日。
それ以来、ムーンマンといえば、この2人を指しますね。
しかるに、われらがザ・ムーンマンはその5年前に発表されているのであります。

月面着陸成功の当日の夕刊第1面掲載、chuukyuuがつくった広告


ア船長とオ飛行士のほうは地球から月へ行ったムーンマン。
われらがザ・ムーンマンは月から地球へきた男……正真正銘、文字どおりの「月男」なのです。認識の逆転といえましょう。
この、逆転の発想というのを現実にさきがけてやるところが、トミのすばらしいところで……といったら、ヒイキのひきたおしでしょうか。


さて、童話は、こんなふうに始まっています。


ある夜、月に住んでいる男がとても気のきいたことを考えました。彼は、地球人たちが踊っているフォックス・トロットなんかのダンスをずっと眺めつづけてきたのです。
で、いちど仲間に加わって踊ってみたいと思いました。


ザ・ムーンマンの顔つきをご想像ください。
トミは、まん丸、ツルツルてんの月の輝き色……澄んだ青白い男をつくりだしているのです。


「地球へ行って、みんなとフォックス・トロットを踊りたい」と考えたザ・ムーンマンは、流れ星の尻っぽにつかまって飛びたちました。


この流れ星につかまって……というあたりがいかにもトミの独創で、ファンにはグッときます。
魔法使いのホウキとか空飛ぶじゅうたん……ときたのでは疑い深い現代っ子を納得させられません。
夢のない彼らをしてうなずかしめようと思ったら、UFOとか宇宙戦艦ヤマトとか銀河鉄道999を持ちだせばいいのでしょうが、これらはフォックス・トロットを踊ってみたいだけのザ・ムーンマンの乗り物としてはいささかリアリズムにすぎます。


あっ、そうか……リアリズムというのはこういう時に使う言葉じゃありませんね。
それでは、こういいましょう……マンネリズム


33歳の年にニューヨークの、とあるビルの屋根裏のような部屋で描きあげた一冊の絵本『ザ・ムーンマン』……相撲の朝汐関のごとくにずんぐりむっくり、ボテボテの今日風肥満児ですから、ぶきっちょきわまります。
もっとも、当時のトミが肥満児問題を風刺していたとは思いませんが……。


さて、ザ・ムーンマンは目にした地球の緑の美しさに心うばわれて、流れ星の尻っぽから手を離したとたん、ものすごい音をたてて森の中へ落ちてしまいました。


目をあざむくものは地球上には多いのです。毒を秘めた美しい女性、彩りあざやかなデザインもの、そして、見かけだおしの政治家……。5mの深さの穴をあけ、その着地音に、森のフクロウが目を回して、あっちの木の幹にゴツン、こっちの枝にバサッとぶちあたって逃げまどうほど。


真相不明の怪音・怪舌ぐらい人をまどわすものはありません。いやいや、真相めいた怪舌のほうがもっとタチが悪いともいえますが……。


たとえば、社会の木鐸ぶった新聞記事、来世を約束するお坊さんの説教、マスコミ馴れした大学先生の卓論、金もうけ好きをかくした経営者のきれいごと……中にはうさんくさく眉つばものも。


近くの町に住む人たちもこの怪音にすっかり目をさましてしまい、連隊長は隣国から攻撃がしかけられたと錯覚して軍隊を出勤させ、消防署長はハシゴ車を走らせ、物見高い人たちはカメラつき携帯の電池をチェックしてから自家用車のハンドルをにぎり…そういった人たちのいちばん先頭を、ひともうけをたくらんだアイスクリーム屋がけんめいに自転車のペダルを踏んでいました。
そうなのです。小まわりのよさは、結局は小ゼニかせぎにしかすぎません。ですから、アイスクリーム売りのおやじが真剣、それでいてちょっぴりズル賢そうな顔で張り切っているところなんかが、トミのフアンにはこたえられないのです。


消防車も戦車も兵員輸送車もパトカーも自家用オープンカーもそしてアイスクリーム売りも、穴の底で上を見上げている澄んだ青白い男にはびっくりしました。
欲のない男など、この地球上には指折り数えるしかいませんからね。
ですから、フォックス・トロットを踊りたい一心で月からわざわざ地球へやってきたザ・ムーンマンのように清澄な眸をもった男は、これまで見たこともない珍種だったのです。


