創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(428)ケイス・クローン社(2)


【用法】苦い味をおいしく食べさせる料理人は最上、甘い味で人を喜ばせるのは最低だと、中国の古書にあると聞き、さすがに歴史の古い国かな、と感心させられました。辻嘉一『料理心得帳』中公文庫

(chuukyuu言い換え:口当たりのいい広告は、未熟な消費者を甘やかしているのだ。上手に表現された苦みを受け入れていくことで、消費者の感性は伸びていく。)




『マジソン街』誌1970年2月号より
<<ケイス・クローン社(1)


コーネル大学出の32歳のケース氏やフォードハム大学出身のマグラス氏に対して、クローン氏はアート&デザイン高校卒であるにもかかわらず、透徹した仕事をしてきている。
ケイス氏とクローン氏が、自分たち自身の代理店をつくろうという考えを持ったのは、1968年の夏、ファイア・アイランドでのことだった。


ケイス氏は、広告業界にすでに8年いた。
氏は、J・ウォルター・トンプソンを振出しに、フート・コーン&ベルディングで1年間、DDBで18ヶ月間を過ごした。
DDBでクローン氏に会ったのである。
それから4年半は、ジャック・ティンカー氏のところで、ボブ・ウィルバース氏とともにコ一・クリエイティブ・ディレクターとして仕事した。


DDBで15年送った後、クローン氏は筆頭副社長兼特別企画ディレクターに昇進した。
クローン氏は居心地よく思っていたが、ジョー・ダリー氏が社長に指名されると、クローンがそれ以上昇進しないのは明らかであった。
29歳の時から、氏はバーンバックさんのために働いてきた。
自分のために働いてみようと決心したのであった。


1968年の初め、ティンカーの幹部たちは、パット・マグラス氏に、B&Bを出てアルカ・セルツァーの仕事をしてくれるように説得していた。
彼らが氏に印象を受けた理由は、あの保守的なP&Gに、受賞したクレストの印刷広告を出すようにとマグラス氏が説得したからであった。
しかし、 クレスト、バンパーズ、スコープ、プレルといったP&Gのトイレタリー製品類をすべて扱っていたマグラスは断ってしまった。


【参照】B&B社でマグラス氏がアカウントをとりしきっていたクレストとバンパーズの広告は、ベントン&ボウルズ社 ()←数字をクリック

これ以上、泡を立てたら、使いすぎです。
プレル・コンディショナー


ティンカーでの仕事は十分大きくなかったからだと氏はいう。
ファイア・アイランドで、ケイス氏はクローン氏に、彼らの仲間になることに興味があるかどうかマグラスに当たってみることを提案した。
ケイス氏とマグラス氏は、セント・レジス・ホテルのキング・コール・バーで会って話し合った。
首尾は上々のように見えた。
マグラスは、ほとんど冒険をしてみようという気になっていた。
しかし、代理店を成功させるには、無遠慮で、外向性で、品格のあるマグラスと、内省的で熱情的なクローン氏の2人がうまくやっていけなければならなかった。
マグラスは、決心をする24時間前に、やはりキング・コール・バーで初めてクローンに会った。
2人の波長は完全に合った。
ケイス&クローン(C&K)は1969年4月に公式に設立れた。
独立制作会社のテルパックとメディア・パイイング・サービスのインディペンダント・メディア・サービス社に対して、業務提携の打合せを行なった。
C&Kは、一つのクライアントもなく開店したが、1週間もたたないうちにボブ・ワグナーが彼らにアプローチしてきて、彼の予備選挙用キャンペーンを扱ってくれと頼んできた。
3人はほかにもクリエイティブ・チームが必要であると考えた。
「C&Kがアートディレクター1人とライター1人を求めています」とだけ、あっさりと書かれた広告がタイムズ紙に出された。


ポートフォリオが舞い込んだ。
「ものすごく集まったんですよ」とバット・マグラスは言った。
「20〜30人ははり倒しでもしなければエレベーターを降りられないほどでした」
応募してきたアートディレクターたちのポートフォリオについてクローン氏はこう言う。
「すべて非常に高度なプロフェショナリズムのあるものばかりでした。今のDDB、デルハンティ・カーニット&ゲラー、ギルバート風のすぐれた、すばらしい素質のあるものばかりでした。
ですが、私たちはそういったものよりも、少しばかり予想できないような性質のものがほしかったのです」



1960年代のデルハンティ・カーニット&ゲラー社の作品の2例

からだと同じに動くもの。つまり、ソフトでしなやかで、曲げやすいものとして知られているタロン・ゼファイア・ナイロン・ジッパー


「これからって時に、タイムを要求するなんて---いったい何しにくるんだろう---どうせ、〔代われよ〕ってなことを言うんだろう」


「ボクの速球の切れが落ちているとかいってボクを驚かす気なんだろう。とにかく、ボクをガタガタにするようなことを言いくるんだ」


社会の窓が開いてるぜ」


タロンは、あらゆる年代の野球好きの人のためのナイロン・ジッパーをつくっています。絶対に下がらないジッパーです。


1960年代のギルバート社の作品の1例


ゲランのミツコ

>>ミツコの広告モデルについて


多くのクリエイティブ・ピープルは、そういった作品集など見てもらえないと言う。
どこからも通知書がこないからである。
だが、どのブックのどの作品にも,夜8時ごろ目が通された。
「大変な仕事でした」とクローン氏は打ちあけたした。
「でも、ぼくはやりました」
クローン氏によれば、それらのアートディレクターのうち、たった1人だけ、
「とてもすぐれた」人がいたのだが、あまりに要求金額が高すぎたんです」
DDBでクローンのグループで働いていた29歳のアートディレクター---アーロン・コスターは、その求人広告を見なかった。
だが、風のうわさでクローン氏がアートディレクターを求めていることを知ると、彼はポートフォリオを持ってきた。
そして採用されることになった。
21歳のジュニア・アートディレクター、ボブ・ニードルマンはスクール・オブ・ビジュアル・アーツをこの4月に卒業した。
彼もポートフォリオを持って行き、そして雇われた。
27歳のアシスタント・アートディレクター、ブルース・ハワースを雇うと、クローン氏は、十分スタッフを備えたアート部門ができたと満足した。


>>(了)に続く