創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(529)「戻ってきた、サンタクロース」ジョージ・ライク氏(コピー・スーパバイザー)


40年く近く前、ぼくがDDBのクリエイターたちと親しくなり、彼らの個室を訪問していたとき、同じように自由に個室をまわっていたのが靴磨きのフランクでした。従業員でも嘱託でもなく、フリーランスの靴磨きですが、一種の公認で、DDBersの身づくろいの仕上げ者でした。
たまたま、レン・シローイッツ氏の部屋へいたときに巡回してき、レンが「日本からのお客さまだ、サービスしたら」といい、ぼくの靴を磨いてくれました。


いまは、代がわりしていましょう、いや、スーツにスニーカーが流行しているから、稼ぎは減っているかも。


書き手のライス氏は、ひねりとユーモラスなエッセイを書くのが大好きなコピーライターで、コメント欄さえあれば、気軽に無料寄稿してしまう仁。


戻ってきた、サンタクロース               
        コピー・スーパバイザー ジョージ・ライク   


どのくらい留守してた?


DDBへ私が戻った時、多くの人たちの風紀を乱してしまった。


私のことをみんなはよく覚えていてくれていて、こう言ったものだ。
「トム、どのくらい留守してた? 1年くらいだったかい?」
「3年以上になるね」と私。
「そんなに長かったかな? なんてこった! おれも齢をとるはずだ!」
その時まで、自分はまだまだ壮年期なんだと考えていた人たちも、私の肩ごしに死が彼らをにらみつけているのを悟ると突然気が弱くなり、意気消沈してしまうのだった。


しかし、靴磨きのフランクは、私に再会できたのを喜んでくれた。
彼にはDDBへ戻った最初の目、木曜日に会った。
「どこへ行ってたんだ? そこら中捜したよ」
「フランク、ぼくは、きょう初出勤したばかりだよ」
「きょうだって? 先週の金曜日じゃなかったのかい?」
フランクの情報網は、私のよりいつも優秀だったので、彼といい争うのはやめにした。
「まだ15セントで磨いてくれるのかい?」


「15セント? おとぼけじゃないよ! そんなのは昔の話だよ。すわりな、磨いたほうがいい。ところで、あっちの具合は、どうだった?」とフランク。「ペントン&ボウルズは気に入らなかったのかい? ウェルズ・リッチ・グリーンは、どうだった?」
「ひどいもんだよ。あそこの靴磨きは、75セントだったよ」
「ナンテコッタ!」フランクは叫んだ。


「もう片方も磨いてくれよ。フランク、今のは冗談だよ」
「J・ウォルター・トンプソンはどうだった?」と彼は。
「J・ウォルター・トンプソンなんて、行ったこともないよ、フランク」
「行ったはずじゃないか? ローゼンフェルドといっしょだったろ?」
「そんなことないよ、フランク」
しかし、いたと答えたほうがよかったと、私は思った。おかげで気のない磨き方をされてしまったのだ。だれがそんな誤った情報を提供したのか。

【chuukyuu注】注をつけるまでもないが、ロン・ローゼンフェルド氏は、DDBきっての名文コピーライター。トンプソン代理店に引きぬかれたが、1年でやめ、レン・シローイッツ氏と自分たちの名を冠した広告代理店を設立した。DDB時代の氏とのインタビュー ←クリック


廊下をブラブラしててくれよ


フランクのあとは、万事下り坂であった。廊下で会った副社長の一人はこういった。
「ジョージ、ここで何をしているのだい?」
「また、はいったんですよ」
「でも君は、クローンと出て行くって聞いたよ、ジョージ」

【chuukyuu注】かのVWビートルとエイビスのキャンペーンで名をあげたアートディレクターのクローン氏は、元DDB育ちでジャック・ティンカー&パートナーズ社へ去ったユージン・ケイス氏と、1969年にケイス&クローン社を創立したが、3年後にクローン氏はDDBへ復帰。
ジャック・ティンカー社時代のユージン・ケイス氏とのインタヴュー ←クリック


「あれは私が3週間前に流したデマですよ。あんなの信じるバカはいないと思ってましたがね」
「彼らと出て行きなよ、ジョージ」


靴磨きのフランクに私の部屋はどこか聞けばよかったと今にしては思うのだが、レオン・メドウに尋ねた。

【chuukyuua注】コピー部のアドミニストレイターのレオン・メドウ氏とのインタヴュー ←クリック

「まだ君のための場所は取ってないんだよ、ジョージ、でもどこかあくかもしれない……だれかが撮影か休暇で出かけるかもしれないし……あいてる部屋を捜してあげよう」
助げ船を出すつもりで私はいった。
「レオン。バーンバックが出かけてるけど……」
「ジョージ、昔やってたみたいに、廊下をブラブラして、冷房のへんにいてくれよ。用がある時は、捜すから。昔やってたみたいにさ」


そこで数日間というもの、私は、サチ・タサカ(注・日系のバーンバックさんの秘書)の部屋に置いてあるオーバックスのショッピング・バッグの中をひっかき回しながら、浮動して回っていた。3日間こっちの個室にいたかと思うと、次の1日半はあっちの部屋へという具合で、それは続いて行った。


