創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(400)ジム・ダーフィ氏とのインタビュー(1)

   カール・アリー社 社長 兼 コピー・ディレクター(当時)


[6分間の道草]ブロックが400回を迎えました。まあ、つづけてさえいれば、いつかは通過する数字だが、心理的にはちょっと責任を感じます。ただ、ここ2週間ばかり、『アート派広告代理店』の再録で本文に英文なしを続け、増えつつある海外のユーザーの方々を当惑させたと思いました。で、今日から数日間、英文つきに戻します。欧米ではクリスマス休暇で家にいるクリエイターも少なくないことでしょうから。英文といえば、23人のコピーライターとのインタヴューを収録した2冊『みごとなコピーライター』と『劇的なコピーライター』に英文をつけるこを最も強く希望したのは、今日のダーフィ氏でした。それでいて、インタヴューの原文に最も多く手を入れたのも氏でした。マッカーシー上院議員に関する問答などは、全文削ってきました。カール・アリー会長の言うとおり、この件に関しては「直接選挙だったら---」という気持ちだったのかもしれません。



カール・アリー社を創立した時


初めてダーフイ氏に会ったのは1966年11月7日の午後、カール・アリー(Carl Ally)社を訪ねた時でした。
ダーフイ氏は、試写室に案内してくれてテレビ・コマーシャルを見せ、そのあと質問に答えてくれました。正直言ってカール・アリー社の筆頭副社長兼コピー・チーフであった氏に関しての私の知識は、当時はゼロに近かったといえます。
ですからその時は、さして深い会話はかわしませんでした。
このインタヴュ-の時点での氏は、カール・アリー社の社長で、しかもマッカーシー上院議員の選挙広告担当者として、大忙しの最中だったのです。


chuukyuu 「カール・アリーさんから『いっしょにやらないか?』と誘われた時の思い出話をしてください。ガルガーノ(Amil Gargano)氏とのコンビは前の代理店からつづいていたのですか?」


ダーフィ氏 「ええ、カールとエーミルと私の3人は、最初1959年にキャンベル・イワルドという代理店にいた時に知り合いました。カールはその時、ニューヨークの新しい支店のボスとしてきたんです。そこで彼は、クリエイティブの手伝いが必要になったので、エーミルがアートディレクター、私がコピーライターということで入り、エーミルと私はその時から一緒に仕事をはじめることになったのです。
私たちは、だいたい広告というものに関してすべてが好きでしたが、私たちの欲している何ものかが、その当時の仕事ではまだ少し足りない、何かが欠けているという感じがあったのです。これを埋めるために私たちは何かをしたいと思ったんです。
そして、新しい代理店をつくろうというのには、何カ月もかかって計画しました。それには、多額の金が必要でした。3人ともあちこちから金をやりくりして出資したものでした。
エーミルと私は、現在ではいつも非常に密接な関係をもちながら仕事をています。彼はアートのほう、私はコピーのほうですね。
そこへカールがはいって、3人は常にクリエイティブであるために緊密な接触をしています」


chuukyuu 「新しく代理店を作ろうと決心した時、奥さんに相談されましたか?」


ダーフィ氏 「この代理店を作るについては計画に数ヶ月間を要しました。もちろん、ワイフには相談しました。彼女もこの計画に賛成してくれたのです。私たち皆が大きな財政上の犠牲を払うこともさることながら、つまり給料を大きく削減して、あちこちから金をやりくりして代理店につぎ込みました。私は賭けポーカーの金額よりずっと多くをこの代理店に賭けてきました」


chuukyuu 「あなたは、前の代理店の哲学に不満があったのですか?」


ダーフィ氏 「いいえ、DDBを除いて、哲学をもった大きな代理店があるとは私は思いません。だから、前の代理店をやめたのは、必ずしも前の会社の哲学に反対だったというわけではなくて、むしろその代理店というのは哲学なんてものはもっていなかったんですね。そこでは、とにかくクライアントの好きな、お好みの仕事をする。そして、たまたまそれが買ってもらえればそれで成功なんだというやり方をしていたのです」