対するザ・ムーンマンのほうも、自分をのぞきこんでいる人たちがわれ勝ちにそれがなんであるかを断定して、テレビ・ニュースの画面にチラッと出演してコメントを述べ、それでもって「見たかい、今夜のオレの晴れ姿」……などと考えている男たちの言葉を理解できませんでした。
穴をのぞきこんでいる人びとをただポカンと眺めているだけ。


胸にいちもつ背中ににもつの地球の男たちは、どうしたらいいのか、その方法を決めるために世界賢人会議を開きました。それはサミット会議のようなものだったのでしょう。


サミット会議の結論がいつもなんだかはっきりしないように、国際学術会議でだいたいが新学説がでないように、この会議も大さわぎした割には、結局のところザ・ムーンマンが何者であるのか、どう対処したらいいのか、意見の一致をみませんでした。


そういう時のいつものテで、ザ・ムーンマンはとりあえず留置場へほうりこまれてしまいました。


1931年の11月28日の夕方の3時30分ごろ……東フランス、ストラスプールの町は秋もやにつつまれはじめていました。この時刻にトミは町の産院で生まれたのです。


母親のアリスは、その昔、いっぱしの文学少女であったかのような口調で「生後一時間のトミの瞳が、すばらしくきれいに澄んでいて、まるで[ボクはいったい、ここで何をしているんだい?]と問いかけているみたいだったことが忘れられません」と取材に訪れた私に語りました。
西欧の赤ん坊は、生後1時間で目が開いているのでしょうか?


地球への着地に失敗したザ・ムーンマンも5mもの穴の底で、のぞきこんだ人間たちを澄んだ瞳で見上げながら「ボクがいったい、なにをしたというんだい?」と思っていたことでしょう。


しかし、言葉の通じない悲しさ、ザ・ムーンマンは有無をいうまもなく留置場に入れられ、左足に重い鎖と分銅さえつけられてしまいました。


母親アリスは、トミをあたかも神の子の再来としていつくしみ育てたフシがあります。
私がアリスの話を聞くために、ストラスプールのトミの生家に彼女を訪ねたのは、ある年の12月の初め、鉛色の雲が低くたれこめた肌寒い日でした。


アリスは、トミの身の上に起きた奇跡を語ってくれました。
トミの満1歳のクリスマス・イブのことだったそうです。
クリスマス・ツリーに飾られたなにかに見とれていたトミが、突然ツリーのそばまで歩いたのです。


この日までトミは立ったことがありませんでした。当時流行していた野菜食で育てられたトミは、7ヶ月になっても歯がはえず発育がひどく遅れていたのです。


次の朝、まだ消えずにいた1本のローソクの灯を母親のひざの上で凝視しているトミの姿にも、アリスは「なにかしら壮厳なものがあった」と述懐しました。


奇跡は留置場につながれたザ・ムーンマンの上にも現れました。


拘留期間が日1日とのび、鉄格子越しに見える月が欠けて三日月になるにつれて、ザ・ムーンマンの身体も欠けてきて、鎖をはめられていた左足なんか完全になくなったのです。こうなったらシメもの……留置場の鉄格子もするりと抜けられます。


この、月の満ち欠けによってザ・ムーンマンの身体まで満ち欠けするというアイデアも、ファンにとってはこたえられないものです。
なるほど、このテがあったか、コチコチ頭の警視総監では考えもつくまい……と大喜び。


創作童話ザー・ムーンマンをトミが思いついたのは、彼がアルジェリア南部のラクダ隊に配属された時ではないでしょうか。


当時21歳だったトミは、部族間の反目の調停が任務だったラクダ隊で、夜な夜な、アルジェリアの澄んだ月を眺めながらリウマチで痛む腕をさすりつつ、月の満ち欠けに彼独得の空想をふくらませていたのだと思います。


月が欠ける自分の身体も欠ける、そうすればこのラクダ隊からスルリと脱けだせる……トミは、軍隊勤務が嫌で嫌でたまらなかったのです。アルジェリアの砂漠の中で考えることといったら、除隊と脱走のことばかり。
嫌な上役のいる会社で考えることといったら、こいつを張りたおして辞表をたたきつけることばかり……。私たちより、トミの考えのほうが、うんと詩的かな。


