創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

[アンチ・マジソン街の広告代理店PKL](4 =付録)


コピーライター科なんてコースを設けている大学はあるんでしょうかね。訪ねたビル・ケイシー氏のコピー・コースは、1夕2時間×12回で仕上げてしまっていましたが---。もちろん、意識の高い、文章の心得の深い、美的感覚の鋭い、かつ、自分が考えていることをきちんとした言葉で話せる人なら、12回も要らないかもしれません。面接のときに、書き流したコピーでなく、マーケット事情にあわせた、ラフ・スケッチつきの試作品があれば、面接するほうも手がかりが得られやすいでしょうね。新聞1ページ大の、プロのアートディレクターのラフ・スケッチつきというところが実戦的でアイデアでしたね。


付 コピーライターの実戦的養成教室を参観 (4−3)

コピーライター教室

1966年春のマンハッタン滞在で、私は、5月2日と6日と11日の3回、PKLを訪ねました。
それで、 PKLの副社長でありコピー・スーパパイザーであるケイシ-(William Casey)氏とその相棒であるコピーライターのモンテル(Robert Montell)氏がやっているコピーライター養成教室(Copy Course)への1日入学をやってしまうことになったのでした。


PKLのパパート会長に, 「PKLではどのようにコピーライター教育をしていますか?」と質問してみました。パパート氏の答は, 「ケイシー氏がコピーライター養成所をやっているから、彼を紹介しよう」


さて、問題のケイシー氏は、40歳前後、小肥り、パイプ煙草を離さない、べらんめえ口調の紳士で、ざっくばらんな態度で、「教室で説明したほうが早いから、今夜にでもいらっしゃいよ」と言ってくれました。
その夜は別の予定があったので、月曜の夜7時から9時まで開講されていることを確かめて、5月5日の木曜の夜、1日入学することを約束しました。


ケイシー氏は、日本でいえば「突き出し」程度の生徒募集広告を机の中からとり出してみせてくれ、 「これで500人からの入学希望者が殺到したが、1クラス25人という制限があるんでね」と得意げに話してくれましたっけ。
ケイシー氏は、オグルビー・ベンソン&メイザー (Ogilvy,Benson & Mather)、ヤング&ルビカ(Young & Rubicam)、DDB代理店などでコピー・スーパパイザーとしての経験を積んだ人で、 特にDDB時代に同社のクローン氏と組んでつくったポラロイド・カメラのキャンペーンは、ワトキンス(Julian Watkins)選による『100の偉大な広告』にも収録されているほどです。


このポラロイドのキャンペーンのほか、氏がPKLで書いた、ナショナル航空ウェスタン・オイル、ゼロックスなどのキャンペーンが、教室の壁に貼ってありました。
ケイシー氏のコピーライター養成所は、マンハッタン地区の48丁目東321番地---つまり、3番街777番地のPKLから、わずか1ブロックばかり東へ歩いたところのビルの1階にありました。
すわり心地のいい椅子が30脚ばかり、そしてその中の25脚・・・つまり生徒用の椅子には黄色い横罫紙(法律用箋とよばれてコピーライターや学生、弁護士、探偵が使用)が10枚ぐらいずつ配ってありました。(この梼罫の法律用箋(リーガル・パッド)は、いろんな代理店を訪問した際、彼らがメモをこの紙に書いて渡してくれたところからみると、広告関係者もよく使うメモ用紙のようでした)。
オグルビー代理店時代からの相棒であったモンテル助教授が準備したもののようでした。
壁には、ケイシー先生の自作キャンペーンのほか、生徒たちの新聞1ページ大の試作がピッシリ貼ってあります。

どちらが2,800ドルのピカソの原画で、どちらが5セントのゼロックス914のコピーでしょう?


