(391)『アート派広告代理店---その誕生と成功』(1)
いまから40年前---1968年10月15日刊の右掲書(変形A4)を誠文堂新光社から刊行しました。同社発行の『ブレーン』誌に連載したもののまとめです。きのう、お約束したジャック・ティンカー&パートナーズ社を取材したリポートも、同書に収録されています。それで、ひっぱりだして再読してみたのですが、「まあ、ええこと、言うとる」とおもったので、ジャック・ティンカー&社の前に、この本の前書きを2回にわたって引用します。チョッピリ辛くて、ちょっぴり古めかしくて、まったく定着しなかった---と、あらためて判定をくだしました。ま、我慢してお読みください。40年前の米国が発した警鐘がきこえてきます。「黒船、来る」の叫びのつもりだったかもしれません。
<序に代えて>
1966年の11月。私は、この年2度日のニューヨーク訪問をしました。この年2度目---というのは、同じ年の4月から5月にかけての2週間を、やはりこの街で過ごしたからです。
なぜ、1年のうちに2回もニューヨークへ出向いたかといいますと、どうしても私自身の体で確かめたいことがあったからです。
そのひとつが、アメリカの広告代理店の思想を見きわめることでした。
第1回の旅行で、私が訪問し、会見し、取材した広告代理店とそこのおもだった人びとは---
● ロサンゼルス
カーソン/ロバーツ社---ジャック・ロバーツ(筆頭副社長兼クリエイティブ・ディレクター)氏ほか
DDBロス支社---サイ・ラム(クリエイティブ・ディレクター)氏ほか
● ニューヨーク
DDB---レン・シローイッツ(副社長兼アート・スーパバイザー)、 ロン・ローゼンフェルド(副社長兼準コピー・チーフ)、 ロール・パーカー(副社長兼コピー・スーパバイザー)氏ほか多数
PKL---フレッド・パパート会長、ジョージ・ロイス(筆頭副社長兼クリエイティブ・ディレクター)氏ほか
レバー・カッツ・パチオーン社---オノフリオ・パチオーン(筆頭副社長兼クリエイティブ・ディレクター)氏ほか
キャドウェル・デイビス社---ハル・デイビス(筆頭副社長兼クリエイティブ・ディレクター)氏ほか
オグルビー・ベンソン&メイザー社---・バード・スミス(取締役副社長兼ヘッドAD)氏ほか
サドラー&ネシー社---アー二ー・スミス(前クリエイティブ・ディレクター)氏ほか
● ピッツバーグ
BBDOピッツバーグ支社---アーノルド・バーガ(クリエイティブ・ディレクター)氏ほか
ケチャム・マクロード&グラブ社---社長ほか
●サンフランシスコ
フリーマン・ゴーセイジ社---フリーマン社長
といったところで、たぶん、50人ぐらいでした。
第2回目は、まっすぐニュ-ヨークへ飛びました。
DDB---ジョー・ダリー社長(当時は取締役副社長),デイブ・ライダー(副社長兼コピー・チーフ)氏ほか多数
PKL---ウイルキンス博士(副社長兼調査部長)ほか多数
キャドウェル・デイビス社---フランキー・キャドウェル社長ほか
カール・アリー社---カール・アリー会長ほか
ジャック・ティンカー&パートナーズ社---パレット・ウエルク(アカウント担当副社長)氏
ウェルズ・リッチ・グリーン社---ディック・リッチ(筆頭副社長)氏ほか
デルハンティ・カーニット&ゲラ一社---シェパード・カーニット社長ほか
ギルバート社---ギルバート社長ほか
と、このときも50人以上の広告人に会い、家庭に招待されて歓談したこともありました。その結果は、すでに2冊の拙著となりました。『繁栄を確約する広告代理店DDB』、 『アンチ・マジソン街の広告代理店PKL』(いずれも誠文豊新光社刊)で、第3冊目がこの『アート派広告代理店』です。
固有の哲学をもつ広告代理店
さて。大方の忍耐力の限度を無視して、長々と広告代理店の名を列記したのには理由があります。
慧眼の方なら、とっくにお気づきのことと思いますが、私が調べて歩いた広告代理店のほとんどが、多分に傾向的なところばかりであることです。
雰囲気的には「ホット」という形容詞がつけられている代理店が多い。
分類的にいえば「アート派」に属します。
制作態度では「クリエイティブ」な代理店と呼ばれています。
「ホット」の対立概念は「クール」であり、 「アート」のそれは「科学」であり、「クリエイティブ」の反対側には「ビジネスライク」があります。
とすれば、「クール」な代理店、「科学派」代理店、 「ビジネスライク」な代理店」というのがあるはずであることは、容易に想像がつきます。
ところが「クール」とは言わないで「サワー(酸っぱい、腐った)」代理店と呼ぶようです。
「サワー」「科学派」「ビジネスライク」という呼称も、どうやら同時に使わないようです。