さて、留置場の鉄格子をするりと抜けてうまく脱獄したザ・ムーンマンは、しばらくは花の匂いをかいだり、いろんなものを見たりして、この地球を大いに楽しみながらさまよいました。
彼にとっては、地球は楽しむに値する土地だったのです。


それはそうでしょう。月には花もなければ、恋のさやあても、他人の足の引っぱりあいもないのですから……。平穏無事。無味乾燥。退屈至極。あくび連発。


ひょこひょこ歩いていて、偶然に仮面舞踏会に出あったザ・ムーンマンは、素顔のままで客として参加しました。
まん丸、ポチャポチヤの彼はそれだけで南海ホークスドカベン香川捕手の仮装と思われました。われらがザームーンマンは、喜び勇んでフォックス・トロットのステップを踏みました……夜がふけても舞踏会はつづきました。その音楽のうるささに、近所の住民たちが110番しました。騒音公害だというのです。


仮装舞踏会ですが、トミの絵をたくさん所蔵している弁護士ヒージガー氏の夫人は、トミのニューヨークでの最初の家の購入を仲立ちした人ですが、その新しい家でトミが最初にやったのは、仮装パーティだったと話してくれました。トミは黒装束の白い骸骨を描いてあらわれたそうです。
この絵の中には、さすがに、いませんね。


パトカーがかけつけ、ザ・ムーンマンを発見……騒音取締まりそっちのけで追跡しはじめました。
理由のいかんは問わず、逃亡犯逮捕という警官の点数かせぎはどの国も似たり寄ったりなんですね。


ザ・ムーンマンは林の中へ逃げこまざるをえませんでした。


2度目にニューヨークのトミを訪ねた時、彼はイースト・ビレッジのアトリエを引きはらって、カナダの無人島への移住の決意を固めて荷づくりをいそいでいました。


「トミ、ヒゲを剃ったネ」
私がいうと、トミは大きな歯をみせて破顔一笑
「心機一転」


カナダのケベック地区の電気もない島で、三番目の奥さんと小学生の娘フィービィと馬と牛とヤギとアヒルと兎と犬と猫とで住むというのです。


「トミ、フィービィの教育は?」
「ボクと妻とでなんとかするさ。学校の勉強だけが教育ではないからネ」
ちょっぴり真面目な声が返ってきました。
その場に、昔なじみのフィービィはいませんでしたから、おしゃまで賢い彼女にお別れのあいさつをすることができませんでした。(当時5歳だったフィービィとトミ)


私が最初にトミをそのアトリエに訪ねたのは、そこで『ザー・ムーンマン』を描きあげたばかりの、ニューヨーク・マンハッタン区西42丁目のとあるビルの屋根裏のような部屋でした。
淫猥な人形やらおもちゃがいっぱい置かれているそのアトリエで、会うなり2人は意気投合しました。手土産として持参したちょっと危い浮世絵を気に入ってくれたのです。


外国人と仲よくなるコツはただ一つ。日本人に対する時と同じように、こっちが誠をつくし裸になること。人種が異なり、宗教が違い、年代に差があっても人間は人間なのです。
真意は伝わります。
若い人ならこれに音楽というテもありましょう。


追われたザームーンマンは林の中を逃げ回り、そのあと、ポツンと建っている城に行きつきました。


そこは、バンセン・フォン・デル・ダンクルという、貴族の後裔と思える博士の研究所兼住まいでした。
なぜ、貴族の後裔かって? 名前です。「フォン・デル」というのはドイツ系貴族の名なのです。


博士は人びとからすっかり忘れられてはいましたが、ひそかに月へ到着できる宇宙船をこしらえていたのです。
こんな優雅な道楽、貴族でなきゃできませんよね。しかし、困ったことにテスト・パイロットがいませんでした。
トミの文章をそのまま書きうつしてみましょう。

ザ・ムーンマンは、地球の言葉もしゃべれるようになり、フォックス・トロットも踊れるようになっていましたが、地球では自分の平和が望めそうもないと思ったので、テスト・パイロットを志願しました。

ところが、ここに困ったことが発生しました。なにしろ、ザ・ムーンマンは南海ホークスドカベンこと香川捕手のような身体つきですから、宇宙船の入口が狭すぎて入れないのです。


トミは東フランスのストラスブールの生まれです。何百年も昔から天文時計をつくるのが家業でしたから、私にこういったものです。
「ボクは、機械についても詳しいんだよ」
トミの父親は天文時計をつくって一生を終えた人です。


フォン・デル・ダンクル博士のイメージを、もしかするとトミは、自分の父親から借りているのではないのでしょうか。


さて、ドカベン……いや、違った、ザ・ムーンマンは、どうやって宇宙船に乗りこんだと思います?