私たちは有名なピカソの絵を買いました。額縁からとり出しました。私たちのゼロックス914でコピーをとりました。そして原画を額縁にもどして、コピーのほうも額縁に入れました、両方を写真に納めました。ごらんのとおりです。どっちがどっちだかわかりますか? ほんとに?
ゼロックス914は原稿と同じように見えるコピーをとる--- ということをお忘れなく。ゼロックス914は、普通の紙にコピーをとれる(ピカソが使った紙と同じ紙でもとるとができるんです)・・・ということをお忘れなく。
ゼロックス914はほとんどのものを完全にコピーする・・・ということをお忘れなく。
物体だって、本のページだって、色ものだって---etc。そしてごらんのように線画でもサインでも完壁にコピーします。
ゼロックス914は操作しやすということをお忘れなく。ノブを回して、ボタンを押して----それで右のような完全なコピーがとれるんです。それとも左かな?
914は買わなくてもいい・・・ということもお忘れな。借りられるんです。とったコピー分だけ払えばいいのです。全経費を含めて、1ヶ月の最低基本枚数で計算してコピー1枚に対して5セントです。この5セントは今あなたがコピーのために使っているお金と比べたら、それ以上ではないにしてもずっと安いはずです。
さて。 どっちが2,800ドルのオリジナルでしょう? どちらが5セントのコピーでしょう? 当ててみませんか? もし<あたっていたら額縁に入れがいのある(そしてお友だちが目を丸くするほどの)本物のゼロコピーをプレゼントしましょう。




Which is the $2,800 Picasso? Which is the 5c Xerox 914 copy?


We bought a famous Picasso picture. We took it out of the frame and made a copy of it on our Xerox 914. Then we put the the oliginal back in its frame and framed the copy. We photographed both of them. And here they are. Can you tell which is which? Are you sure?
Remember the Xerox 914 make!; copies that look as good 3!; the original.
Rememher the Xerox 914 makes copies on ordinary paper. (It's possible to make copies on the same kind of paper Picasso used.)
Remember the Xerox ql4 can copy almost everything perfectly, Pages from books. Objccts. Colors. Etc. And as you can see, it copies line drawings and signatures flawlessly.
Remember the Xerox 914 is easy to operate. Tum a knob and push a button and you get perfect copies like the one above on the right. Or is it the left?
Remember you don't have to buy the 914. You can borrow it. You pay only for the copies you make. Including all charges, it costs you about 5c a copy based on a minimum number of copies made a month.(The rest is omitted.)


The 43th The Art Directors Club of New York(1964) Gold Medal Award


それに冷蔵庫が1台、中にはビールとコーラがはいっていて、入学案内書に「授業料は350ドル。払い戻しなし。(ただし、 ビール・ブレイクあり)」と書いてある、そのビール・ブレイク用のもの。


ついでですから、授業料の350ドルですが、3週間---つまり12回で卒業というクラスにしては、かなりいい値といえます。ロサンゼルスのアート・センター・スクールの1学期(毎日授業)450ドルに比べると いかに割高かがわかりましょう。
ちなみに、銀行の女子行員の社週給が70〜80ドル(=1966年当時)、広告代理店の受付嬢のそれが週100ドル、アシスタントADが月給700ドルぐらい。
また、マンハッタンの70丁目あたりのバス、トイレ、キッチンつき1部屋のアパート代が月に100〜120ドルといった、収入・ 生活費からみても、相当いい値の授業料だといえます。
計24時間、1時間あたり14ドルにつくわけですから。
もっとも、入学案内書もその辺のところを心得ていて「コピーライター養成所の目的とするところは、この仕事に年収7000で雇われることを志す青年男女に試作品を用意させることである。 (ただし、真に才能のある人は、3年以内に年収を2倍にすることが可能)」と書いてはいますが----。
さて。バストがピーンと張った金髪娘や、ユダヤなまりの強い青年や、ブルドッグをペットにつれた中年の美女や、婦人記者といった風さいの中年ばあさんやらがそろったとこで、ケイシー先生がパイプをくゆらしながら登場して出欠をとりはじめました。
先生が名前を呼ぶと。広告代理店でメイル・ボーイをしているらしい青年が「アイデア2つとヘッドライン5つ」とか、1年前までフッション雑誌社に勤めていたという栗色の髪をした娘が「ナッシング」と応答する風景は、ちょっとした見ものでした。


