創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(386)ユージン・ケイス氏との隔靴掻痒のインタビュー(1)


 ユージン・ケイス氏
 パートナー, コー・クリエイティブ・デイレクター
 ジャック・ティンカー&パートナー(当時)


正直に言って、インタヴューの時期をあやまったかもしれない。創業者が倒れて、残された人たちが必死に継続の方法を模索していた時期だから、オープンに答えるより、必要最小限のことしか話さない感じであった。それはそうだろう、メリー・ウェルズさんたちも退社の気配だし---。日本人へのインタヴューどころではなかったのだ。ケイス氏自身も、やがて、DDBのヘルムート・クローン氏とケイス・クローン社を創設した。ということは、いろんな有能な人から、目ぼしをつけられていたということなんだ。


創業者の1人---ジャック・ティンカー氏が心蔵発作で倒れて以後、
この代理店は6人の幹部社員によって集団指導されている。
ケイス氏はその1人。
ふつうの代理店の3倍の利益効率事をあげるために
ここがとっているやり方は少数精鋭による
広告創造の専門化である。
したがって. ここでは各人が能力いっばいの仕事をする、
まさにモーレツである。


DDBからジャッグ・ティンカー社へ移ったいきさつ


chuukyuu 「いつ、どういう経緯で、この代理店にいらっしゃいましたか?」


ケイス氏 「1965年の3月に入りました。その前は、 DDBでコピーライターとアシスタント・コピー・スーパバイザーをやっていました。 DDBで一緒に働いていた人がたくさんティンカーに移って、私の名前を知っていて呼んでくれたのです。お金もたくさんくれましたしね。それで、いまここにいるというわけです」


chuukyuu 「どのくらいの期間、 DDBで働いていらしたのですか?」


ケイス氏 「けっこういましたよ。1年と2ヶ月です」


chuukyuuDDBでは、どのアカウントのコピーを書いてらしたのですか?」


ケイス氏 民主党全国委員会(ジョンソンの大統領選挙)、アメリカン航空、それにアキュトロン時計がDDBでの担当でした」


chuukyuu 「雰囲気ということだと、ジャック・ティンカー&パートナーズとDDBとでは、何がいちばん大きな違いですか?」


ケイス氏 「ティンカーのほうが、もっとぜいたくで、もっと爆発的で、もっと詐欺的で、要するに、もっといい雰囲気のようです」


chuukyuu 「この代理店でのあなたのポジション、またそのポジションの責任範囲は? また、いま、どのアカウントを担当し、あるいは実際に書いていらっしゃいますか?」


ケイス氏 「パートナーで、コー・クリエイティブ・ディレクターです。ここには、6人のパートナーと2人のクリエイティブ・ディレクターがいます。そして、私はライターであり、クリエイティブ・ディレクターのひとりです。
もうひとりは、アートディレクターのボブ・ウィルバー(Robert Wilber)です。また、2人は、すべてのアカウントのすべてのクリエイティブ・ワークに責任があります。私は実質的にはすべてのアカウントの仕事をしますが、特定のアカウントのためには書かないわけです」


chuukyuu 「あなたのコピーライターとしての職歴をお話しくださいませんか? また、どんな動機でこの仕事におはいりになったのですか?」


ケイス氏 「仕事が欲しかったのです。妻と子どもがいましたし、生活していかなければならなかったのです。それには、この仕事がラクで、いいように思えましたから。最初、23歳のときに、J.ウォルター・トンプソン社にはいり、そこに2年いて、それからほかの代理店を転々とし、ここにきました。はじめの2年間は、生活費をかせぐのでせいいっぱいでした。それから、ほかの人はお金もかせぎ、しかも仕事もよくやっているということに気づき、それから私は仕事もうまくやろうと決心したのです」


>>(2)モーレツな雰囲気のジャック・ティンカー社