創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(439)デラ・フェミナ著『真珠湾をくれたすばらしい民族から』(邦題『広告界の殺し屋たち』)からの抜粋(1)


【用法】
これを使いさえすれば安心というような方程式でもあれば教えてさしあげるのですがね。
そんなものはないのです。
しなければならないことは、


絶えず働くこと、
絶えず考えること、
自分がしていることにできるだけ誠実であること、
絶えず練習することです。


「ウィリアム・バーンバック氏、広告の書き方を語る」(3))より


(chuukyuu覚悟)広告の世界にも、安易な道はない---ということ。




1970年に米国でベスト・セラーにランク・インした邦題『広告界の殺し屋たち』(西尾忠久/栗原純子訳 誠文堂新光社 1971.4.30刊)の、クリエイティブの転換点を語った第2章を掲出します。
あまりにも米国的な内容だったためか、訳書のほうは、ベスト・セラーからはるかに遠く、たいした刷り部数でもなかったのに、売り切れたという話も聞きませんでした。
ネットの著作リストにも顔をださないところをみると、スズメの涙ほどしか行きわたらなかったのかも。


ま、本文の前に、訳出の経緯を知っていただくために、まず、[あとがき]を。



訳者あとがき



1970年の4月、私はニューヨークに滞在していた。


滞在中、同市の気のきいた市民たちが愛読している週刊誌『ニューヨーク』をニュース・スタンドで毎号求めていた。
伝統を誇る『ニューヨーカー』誌がすでに老人たちの週刊誌となって以来、若い市民たちの知的欲求を満足させているのはタレイ・フェルカー編集長率いるところの『ニューヨーク』誌であることは、渡米前からわかっていた。


わかっていた……という言い方は気負いすぎている。興味を持っていた……と言い直そう。
理由は、同誌のエディトリアル・デザインをミルトン・グレイサー氏率いるところのプッシュピン・スタジオが担当しているからである。


さて、この『ニューヨーク』誌の4月20日号にデラ・フェミナ氏の『忘れられた階の人びと』と題した小文が載っていた。
知友のフェミナ氏の文章ゆえ、読んでおかねばと、ホテルのベッドで拾い読みしているところへ、親友のK氏から電話があり、開口一番「読んだか?」ときた。
一両日、マジソン街はこの話でもちきりだというのである。


翌日、DDB(ドイル・デーン・バーンバック)代理店の副社長兼コピー・スーパバイザーのロール・パーカー夫人に会ったので、フェミナ氏の小文の話をもちだすと、
「まさか、あれを訳すつもりじゃないでしょうね?」
「どうして?」
「だって、あなたはこれまで、真面目にニューヨークの広告界の本質を日本に紹介してきたんでしょ? だったら、あの小文は、あなたにはふさわしくないわよ」


要するにハレンチ・マジソン街だというのである。
ハレンチだろうと、なんだろうと、マジソン街の一面が描かれていることには間違いなかろう---と思った。
パーカー夫人への返答を濁した私は、フェミナ氏に電話した。
会わねばならぬ用件が別にあったのである。


デラ・フェミナ、トラビサノ&パートナーズ代理店を訪ねたのは、雨の日であった。
フェミナ氏の秘書マデリー・ソーキー嬢に言った。
「『ニューヨーク』誌のフェミナ氏の小文の翻訳許可がほしいんだけど」
2時間後に、OKが届いた。ソーキー嬢があちこち了解をとってくれたのだと思う。美しい声で、
「chuukyuuさん、幸運を祈ってますわ」
と言い添えただけであった。


帰国後、フェミナ氏の小文のことは忘れて別の本にとりかかっていたら、誠文堂新光社の『ブレーン』誌の坂本登編集長から、ニューヨークでベスト・セラーになっている本が手に入ったが……と電話がかかってきた。
「なんていう本?」
「デラ・フェミナの『真珠湾をくれたすばらしい民族から』って本……」
「ちょっと待って。それ、『広告人とは、トニー・ランドールだと考えられている』で始まっていないですか?」
「えーと。そのよう……」
「じゃ、わかった。『ニューヨーク』誌に載ってたヤツです。翻訳許可をもらってますよ」