欠席者はほとんどなし。2、3人遅刻した生徒があったぐらい(授業料が高いのですから、1回でも欠席すれば生徒側は大損というわけでしょう)。
それから、ケイシー先生とモンテル助教授が、教室の中をぐるぐるまわりながら、手をあげた生徒のところへ行き、へッドラインを読み上げさせ、批評することで授業が始まりました。



コピーライター養成教室でレクチャー中のケイシー先生(中央)とモンテル先生


それは、授業というより会話と批評といったほうがふさわしいような進行ぶりで、ケイシー先生が、
「つまらん」とか、
「何が言いたいのかね」とか、
「それでは他の競争商品と区別がつかんね」とか、
べらんめえ口調でやると、生徒のほうも先生にくってかかります。
するとケイシー先生は 「ぼくがヤング &ルビカムで、ビクター・ヤング(Y&Rの創業者の一人)とジェロー(食品)のキャンペーンを練ったとき・-・・・」と実例をひいて解説します。
ケイシー先生のロの悪さにしょげた生徒のところには、モンテル助教授が行って、ていねいに添削をしてやります。
ケイシー先生と生徒が問答しているあいだに、他の生徒は一生懸命にヘッドラインを書いては消し、消してはまた書きしていました。


私の見たかぎりでは、生徒たちの試作コピーは、お世辞にも上出来とはいえないようなものばかりでしたが、モンテル助教授が手を加えたものを見ると、かなりなものに仕上がっていました。
モンテル氏の添削がすむと、生徒自身の手でビジュアライゼーションのためのミニチュア・スケッチが書かれます。
そして、それを持って教室の両コーナーに製図台形の机を置いて待っているアートディレクターのところへ行き、自分のアイデアを彼に伝えて、新開1ページ大のラフ・スケッチに仕上げてもらうわけです。
アートディレクターは2人、 いずれもPKLのジュニア・アートディレクターとのことでした。
つまり、この過程で、アート=コピ一・会談を経験させようというわけでしょう。じじつ、生徒の中には、声を荒げて、アートディレクター氏にくってかかっている者もいました。



(2人の現役アートディレクターと討議しながら、新聞1ページ大のラフ・スケッチをつくってもらう。ずぶの素人が広告代理店への就職売り込みのときのポートフォリオ(試作サンプル)となる。壁には、ビジュアライズされた生徒の作品を貼りだして自信をつけてやっている。)


私がのぞきこむと、このアートディレクター氏は、生徒のへたくそなスケッチを示し、「彼はこのまま書いてくれというんだが、あなたはどう思いますか?」とこちらを日本での実作経験者とみて、助け舟を求めてきました。
私は、話の要点がよくのみこめないと----そこから逃げだしました。
とにかく、この2人のジュニア・アートディレクター氏がスケッチを仕上げるスピードたるや、 目をみはるばかりで、1分間に1点の割で、時間中、どんどんかたづけていました。その間に議論もはさむわけですから、相当なものです。


そうしているうちに、「ビール・ブレイク」になりました。先生も生徒も、てんでに冷蔵庫からビールやコークを取り出しては飲みはじめるんです、
ケイシ-先生は私にも「飲め飲め」とすすめてはくれましたが、教室でビールを飲む習慣のない私は、どうにも気がすすまなくて、 「ノー・サンキュー」。
このとき、目のパッチリした、肌のやや薄黒い美人が近寄ってきて、「あなた、東京のアド・エンジニアーズのchuukyuu さんでしょう?」と話しかけてきたのには、いささかビックリ。
「オレノ名ハ、ツイニ、米国ノこぴーらいたあノ卵タチニマデ、トオルヨウニナッタカ」
と思いあがっていると、彼女は、「私は、ジョージ・ロイス氏の秘書のダーズ(Barbara Dodds)夫人です」と自己紹介。(どうりで、見たような記憶があったのだ。バカ→chuukyuu)
そして、明日のロイス氏とのアポイントメントがダメになったと伝えてくれました。
ロイス氏はケーニグ氏とともに、テレビ・コマーシャルの立合いに行かなければならなくなった・・・というのです。
「ロイス氏との面会約束は、彼の時間だけを押さえてもダメで、ケーニグ氏のほうも同時に押さえておく必要があるんですよ。そうしなければ、どちらかが仕事にかかると、片方がかならずつき合うルールになっていますから。結局、お会いできなくなるんです」と教えてくれました。


