創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(423)「ジョン・ノブル氏とのインタヴュー」7月26日まで夏休み(最終日)


手持ちのデータを仕込むために、1週間の夏休みをいただいていました。
有用なありものをまとめての、再録にあててみました---


ジョン・ノブル氏とのインタヴュー


 Mr. John Noble
   Vice-President, Copy supervisor DDB Inc.
   (DDB 副社長兼コピースーパバイザー=1970当時)


この人とのインタヴューを収録した劇的なコピーライター』(誠文堂新光社 1971.3.10の前書きに、こう記している。


−−もはやタネはつきただろうといわれているフォルクスワーゲン(ビートル)の広告制作の後任コピーライターに指名されるや、年に200点近い作品を5年もつくりつづけ、しかもそのほとんどが一つ以上の広告賞を獲得するほどの出来ばえだったのだから、負けずぎらいコピーライターの典型のような人である−−− 



シボレーのために平凡な仕事をしながら、DDBに憧れていた


chuukyuu「DDBへお入りになったのは?」


ノブル「1965年の6月、25歳でした」


chuukyuu「動機は?」


ノブル氏「DDBがとてもよい仕事をしていましたし、ぼくはといえば、デトロイトで平凡な仕事をしていたからです」


1969年の10月、私はジョン・ノブル氏とのインタヴューをすませると、デトロイトへ飛びました。カナダと隣接したここは、自動車と会議の街として有名ですが、ニューヨークに比べると、人びとは現在に満足しきっていて、自信だっぷりに見えました。
見学したポンティアックの工場の作業ぶりも悠然たるものでした。
その広告を手がけている広告会社のやり方にも鋭さが感じられませんでした。
ノブル氏がデトロイトでイライラしながらDDBを望んだ気持ちがよくわかりました。


chuukyuu「あなたがDDBに採用された時の、たとえば筆記試験とか面接とかといった何か面白いエピソードがあったら聞かせてください」


ノブル氏「とくにありません。DDBでは、そういったことをしないのです」


chuukyuu「最初はだれのもとで仕事を始めたのでか? 最初のクライアントは? それから、あなたに強い影響を与えた、あるいは与えている人は?」


ノブル「最後のご質問から先に答えると、それは、ビル・バーンバックにほかなりません。
ぼくは、DDBにくるとすぐに、VWの仕事を担当しました。もちろん、ソフト・ウィスキーや自由ヨーロッパ・ラジオのような、他の仕事もしましたよ。
しかし、VWはぼくにとっては生活そのものでした。
どういう人のために働いたかということになりますと、ぼくのコピーに関する悪い点を教えてくれる人のために仕事をしました。DDBには昔もいまも、とても良い教師がいるんですよ」


chuukyuu「あなたの生地、学校、以前に働いていた広告会社など、以前のことを話してください」


ノブル氏「つまらない話ですよ。でも、お話しましょう。ニューヨーク州ロチェスターでうまれたんです。それからミシガン州立大学に入り、いろいろなことをし、その後、好ましい婦人と結婚しまた。2,3の小さな広告会社で働き、それからシカゴにあるシアーズ・ローバック社、デトロイトのキャンベル・イワルド広告会社で働き、そしてDDBへきました。
ほらね、つまらない話だといったでしょう」

VWを担当した時、これは、恐ろしいことになった---と思った


chuukyuu「あなたが担当なさっているVWの仕事は、DDBのもっとも代表的な仕事の一つにあげられていますが、VWの仕事を引きうけた時の最初の印象は?」


ノブル氏「VWの仕事を頼まれて、手にじっとりと汗がにじみ、シャツのカラーがきつすぎるように感じました。
というのは、ぼくがDDBに入社した1965年当時、すでにVWの広告のアイデアは出つくしたという考えが人びとの頭にあったのです。
もちろん、そんなことはないとぼくは信じてはいましたが---。
今でも新しいライターが入ってきていますし、よりすばらしい広告がどんどん出てきていますからね。
現在、このアカウントには、7人のコピーライターと7人のアートディレクターがついていますし、彼らはみんな立派な人たちばかりだと思いますよ。
彼らの仕事を見るだけでもそれはわかると思います。ライフ誌に掲載されているVWの広告にしても、他の雑誌に出ているものにしても、その仕事はいつも最上のものですからね。