デルハンティ・カーニット&ゲラ一社のカーニット社長(写真)に、「11月20日のニューヨーク・タイムスの日曜版を読んでごらんなさい」と、前々日の18日に言われ、 ロンドンに発つその日に、あわてて買って、飛行機の中で、 ビクター・ナバフキーの「広告は、科学か? アートか? ビジネスか? 解答は11の哲学の流派の中で求めるべきだ」を苦労しながら読みましたが、この論文によると、広告代理店の思想的なあり方が、「アート派」「科学派」「ビジネス派」の三つに大別されています。
つまり、「科学派」と「ビジネス派」は別々のもののようです。
ナバスキーの論文の紹介はあとにして、私がなぜ「米国の広告代理店の思想を見きわめる」ためには、代理店を歴訪しなければならないと思いついたかを説明しておく必要があります。
いまでこそ(40年前の、です)「米国の多くの広告代理店は、それぞれで固有の広告哲学をもち、その哲学を具体化するのに最もふさわしい組織と雰囲気をつくりあげている」と言っても、日本の広告人たちもそれほど奇異には思わなくなりましたが、私がこうした発言を最初に行なった1963年(注)には、 全く理解されませんでした。
(注)オリコミ広告社刊『広告美術』38-9号,拙原稿『試論アメリカのAD」1963.2.28発行
当時の広告人たちが米国で見聞してきたことは、 「アメリカでは---」という一般論にすりかえられて発表されていました。
そのころ、私は、DDBとオグルビー・ベンソン&メイサー社にネライをつけて、両社の違いを調べていました。
そして、両社をそれぞれ代表するウィリアム・バーンバック氏(前社長 現会長)とデビッド・オグルビー会長が、重要な点で思想的対立をしていることに気づいたのです。
そのうちいくつかを書き並べてみますと、
●バーンバック(写真)「もし、あなたが言うべきことを見つけて、あなたのなすべき仕事は終わったと考えるのでしたら、あなたは、みんなが表現しているのと同じ方法で表現しているにすぎないのです」
●オグルビー「いかに言うかよりも、なにを言うかのほうがはるかに重要である」
●バーンバック「私は、この会社にすばらしく深いタレントの層をもっているのです。(中略)非常にユーモアに秀でている人がいます---生まれつきユーモアに対する感覚の鋭い人です。(中略)ユーモアの得意な人に、彼のできないような仕事をやらせるのは、私が間違っているのです」
●オグルビー「ユーモアなコピーは、ものを売らない。アマチュアは別として、すぐれたコピーライターは、この手を用いない」
●バーンバック「すべてのことを正確な言葉で測ろうという仕事は、今日の広告に関して問題のひとつです。これが調査崇拝ということにつながります」
●オグルビー(写真)「私は、はっきりした創造哲学をもっています。大部分、調査に基づいたものです」
●バーンバック「コピーライターは、説得のアートをいわゆる百貨店における実践的修業よりも、偉大な文芸批評からはるかに効果的に学ぶものです」
●オグルビー「広告は販売技術(セールスマンシップ)である。慰み(エソタテーンメントではない。純粋美術でもない。思いあがってはいけない」
広告の訴求内容と表現技術に関する、あるいはユーモアの効用に関する、あるいはまた調査や読書に関しての意見対立のように見えるかもしれないが、実はこの対立は、もっと根源的なものすなわち、広告そのものの認識に対する違いに、私には思えました。
そこで私は、DDBとオグルビー以外の幾つかの広告代理店の社長たちの考え方を調べてみることにしたのです。
そして、先述の結論を得ました。(敬称略)
「科学派」「ビジネス派」「アート派」
ナバスキーの論文は、私のこの結論を、もっと明快に例示したものです。
まず彼は、広告代理店の3人の社長が見込みクライアントにプレゼンテーションの説明会に別々に招かれて、
「何時かな?」
と質問されたときの3人3様の返事を、次のようにカリカチュアライズしています。
まず、最初の代理店社長は, こう答えました。
「ちょっと待ってください.調査にかけてみます」
次の社長は、
「何時と言えば、お気に召しますか?」
と逆に聞きかえしたといいます。
3番目に招かれた社長は、
「時間のことなんか忘れて、この広告を読みなさい」
(別の報告によると、「あなたの時計を盗むまで侍ってください」と答えたともいいます)
そして彼は、3人の社長にそれぞれ、「科学派」「ビジネス派」「アート派」の称号を捧げ、「3人のアプローチの方法が、彼らの哲学を代弁している」と言うのです。
そしても科学派の1人デビッド・オグルビー氏をギリシャの哲人プラトンに見立てます。いかなる製品も個性---すなわちブランド・イメージを必要とするという、オグルビー氏の広告に対する基本的な考え方が、厄介な概念の問題をかかえて思案にくれていたギリシャの哲人たちの中で、あらゆる物体はすべて理想的な姿を必ず持っていると言いきったプラトンに似ているというのです。
オグルビー氏のブランド・イメージ論をすこし詳しく解説しますと、製品の市場における究極的な地位を決めるのは,品間のごく些細な相違でなく、むしろブランド全体の個性であり、イメージです。しかもそのイメージは、広告、価格、製品名、パッケ-ジ、提供テレビ番組の種類、市場に登場してからの期間やその他の要因の結果として生まれたものです。