答えは簡単。


月が欠けて三日月になるのを待てばよかったのです。
夜空の月が欠けはじめると、ザ・ムーンマンの体も欠けるのでした。


こうして三日月が空にかかった夜、ザ・ムーンマンは宇宙船内の人となりました。


ロケットはものすごいうなり声をあげて飛びあがりました。ザ・ムーンマンは、飛行中のあれこれについて、詳しいデータを博士に送りつづけました。



月に帰りついてからは月自体についての報告も送りました。


めでたし、めでたし……子供向けの童話だったら、ここで終るところです。しかし
皮肉屋のトミは、あと数行を書きたしています。こうです。


フォン・デル・ダンクル博士の月に関する研究発表は、完全無欠でした。
これ以上、疑問の点がなくなったので、世界の指導者たちは、月ロケット計画の中止を申し合わせました。


そして、そのための資金は地球を住みよくするプログラムに使われることになりました。


28年後の追記:宇宙開発のおかげですからね、ケイタイの恩恵をみんなが享受しているのは……もっとも、ぼくはいまだにケイタイしてませんけど。


【追記】今日からつづけてアップするトミの創作童話の表紙写真を版元から借りるために、訳者あそう くみさんにご尽力いただきました。感謝。




誌名と月号はメモしていないのですが、「今月、この本を読んでみませんか」欄のトップに、亀井俊介先生が丁寧にとりあげてくださいました。


トミ・アンゲラーなんて知らない、という人が多いかもしれない。
現代まれに見る奇才、いや天才両家である。
私は長い間、アメリカ人だと思っていたが、1931年、フランスとドイツとの国境のストラスブールで生まれ、ニューヨークで名をなした後、カナダの無人島で暮らし、いまはアイルランドで晴耕雨画の生活をしているらしい。
多方面仁わたるその活躍のうち、この本はおもに彼の絵本について語っている。トミ・アンゲラーの絵はすべて変わっているが、絵本もそうだ。
絵本だから子供むきには違いないが、ありきたりの生活に退屈し、刺戟に飢えている大人にも途方もなく面白い。ちょっと、じゃない大いに人を食った絵本なのである。
『帽子』という作品、魔法の帽子が体の不自由な老兵をお金持ちにしてくれるいうとありきたりの童話の筋だが、そのあげく老兵は年増の伯爵夫人と結婚する羽目になってアップアップ。
『魔法使の弟子』では、弟子の少年、ほんのちょっといたずらしただけなのに、ライン川にぶちこまれてしまう。
『マッチ売りの少女……エルペダ』 では、アンデルセンの『マッチ売りの少女』と違って、可哀そうな少女が神さまにお恵みを祈った結果、天から降ってきたたくさんの贈り物の下敷きになり、ペッシヤンコ。
ちっともハッピー・エンドにならないこの世の現実を、この画家は皮肉な目で茶化すのである。 じつの恚ころ、私はトミ・アンゲラーまずポルノ画家として知った。1969年に出た『フォーニコン』という画集、若い男女が恐ろしく精巧(そう)な機械を使って性的快感をかきたてるべくあえいでいる姿を画き、珍無類。それから、1971年に出た『トミーアングラーのポスター芸術』も、人間の営みのばかばかしさを縦横に画き、政治からセックスまでを片端から風刺して、痛快きわまりなかった。
そういう彼の奇想が、こんどは日本語により、もっと身近な形で味わえるようになったわけだ。
この本はラジオ放送の台本をまとめ直したものらしい。著者の気ままなおしゃべり風の書き方は、ときどき饒舌すぎる感じもするが、楽しい。 (亀井)




明日は、『クリクター』の予定です。