仕事の質がこのように維持されているというのは、まったく驚くべきことですよ。
それにまた、すでに世にでている広告なり、コマーシャルなりに優るものをつくろうとすることは、とても恐ろしいことですよ。
VW担当の前のスーパバイザーはボブ・レブンソンでした。
彼がVWのためにやった仕事は、みんな満足のゆくものばかりでした。
彼は現在、DDBのクリエイティブ・ディレクターをしています」


chuukyuu「以前のVWの広告と、あなたがおつくりになった広告とのあいだに、何か違いがありますか?」


ノブル氏「その前に、他のことをいってもいいですか?」


chuukyuu「どうぞ」


ノブル氏「ぼくは、1965年以後につくられたVWの広告、コマーシャルのすべてを、個人の責任においてなされたものと考えたいのです。
こういったからといって、決して世界が狭いということからくる自惚れではありません。
しかしながら、その仕事に対する責任となると、多くの人のところへ行ってしまいます。
すなわち、2人のすばらしいアートディレクター---どのくらいかは覚えていませんが、ずいぶん長い間チームを組んでいっしょに仕事をしたロイ・グレイスと、もう一人は、ぼくが長いこといっしょにしごとをしたいと思っているボブ・クーパーマンのところへもいってしまうのです。


さあ、ご質問へ戻りましょう。
一つ一つの広告で違います。
しかし、広告をつくるもととなっているのはコンセプト(基本となる考え方)にほかなりません。
1965年にさかのぼりますと、ぼくたちはそのころ、この車の経済性についてもたくさんのことを話していました。
とてもよくやったものですから、ほとんどの誰もが、VWの燃費効率のすばらしさ、空冷エンジンの搭載については知っていました。
すでに知っていることを何度も何度もくり返すなんて無意味ですからね。
それで、テーマを変えることにして、今度は品質について話し始めたんです。
つまり、その車がどのようにしてつくられるかとか、その車が完成してVWという名がつけられるまでには16,000以上もの異なった検査を受けなければならないなどを説明したのです」



ノブル氏とアートディレクター:グレイス氏による、きびしい検査を訴求した作品の1例




こんなにたくさんの人がフォルクスワーゲンを検査しているんですよ


あなたの車と新しいフォルクスワーゲンの間にある障害物はたったの二つ。
1,799ドル
そして、1,104人の検査員
値段のほうは、あなたの問題。
すべてのフォルクスワーゲンフォルクスワーゲン工場を出る時に、オッケーをくだす検査員の人数は私たちの問題。
1人の人が私たちの工場の一人前の検査員になってしまうと(それには3年かかりますが)、彼はちょっと違った人間になってしまうのです。
つまり彼は、車の製造に関するどんな決定でも、そっくりくつがえしうる権限を手にするのです。
(この写真の中のだれか1人が「ノー」というと、そのフォルクスワーゲンフォルクスワーゲンでなってしまいます)。
VWのどんな部品も、最低3回は検査を受けます。
ということは、1台の車が工場からあなたの手に渡るまでには、合計で16,000回の異なった検査を通りぬけなければならないということです)。
いいですか、16,000回ですよ。
こんなふうにして、私たちは1日に平均225台のかぶと虫を失っています。
これで、あなたの注文したフォルクスワーゲンの新車が思ったよりも手間取ったとしても、理由はもう、ご納得いきましたね。
早くつくれないのではないのです。
きちんとつくろうとすれば、そんなに早くはつくれないということです。

ドイツでのVW工場の印象---すばらしいの一語


chuukyuu「VWの広告のクリエイティブ・チームに入ってから、あなたのクリエイティブ活動に役立つように、西ドイツのVW工場のどれかを見学しましたか?」


ノブル氏「もちろん行きましたよ。
それは、ぼくがしなければならない、いちばん最初の仕事でした。
とても感動しました。
ぼくは、デトロイトで働いていたときに、米国車がいかにしてつくられるかを目のあたりにしていたので、その印象は格別でした。
ぼくがよく知っている自動車づくりに比べて、VWはそれらがいかに細心の注意がはらわれているかを目のあたりに見てきたのですから。
そしてぼくはそのことだけを、何度も何通りもの方法で、多くの広告で言ってきました」