最近の数年間の研究で、調査員たちは、古いブランドが大衆の間でどのようなイメージを得ているかを教えてくれるようになり、かつ、その製品のイメージの欠陥が販売を阻害していることも指摘できるようになりました。
しかし、打ち立てるべきイメージの質、その決定には調査は役に立ちません。 このときこそ、すぐれた広告人の判断が必要になります。そして、個々の広告はすべて、ブランド・
イメージ---の長期投資として計画すべきであるというこのオグルビーのイメージ論は、彼の著書『ある広告人の告白』(西尾・松岡共訳、ダヴィッド社刊lの中でもほんの6ページに要約されているだけですし、イメージという用語の概念規定もしていません。
したがって、私たちとすれば、当時のアメリカで通念となっていたイメージという言葉の概念規定を当てはめて解釈するより仕方がありません。それは、人が事実についていだく
既成概念の映像といった種類の域を出ていません。
これに対して、イメージを、人間の知覚を誘導し、認識と行動に先行し、認識と行動を生み出すものとして、その積極的な意味を認めている人にハバード・リードがあり、私は、
マジソン街ではDDBのバーンバック氏がそれに近い考え方をしているとみるのですが、氏自身はいままで、イメージという言葉を使っていません。氏が好んで使う言葉は、イマジネーションという単語です。リードに関連して、イマジネーションを考えた場合、思いつくのは、イタリアの哲学者ジャムバッティスタ・ピコの思想ですが、バーンバックがピコ以来の想像力の論理を追求しているかどうかは知りません。 「私は哲学の本をたくさん読みます」と告白し、ルイズ・マンフォードとバートランド・ラッセルを愛読しているという氏ですが。
余談はさておき、ナバスキーは、バーンバック氏をソーレン・キェルケゴールに見立てています。
「バーンバックは、 フォームが内容に先行すると信じている。いかに語るかという重要な問題に関して、芸術的効果を強調する彼をアリストテレス派に分類する人もある。
(アリストテレスが述べた、物体の本質はフォームにあって、フォームがなければ、物体は単に潜在する---可能性としてある---だけであるという説を思い出すからであろう)。
しかし、バーンバックは、マジソン街に『誠実』という驚異を示してみせたことで大いに貢献している。この確信をもっていたからこそ、広告界で初の実存主義者として、彼の自己主張を貫くことができたのである。
実存主義者は、人間存在は、人の本質に先行すると考える。バーンバックも、広告の本質よりも、すぐれた、ユニークな、相違点をもった製品の存在が先であるという仮定のもとに始める。そうでなければ、アカウントとして扱うべきではないという」
そして、「キェルケゴールがいうところの、絶望という重苦しい緊張」をもったDDBの広告の例として、エイビス・レンタカーでは「No.2」といい, フォルクスワーゲンでは「レモン(不良品)」といい、「シーバス・リーガルのびんを変えた間抜けはだれ?」といった広告を選び出しています。
エイビスの「No.2主義宣言」に関しては講談社刊の同名の拙著を、VWに関しては『VWの広告キャンペーン』を、シーバス・リーガルについては誠文堂新光社刊、拙編著『繁栄を確約する広告代理店---DDB』にゆずるとして、バーンバック氏のイマジネーションについて、まず一言しておきましょう。
氏の有名なセリフに「広告は根本的には説得である。そして、説得は科学ではなくて、アートの問題である」というのがあります。
アートであるから、制作者はすばらしい洞察力とイマジネーションと個人的直観をもっていなければならないというのです。つまり、問題の本質を見抜く力---しかもそれは順序立てて考えるのではなく、突然舞い立って力をそこ-導く別の説明不可能な力に支えられたものであること、続いてそれは問題の新鮮な解決まで持続しうる力にまで発展することだというのです。
「あなたが読者に言いたいと思っていることを、ひとつの目的、ひとつのテーマに結晶させることができなければ、あなたはクリエイティブにはなれない。ただ、イマジネーションをやたらと走らせ、脈絡のない夢をみ、グラフィック・アクロバットや言葉の体操にふけるだけではクリエイティブではない」
「クリエイティブな人は、イマジネーションに引き具をつける」
【参考】
ウィリアム・バーンバック氏の代表的スピーチ「広告はアートである」(1・2・3・了)
いまや、超希少品
寒くなってきたので、朝のウォーキング用に取り出したのが50年前---1958年の[全日本広告技術懇話会・結成記念]に電通が記念品としてメンバー全員に下さった、もちろん、化繊製のマフラー。
発会式は帝国ホテルで、500人くらいの広告技術者(コピーライター、アートディレクター、写真家)が参加しました。
いまでは、ほとんどの方が物故されて、まだ、持っていそうなのは、コピーライターでも、土屋くん、志垣くんくらい?