そういうわけで、私はいそがしくなった。
そのころ、3冊の出版予定をかかえていたので、かつて私の有能な助手で、のち結婚して1児の母になっていた栗原夫人に協力を求めた。
彼女は、アッという間に下訳をしてしまった。
私はチェックに追われどおしであった。


本書の刊行が米国より1年おくれたのは、ひとえに私の怠慢の故である。
フェミナ氏、ソーキー嬢、坂本編集長、栗原夫人および出版部の須永和親氏に改めてお詫び申し上げる。


さて、ついでにいくつかのお断りを…………。
原題『真珠湾をくれたすばらしい民族から』の意味は、本文をお読みになった方はおわかりのように、パナソニックのカラー・テレビのためにフェミナ氏がつくった米国内向け広告のヘッドラインである。


この広告を目にしたことのない日本の読者には意味が不明瞭になることをおそれて、判断で『広告界の殺し屋たち』とした。
『即答』の作者ディック・シャープによる本書についての書評『マジソン街の殺人』からとったので、あながちねつ造とのお叱りをうけることもあるまい。


本書のおもしろさは、ニクソン選挙を『大統領を売る』という本にまとめたショー・マクギーニスが「『ポートノイの不平』以来の最もおもしろい本」と折紙をつけているが、ことの真虚については、親友K氏の言葉「ほとんど事実に近い」と、パーカー夫人の「あんなふうに書かれて、DDBの人たちは怒っているのよ」という言葉を並べて挙げて、読者の判断にまかせよう。
フェミナ氏自身は「広告ビジネスは非常に変わりやすい。引例、取扱高、代理店のアカウント関係とその他の詳細は、1969年10月1日現在、私の知っているかぎり正確である。
本書が刊行される頃には、アカウントが移動し、扱い高が異なっていることもあろう。
そういったことがあった場合にはお許しいただきたい。
なお、2,3の人は匿名を用いたが、記述された氏名、代理店、状況は99.44パーセント事実である」と言っている。


いずれにしても、広告界というところは、二面の真実がまかりとおるところである。
こんなジョークがある。「広告費の半分が無駄ガネであることはわかっているのです。でも、どっちの半分が無駄ガネなのかわからないので結局、両方とも使ってしまうのです」(広告主


私的な感想……やっぱり出版するんじゃなかった。広告および広告界に対する誤解と偏見と軽蔑が発生しませんように。


1971年3月1日


【chuukyuu注】フェミナ氏の「99.44パーセント事実」は、20世紀初頭にアイボリー石鹸の有名な証言「99.44パーセント、ピュアー」のもじり。



以上が、本書に付した「あとがき」の全文です。
こういう経緯をご理解の上で、これから1週間にわたって分載する、第2章をお読みください。なお、図版は、原書にはなく、理解を深めていただくために、chuukyuuが手持ちのものから付しました。


第2章 「スピーディー・アルカ・セルツァー」の死


初めにフォルクスワーゲンありき、である。
振りかえってみて「この時から広告の転換が始まった」と誰もが言える広告キャンペーンである。
真の意味で新しい広告代理店が誕生したのはこの日であった。
1949年創立されたDDBは、すぐれた広告代理店として知られていたが、フォルクスワーゲンの広告をつくるまでのDDBがどんなことをしていたかを知っていた人は少ない。


フォルクスワーゲンの広告は最初フラー&スミス&ロス(F&S&L)代理店で扱われていた
【chuukyuu注】これは筆者の記憶違いで、F&s&RはVWのトラックの広告をやっていた。 


1959年にDDBがこのアカウント(扱い)をとった。
フォルクスワーゲンの初期の広告に、新しい代理店スタイルが誕生したと言いきれる広告がある。
『 Lemon 不良品 』という一語の見出しの広告がそれだ。



