創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

[6分間の道草](127)ジャック・ディロン氏とのインタヴュー(7)

     (DDB,副社長兼コピー・スーパバイザー)

コピーライターの募集

(この項の英文の冒頭部分は、校正時にディロン氏がまったく新規につけくわえたエピソードです。訳文はつけていませんので、英文でお読みになってみてください)。


chuukyuu「新しくコピーライターを採用するときには、DDBでは募集広告をだすのですか、それとも他の広告代理店の人に誘いをかけることもあるわけですか? それとも彼らのほうから入社を希望してくるのですか?」
ディロン「これまでは、DDBはその仕事、そしてDDBの仕事のやり方に対する評判、創造の自由---といったことなどで、多くの人材をひきつけてきました。
クリエイターあるいはアートディレクターが新しく必要な時には、求人広告を出しますが、ずいぶんたくさんの応募がありますよ。
私がDDBへ来たのは、広告が出ていたからです。ちょうどフラー・スミス&ロス広告代理店を辞める用意もととのっていくしたし、2,3の仕事を送りました。それから3回面接をくりかえして、いま、ここに、こうして座っているというわけです。
面接したのは、メリー・ウェルズ夫人(写真)、デヴィッド・ライダー氏、フィリス・ロビンソン夫人、そしてビル・バーンバックさんでした。
あの時はたしか、2,000人の応募があったようです。
私が作品を送った時には、もうすでに1人決まっていたのですが、私も採用してくれました。
求人広告をだすと、たくさんの応募があるようです。
広告なんか出さなくっても、いつも、誰かが門をたたいていますけどね。
他の広告代理店から呼びかけがよくあり、たくさんの人材がて出ていっていますけど、DDBではそんな必要はないんですよ」

アメリカン航空のためのアストロジェットの広告。


Every Asrojet Captain has a past.
アストロジェットの機長は全員、それぞれの思い出話を持っています。

ジム・ボイド機長がパイロットになりたてのころは、まだ若くて乱暴でした。
「私がビットケアン(オートジャイロ)で飛んだのは、まだ20代のころでした。郵便を運ぶお金がほしくて、レンガをあっちへやったりこっちへ動かしたりしたものでした」
ジム・ロイドはステアマンの話もできます。
「それはすごい騒音をだしたもので、納屋が火事のときには、それで農家の目を覚まさせてやったこともあったというのです。また、操縦ミスをしても、立ち直らせる余裕があるほど速度ののろい飛行機コンドルの話もしてくれます。
彼はDC−3(別名C−17)の操縦法を軍隊に教えたこともありました。そしてDC−6,DC−7、エレクトラなどでも飛んだこともありました。
ジム・ボイドがアストロジェットを操縦するまでには、700万マイルも飛びました(これはあなたが飛べる限度です)。
ほかのアストロジェットのパイロットも似たりよったりです。
彼らは民間航空の歴史とともに成長してきたといってもいいでしょう。
そこで、もしあなたの求めていらっしゃるものが経験でしたら、アメリカン航空におまかせください。私たちが保証します。

ジャック・ディロン氏とのインタビュー
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