使われている時のコピーと自由の身の時のコピー


chuukyuu 「カール・アリー社の雰囲気を話してください」


ダーフィ氏 「ここの雰囲気というものは、もちろん私たちがつくったものです。ここをやめてほかに行こうという仲間がいないことからもこの雰囲気はいいものだと思います。特に、ここのクリエイティブ・ピープルがいいんです。クリエイティブの部門,アカウントの部門の人たちだれもが、いわゆるカール・アリー社の方式というのがあって、それに従ってやれというふうには強制されないんです。自由にやることが許されています。
ここには、この代理店の持っているレベルというか、標準がありますから、ここはいる人は、やはりその標準に見合うような実力を発揮してもらうわけです。新しくはいってくる人たちに私たちが要求するのは、とにかく自分たちのベストを尽くしてくれ、そしてベストを尽くすことによって広告におけるなんらかの問題が生じた時には、これを解決する、そういう広告上の必要をみたしていく、そのことさえできればよろしいという考えです」


chuukyuu 「経営者としてコピーを書くのと、使われてコピーを書く時の気分の違いをお感じですか?」


ダーフィ氏 「大きな違いがあります。たしかに経営者としていろいろなことを決定するよりも、広告をつくっていたほうがずっとずっと楽しいのです。
かといって、どんな代理店も経営を成り立たせていくための決定が行なわれなければ生き残れませんし、また、悪い決定が下されても同じです。ところが、多くの代理店がそれを証明しているように、いくらたくさん悪い広告を作っても代理店は生き残れるのです」


chuukyuu 「ガルガーノ氏といっしょに仕事する時の方法は?」


ダーフィ氏 「とても密接なので、何か仕事をしてもどちらかが何をやったのかほとんどわからないくらいです。彼が一時的にコピーライターになり、私が一時的にアートディレクターになったりして---」


chuukyuu 「コピーライターは、気のあったアートディレクターとコンビを組むことによって、より才能を発揮できるとお考えですか?」


ダーフィ氏 「ええ、そう思います。気のあわない人と一緒に仕事をするよりも、気のあった人とするほうがいつもスムーズにいきます。とはいえ、このことは、『離れて仕事をするにはもったいない』ほどの2人だからという理由で代理店から代理店へ自分QAを売り込みに行く2人のチームのように愚かしい極端なことにもなりかねません。 しかも、こうした2人は離したら何もできない半人前であることがしばしばなのです。
現在では、アートディレクターと一緒に仕事をすることによってコピーライターはもっといい仕事ができるんじゃないかと思います。というのは、現在のアートディレクターというのが2,3年前とずいぶん違ってきています.
現在では、アートディレクターは広告人として認められているのであって、かつてのようにヘッドラインを渡して、あとレイアウトをやれというのとはわけが違うからです。
いいアートディレクターというのは、必ずいい広告人であるわけなんです。
そうであらねばなりませんし、私たちのところでは、必ずそういうことを要求しています。で、広告人が2人集まって相談して仕事をすれば、ひとりでやるよりは必ずいい仕事ができるに違いないはずです。ここでは、ある広告上の問題を解決する場合に、アートディレクターとコピーライターと両方に同じだけの権限を与えています。
もっと厳密に言えば、もうひとりアカウントマンがいます。アートディレクターとコピーライターとアカウントマンと、この3人に均等に責任を持たせて問題を解決させるようにしています。
まあ、実際に私たちの作品の中で最もいいヘッドラインのいくつかが、アートディレクターのほうから出てきたり、また逆にビジュアルのいいアイデアがコピーのほうから出てくる---そういうことがあります。ですから、ある程度両者の立場は重復する、あるいは交換可能なものでなければならないと思います。


>>(2)


chuukyuuアナウンス】明日は、広告代理店によって働きやすさに差がある

それにしても、ダーフィ氏のアート=コピー チームの働き方式を聞いていると、バーンバックさんが米国のクリエイターに与えた影響、そして、それを見習った世界中の心あるクリエイターたちへの影響の大きさを、あらためて感じますね。
バーンバックさんのスピーチを、もう一度、熟読しなけりゃ。
>>ウィリアム・バーンバック氏とのインタビュー、スピーチ(リンク先ページの最上段)