私はいろいろな場所を占領したが、中でもいちばん面白かったところは、部屋でない場所、いつもレオン・メドウの秘書がすわっている廊下の突き当たりのところであった。
そこにかかってくる電話といったら、こらえようもなく面白いものであった。


「もしもし、メリー・アン・ペネノープ・キャペツですけど、メドウさんに私の作品をそろえてもらえるかどうか聞いていただきたいんですけど……」
「処分してしまったそうです」と私は電話を切ってしまった。

【chuukyuu注】DDBを去り、ウェルズ・リッチ・グリーン社へ行った、コピーライターのメリー・ウェルズ女史とキャロル・アン・ファイン夫人をもじったとおもわれる。 キャロル・アン・ファイン夫人とのインタヴュー ←クリック


DDBのような広告じゃ通らないんだ


マルハナバチマルハナバチ(ここの受付には小さなハチのついた壁紙がはってあったので([ベントン&ボウルズ社])の話をしてみょう。

ここは9時15分に始まって、5時15分に終業する代理店であった。私はここには長くいなかった。といっても私がこの会社にいた6ヶ月間のことをいっているのではない。
それは実際とてもとても長い期間のように思えるくらいなのだから。


私は正直にオフィスに出かけたものだ。
しかし一度、10分ばかり遅れそうなのに気がついた時のことだが、遅刻をしたことがとても恥ずかしかったので、私は病気と偽った。
彼らはわかってくれた。
そこの会社ではたくさんの人が病気だったからだ。


しかし、仕事をしていることを見せるために、私は時々広告をつくった。だが彼らはいったものだ。
「ここは違うんだぜ。DDBのような広告じゃ通らないんだ」
「そんなの珍しくもないね」と私。「DDBにしても、たくさんの人たちにしても、みんな私にそれと同じことをいったもんさ」


のちに私はしばらくほかのところにもいたが、もしそこで彼らが、私が昼飯に出かけたまま戻ってこないんじゃないかというようなことをいわなかったら、私も今でもそこにいたかもしれない。


それから私は大学に行っている娘のところへ、DDBへ戻ったことを知らせた。
「お父さん」と彼女は書いてよこした。「本当にあっちこっち動き回ったわね。家に帰ってどんな感じ、サンタクロースさん?」


ここがサンタおじさんの部屋だよ


娘は、私のことをサンタクロースだと本当に思っているわけではない。
彼女が14歳になるまで、私はサンタクロースのことは彼女に話していなかった。
と言っても、そううふうにしてお金を貯めていたわけなのだが。


しかし'60年代の初期の、ある12月のこと、私の個室の入口にはってある名札が取り去られ、その代わりに、喜ばしいクリスマス調の書体で、サンタクロースと書かれた名札がぶらさげられた。そしてそれは何年もそのままであった。


よく迷ったメッセンジャーたちが、私の個室にひょっこり現われて、こういったものだ。 
「すいませんが、サンタクロースさん、ケン・ダスキンの部屋はどこでしょうか?」

【chuukyuu注】ケン・ダスキン氏は、DDBの古参・重鎮アートディレクター

DDBのある秘書は私にこう聞いたものだ。
「あなたの頭文字はSなのに、どうしてみんながジョージって呼ぶんですか?」


そしてクリスマスの時期になると、誇り高き父親たちが、その小さな子供たちを私の部屋に連れてやってきて、こういったものだ。
「ここがサンタおじさんの部屋だよ。入口にかかっているサインを見てごらん。それから灰色のひげのこの変なおじさんを見てごらん」
「赤い服はどこだろうね?」と子供たちは、ささやいたものだ。
「あの赤い鼻見てごらん」そういったものだ。


「フ、フ、フ……」
私は、偽善者的な上機嫌さで、笑いかけたものだ。
「何を持って行ってあげようかな、小さなお方? すてきなドラムのセットがいいかな? お父さんたちに聞かせてあげられるよ。それとも生きた子馬がいい? 800ドルの電気機関車? それとも本当に弾の出るガンがいい?」


「お父さん!」 子供たちは飛び上がって喜んだものだ。
「本当にぼく、あんなにもらえるの?」
「お黙り! スターンのところへ行こう。そうすれば、すてきなサンタクロースに会えるよ」
スターンに何が起こったかは、みんなの知るところだ。


そして私はここにこうしている。
そしてずっとここにいることになりそうだ。
私にはまだ2、3年はすばらしい年が待っていてくれる。
自分が去るべき時は、私にはわかると思う。
すべてのコピーライターにはわかるはずだ。


まず自分の指がだめになるはずだから。
ちょうどミッキー・マントルとその足のようにだ。
確かにまだタイプもたたけるし、広告をつくり出すことができる。
だが年がたつにつれ、ふしぶしがぎくしゃくしだし、つめは割れてきて、指はタイプライターの上をはねなくなってきてしまう。
そうしたら、タイプライターをしまいこむ時がきたということなのだ。
その時こそ私が………… (『DDBニュース』1969年9月号