chuukyuu「ところで、あなたが担当なさる前につくられたVWの広告を、全部お読みになりましたか?」


ノブル氏「もちろん、読みましたよ。
当然のこと、絶対に必要なことです。
もし読んでいなかったら、いつもひどい広告を書いていることになります。
つまり、それが前に書かれたものかどうか疑問に思いながらも書いていて、その結果、ほんとうは、その広告は前に書かれたことがあるものだが、ということに気がつくということになるわけです。
その点、テレビ・コマーシャルのほうが楽でしたね。
なぜかというと、ぼくがこの仕事を始めた時には、テレビのほうはあまりやっていなかったものですから。
今ではもう、予算の半分以上もがテレビに使われていますけれど。
テレビで、印刷媒体広告が得たのと同じくらい愛好者を得たという点で、ぼくはテレビを誇るべきものの一つと考えています。愛されるってことはいいものですよ。そうおもいませんか?」



VWの広告は、その一つ一つが挑戦だった


chuukyuu「VWの広告の型に関しては選択する自由があったんですか? そのフォーマットを変えたいと思ったことは?」


ノブル氏「ええ、選択権はあったとおもいますよ。
それで、ぼくは、そのレイアウトを選ばなかったように思います。
いつもNo.1というレイアウトに決めてしまっていて、それを雑誌の中で、あらゆるカテゴリーに使っている場合は、そのレイアウトを変えるということについて、再度考えることになるのです」


chuukyuu「スタイルについては?」


ノブル氏「スタイル?」


chuukyuu「そうです、文体です」


ノブル氏「ぼくたちのスタイルは、1対1の話し合いの文体をとっています。100万人いるかもしれないライフ誌の読者のことをとくに考慮に入れてコピーを書くということをぼくはしません。
ぼくは隣の人に話しかけている自分を想定して書いているのです。
人間に向けて書いているのであって、物にたいして書いているのではありませんからね。
ぼくはほとんどの人間はとても心の暖かいものだということを信じているので、ぼくが書くVWの広告コピーは、とても人間的な暖かいものです。
読者を全体としてみて、一人ひとりの独立した人格とみなさないようないまいましいコピーはいやですからね」



自分の作品で好きなのは、VWのTV-CM


Chuukyuu「あなたのお気に入りの広告をあげてください。そして、その理由をお聞かせください」


ノブル氏「ぼくが気に入っているのは、『ジョーンズ氏とクランプラー氏』とタイトルされているテレビ・コマーシャルです。それは、つぎのような内容です。
隣あったそっくりの外見をした2軒の家があります。
彼らはそれぞれ3,000ドルずつ持っているとアナウンス
ジョーンズ氏は3,000ドルでフォードを買い、クランプラー氏のほうはフォルクスワーゲンのほかに、冷蔵庫、レンジ、洗濯機、乾燥機、2台のテレビ、そしてステレオを買いました。
これらのもの全部で3,000ドルだったのです。
このコマーシャルは、VWを買って倹約したお金でできることのすばらしさといったものなのです。
とにかく、ぼくはこれが好きですね。
そして、ぼくのほかの多くの人も、そのコマーシャルが好きだったのです。
たくさんの人が手紙をくれて、その中でそう言ったのですよ。
この気狂いじみたおそろしくペースの速い世界で、人びとがみずから手紙を書いて、その中で『私は貴社の広告が好きです』なんて言っている---こんなことが 想像できますか。
ぼくたちは、しょっちゅう、そういう人たちからお気に入りの広告が欲しいという手紙をもらいました。ぼくたちはその人たちに清刷りを送りました。その人たちは手に入れた広告を壁に貼ったりスクラップ・ブックに入れたり、さらには車に貼ったりしているのです。
アカウント・(得意先担当者)にとって、これほど嬉しいことはありませんよね。広告ファン・クラブというものを持っているんですから。


TV-CM[ジョーンズ氏とクランブラー氏]



アナ「ジョーンズ氏とクランプラー氏はお隣同士です。2人とも3,000ドルずつ持っています。
ジョーンズ氏は、そのお金で3,000ドルの車を買いました。
ランプラー氏は、そのお金で、新しい冷蔵庫とガス・レンジ、新しい洗濯機、新しい乾燥機、新しいステレオ、新しいテレビ2台と、新しいフォルクスワーゲンを買いました。
そこでジョーンズさんは、今、お隣さんの生活水準に合わせなくちゃならないという頭痛を抱え込みました」

copywriter:John Noble
art director:Roy Grace

DDBの広告の特長は、人と人との話し合いのスタイル


Chuukyuu「VWの広告をつくるにあたって、あなたはどのようにアイデアを展開させて行くのか、教えてください。
どんなところからアイデアが生まれるのかとか、どうやって実行に移すのかといったことを---」