不良品



このフォルクスワーゲンは船積みされませんでした。車体の1ヶ所のクロームがはがれしみになっているので、取り替えなければならないのです。およそ目につくことがないと思われるほどのものです。

が---クルト・クローナーという検査員が発見したのです。

当社ヴォルフスブルクの工場では3,389人が1つの作業にあっています。フォルクスワーゲンを、生産工程ごとに検査するために、です。 (日産3,000台のフォルクスワーゲンがつくられています。だから車より検査員の方が多いのです)。

あらゆるショック・アブソーバがテストされます(部分チェックではだめなのです)。 ウインドシールドもすべて検査されます。何台ものVWが、とうてい肉眼では見えないような外装のかすり傷のために不合格となりました。

最終検査がまたすごい! VWの検査員は1台ずつ車検台まで走らせていって、189のチェック・ポイントを引っぼりまわし、自動ブレーキ・スタンドへ向けて放ちます。それで50台に1台のVWに対し、「ノー」をいうのです。

この細部にわたる準備が、他の車よりもVWを長持ちさせ、維持費を少なくさせるのです (中古VWが他の車にくらべて高価なワケもこれです)。

私たちは不良品をもぎとります。あなたはお値打ち品をどうぞ。


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ボディ・コピーでは「時には不良品ともいえる車をつくることもありますが、これも仕方のないことです。でもその車は売りません。私たちは私たちの車に細心の注意を払っており、売る前にはテストします。だからあなたが不良品を買ってしまうことは絶対にありません」といった意味のことを言っていた。

chuukyuu注この要約も筆者の思いこみが強すぎるようです。


時には粗悪な商品をつくってしまうこともあるなどと広告主が声明したのは、広告史上初めてのことである。
この世ではすべてのものが必ずしもバラ色ではなく、ビジネスの世界では万事が奇想天外にはいかないと広告主が言ってのけたのだ。
そして、消費者に支持され、フォルクスワーゲンのキャンペーンも販売も圧倒的成功をおさめた。


chuukyuu注販売結果は、拙編著『クルマの広告』(ロング新書 2008.12.10)でお確かめを。


自社の製品を不良品呼ばわりするなんてことは、それまで考えもされなかった。
今日では普通の手段とされているが、広告がリアリスティックなアプローチをとったのは、この時が初めてであった。
広告主が赤ん坊にではなく成人としての消費者に初めて話しかけたのだ。


『Lemon 不良品』の前には『Think small 小さいことが理想』という広告をつくった。


小さいことが理想。



きっちりつめたら、ニューヨーク大学の18人の学生がサン・ルーフVWに乗れました。

フォルクスワーゲンは、核家庭向きに考えて大きさが決められています。おかあさん、おとうさん、 それに育ちざかりのこども3人というのが、この車にふさわしい定員です。

エコノミイ・ランで、VWはリッターあたり 平均21km強の記録を出しました。あなたには、ちょっと無理な数字です。プロのドライバーは商売上のすてきな秘けつを持っているんですから(お知りになりたい? ではVWBox #65 Englewood, N.J.へお手紙を下さい)。 ガソリンはレギュラー、また、オイルのことは次の交換時期までお忘れください。VWは在来の車より全長が4フィート短くできています。(とはいっても、レッグ・ルームは同じくらいあります)。 ほかの車が混雑したところをぐるぐる巡りしている間に、あなたはほんの狭い場所にも駐車できるんです。

VWのスペア部品は格安です。 新しいフロント・フェンダーは(VW特約店で)21.75ドル、シリンダー・ヘッドは19.95ドル、品質がよいのでめったに必要とはしませんが。