彼女に質問しました。
「あなたもコピーライター志望ですか?」
「いいえ。私は、みなさんとは違って、ロイス氏の仕事を少しでもよく理解するために勉強しているのです。コピーライターになるためではありません」
つまり、ここでも私は、PKLがコピーライター教育をコピーライター以外の者にまで及ぼしている実例にぶつかったわけです。


さて。ビールを片手に持ってのケイシー先生の授業再開。
私は、考えこんでいました。なんのためにケイシー氏はこんな学校を開いたのだろう?
お金のためだろうか? 生徒の中から優秀な素質をもったライターの卵をPKLへ入社させるためだろうか? それとも、教えることが好きなんだろうか? 
わずか24時間で、ほんとうにコピーライターが生まれるのだろうか? 
この養成所とPKLとは、どこでつながっているのだろうか?
パパート会長は、ケイシー副社長のこのサイド・ビジネスをどう思っているのであろうか?
合点のいかないことばかりでした。
もっとも、24時間の授業でほんとうにコピーライターが生まれるかどうかについては、ケイシー氏が授業が終わったとき、「6週間を3期に分けて、新製品のアイデアと、編集記事の書き方と、広告について教える。今夜は第3期目にあたる広告について教えたんだ」と説明してくれましたから、生徒自身の熱意と努力と集中によっては、あるいは可能かもしれないと思いもしましたが・・・。


その後・・・といっても、私がケイシー氏のコピーライター養成所に1日入学して1ヶ月後、彼はPKLを辞めたそうです。
どうやら、養成所のほうに本腰を入れはじめた模様で、「高い給料と経費をかけて、コピーライターを養成している余裕なんか代理店にはない」と公言し、いくつかの広告代理店と契約して養成を代行しようというわけです。
契約料は年額2,000ドル。一人前のコピーライターを一人送りこむごとに別に2,000ドルを代理店から申し受けるという、まことにアメリカ的なシステムです。


もっとも、彼はこの養成所に専念しているわけではなく、半年後の1966年秋にニューヨークを訪ねたとき、昼間、何回電話しても留守番のこわいおばちゃんが, 「入学案内を送るから住所を言え。ほかのことは知らぬ存ぜぬ」の一点張りでした。
PKLでダーズ夫人に会ってこの話をしたら、
「ケイシーさんは、インターパブリック(Interpublic---代理店集団の持株会社)系のある研究機関の仕事を始めたそうよ。でも、よくはわからないわ。だって、辞めるとき、PKLとゴタゴタがあったんで、 みんなが怒っちゃって、面倒みないことにしたの。だから、あなたも注意して。PKLでは彼の名を口にしないほうがいいわよ」と忠告してくれました。


あるいは、そうかもしれません。1966年4月末、ケーニグ氏が、ニューヨーク・コピーライターズ・クラブから、 「コピーライター名誉の殿堂入り」させられたときの夕食会での記念スピーチ(いつか再録の予定 追記:ケーニグ氏のスピーチはこちらから)で、


「コピーライター養成所を、ビル・ケイシーにまかしておかないで、このクラブがこの職業における初心者たちの間でプロ意識をつくりだすような本当の援助者になっでくれることを望みます。
もし、うちのビルにそれができるなら、あなたがたのところのビルにだってできるはずです」


と紹介しているのに、それから1ヵ月そこらでPKLを辞めてしまったのですから。