ノブル氏「あなたが何かを考えだす時と同じです。
常に止むことはありません。
オフィスにおいてはもちろんですが、夜はベッドに入る直前まで、朝はベッドから起き出すその時からです。
もし、こういうことができないようでしたら、この世界にいるべきではありません」


ChuukyuuVWは、DDBのおかげて今のようになったと考えるべきだと思いますか?」


ノブル「ええ、そう思います。そして同様に、DDBVWのお世話になっているのです」


Chuukyuu「DDBで働いていらっしゃって、どんな利益を受けていますか?」


ノブル氏「まったく利己的じゃない人びとといっしょに働いているということです。5年前にぼくがここへやってきた時、誰も『生活の秘密』をかくすなんてことをしませんでした。
人びとは喜んでその経験を語ってくれました。
ですから、いま、ぼくのグループに新しいコピーライターが入ってくると、ぼくが入ってきた時に彼らがしてくれたのと同じことをしようと努めています。
この暖かさは、ぼくたちの広告にあらわれてくる暖かさというものと大いに関係があるものだと思います。
VWが打ち勝たねばならなかったヒットラー第2次大戦はちょっとやそっとでは倒れないものでしたよね。でも、ぼくたちはそれをやったのです」


Chuukyuu「もしあなたが、DDB以外の広告会社でVWの仕事をすることになったとしたら、DDBでしてきたのと同じようにすばらしい広告がつくれると思いますか?」


ノブル氏「もし、その雰囲気が同じならできるとおもいます。
でも、そういうことがありうるかどうかは疑わしいですね、非常に多くの人びとがDDBを去って行きましたが、またすぐに戻りたいと言ってきました。
要は人間です。もし、鼻もちならない奴だったら、その仕事もいやなものになります」



いつかチャンスがあったら自分の代理店をつくりたい


Chuukyuu「最後にもう一つ。バーンバックさんにお会いになった時、もっとも強く印象づけられたものは? それはいつ、どこでしたか? 彼はなんといいましたか?」


ノブル氏「ぼくが25歳の時です。
すでに経験を積んでいました。
ぼくが正しいと確信していたキャンペーンと、それを駄目だいったアカウントたちの一団とともにバーンバックさんのオフィスに入って---ぼくはここに入ってくる人びとの態度が変わったことに気づきましたが、ぼくだけは例外でした---ぼくは生意気な態度を変えず、面接中も2,3ばかげたことを口にしました。
バーンバックさんは、仕事用のメガネをかけると、大きな青い目でぼくを見つめていました。
ぼくはバーンバックさんがなんといったかは忘れてしまいましたが、あの人の青い目は今でもよく覚えています。
以来、ぼくはあの人からいろんなことを教わっています」


Chuukyuu「ところであなたは、米国の広告のこれからの傾向をどうごらんになっていますか?」


ノブル氏「きっとこういう手ごわい質問があると思っていましたよ。
この仕事で、人びとに自分の作品を読ませたり、聞かせたり、その製品を好きになってもらうことのほかに、どんなことができるか、ぼくにはわかれません。
その問題をどのようにするかというのが、あなたがおっしゃっいることになると思うんですが、省かせてもらいます。
しかし、人びとがコピーライターの作品を読むなり聞くなりして、彼は嫌いだけれどもその製品は好きだということになりでもしたら、ぼくはほかの仕事に移ります」


Chuukyuu「いつかチャンスがあったら、自分自身の代理店を開きたいとお思いですか?」


ノブル氏「そう思います」


Chuukyuu「なぜですか?」


ノブル氏「お金の問題ですよ」


Chuukyuu「コピーライターになりたいと思っている若い人への忠告がありましたら、簡単に教えてください」


ノブル氏「そうですね。
『自分がすることを信じなさい。そして、信じているものには忠実でありなさい。そのためには恐れずに戦いなさい。負けてはいけません。あきらめてはいけません』」