新しいフォルクスワーゲン・セダンは1,565ドル、 ラジオ, サイド・ビュー・ミラーのほか、あなたがほんとうに必要なものは全部ついています。

1959年には12万人の米国人が、小ささを考えてVWを買いました。ここのところを考えてみて下さい。


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ロームやプラスチック、そして尾ヒレなどに血道をあげていた米国の自動車人口は、その広告を見て、小さいことが理想と考えるようになった。
これに対するデトロイトの反応は「そんなことはない」だった。
自分の製品を不良品と言うなんて、いったいどういう気だ? 
彼らにしてみれば、それは「約束のすべてを守るというわけにはいきません。時にはウソもつきます」と言う政治家と同じに思えた。
広告が真実を告げたのはフォルクスワーゲンが最初であった。
反応はすぐに現われた。
人びとがフォルクスワーゲンの広告を話題にし始めたのだった。


フォルクスワーゲンの広告は会社名をでっかくも書かなかった。
下のほうに小さなマークを記しただけだった。
消費者がぜひとも聞きたいと願うような言葉で話しかけた。
たいへんな成功であった。


『Lemon 不良品』『Think small 小さいことが理想』はフォルクスワーゲンの名を高めただけでなく、今日の広告を導いた。
デトロイトはこの広告を無視したのみか、小型車の使用までも無視してのけた。


フォルクスワーゲンに次いでルノーボルボプジョーなど多くの車が出現した。
デトロイトは、この国が必要としているのは駐車もできず3年もすれば流行遅れになってしまうような大型車だとたかをくくっていた。
そしてコルベアやファルコンのようなコンパクトカーをつくりだした。
それは小型車と呼べる車ではなく、大衆は買わないことで無視した。
コンパクトカーは外国の小型車の利点の、安易な模倣でしかなかった。


ついにデトロイトは、小型車には何かがあると認め、1964年にフォードがムスタングを発表した。
ムスタングは1969年になってものすごく売れている。
フォルクスワーゲンが現われてから15年後にである。


広告はまだまだ消費者の知性を軽視している。


広告界には愚鈍な連中がいっぱいいる。
つい最近も、ある歴史の古い代理店のクリエイティブ・ディレクターが広告業界紙で大衆に直接話しかけるというやり方は効果がなくなるだろうというようなことを言っていた。


DDBはつかの間の流行にすぎず、いつか消え去ってしまって、自分を悩まさなくなるだろうというのだ。


つかの間の流行! 
5年前に自分の代理店を通り過ぎていった流行だというのだ。


彼の代理店の1年前の扱い高は1億2500万ドルである。
DDBはどうだ? 
DDBはものすごいスピードで仕事をとっていく。
目下DDBの扱い高は2億5,500万ドルでブームを呼んでおり、決して止まるところを知らないのだ。


DDBがふれるものはすべて金に変わってしまう。
ビールは例外だが。


ポラロイド・カメラでも立派な仕事をした。

artdirector:Helmut Krone
copywreiter:Bill Casey


サルバトーレ・ダリの60秒ポートレイト


ポラロイドのようなユニークな製品なら誰だってすばらしい仕事ができると言うなら、よろしい、ポラロイドで時を浪費するのはやめよう。
リヴィのライ麦パンはどうだ?


リヴィのパンを好きになるのに、
ユダヤ人にならなきゃ---なんて法はありませんよ。



同文
(カラー版がみあたらないので)


リヴィ・パンの広告費は多分10万ドルくらいだろう。
そして突然インディアンの写真が町中に現われ『リヴィのライ麦パンを好きになるのに、ユダヤ人にならなきゃなんて法はありませんよ』と言ったのだ。
私に言わせれば、ライ麦パンの味なんてみんな同じだ。


だがDDBがやった方法はどうだ。


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そして、ゼネラル・フーヅがリヴィのパンを食べているインディアンや中国人の写真を見てこう言った。
「いったい、うちの広告代理店は何をやってんだ? たったの10万ドルでこれほどのものができるというのに」
そして知ってのとおり、DDBはゼネラル・フーヅのためにも立派な仕事をやってのけた。


>>第2章(2)