創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(44)DDBのやり方を語る(1)「自分が働きたいと望む会社にしたかった」

DDBアカウント担当重役 ネッド・ドイル Mr. Ned Doyle
(注:1969年に引退)


これは、『DDBニュース』1969年7月号に載ったインタヴューを、ご本人の許可を得て、拙編『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1970.11.10)に翻訳・転載したものです。

自分が働きたいと望む会社にしたかった

「あなたが触媒でしたね。あれは全くの過ちでした(笑)」
ドイル「いや、おっしゃるとおり、全くの過ちでしたよ(笑)。
ご存じのように、ビル・バーンバックと私が新しい広告代理店を立ち上げようとした時に、もう一人広告代理店にいたことのある人間が必要だということになりました。
マクスウェル・デーンは、私が『ルック』誌にいたころの販売促進部長をしてくれていましたし、彼が自分の広告代理店を持った時も、見守っていました。
彼は、バーンバックにほんの2回しか会ったことがありませんでした。私は、バーンバックのことはグレイ社で4,5年いっしょに働いていて、よく知っていました。それで、バーンバックとデーンならきっとうまくやっていくことができると言ったのです」
「そしてあとは歴史が物語る。あなた方は、特別な代理店をつくるつもりで集ったのですか?」
ドイル「デーンが話したと思いますが、私たちは、私たち自身が働きたいと望むような場所にしたかったのですが、今それに近くなっていますよ。
(注:デーン氏「DDBの歴史を語る」 )
信頼のおける主義を持った広告代理店にしたかったのです」
問い「その主義を詳しく話していただけますか?」
ドイル「クライアントに完全に忠実であるということ。クライアントにとってふさわしいと思えるような仕事を(それがそのクライアントの目的にフィットするならば)すること。
その商品を消費者に提示することにかけての熟達者であること。
つくった広告に対してクライアントの夫人がどういうかなど気にしないこと。
正直な見解を持つこと」
「1949年当時、どこかほかの広告会社でも同じような見解を持っていましたか?」
ドイル「ええ、あったと思いますよ。レイモンド・ルビカム、ホイッチャーやトニー・ゲオガーガンのいたころのヤング&ルビカムはそうでした。私は『ルック』誌のスペース・セールスマンとしてあの人たちの見解に接しており、それがいいものであることを知っておりました。で、私たちのアイデアもあの人たちからきたものです」
「それでは、DDBの創業時から、ここのアカウント・マンの役目は、ほかの大方の代理店のそれとははっきり違っていたのですね」
ドイル「そうだと思いますよ。というのは、私たちは広告主が必要と思われるものを提供しようとして創業したのですから。

『まあ、セックスも悪くないようだな』

ドイル「初期のころのエピソードをエピソードを一つお話ししましょう。
カリフォルニア・コール水着のフレッド・コール社長が、ほかの広告会社との間に問題を起こしてしまって、私たちを呼びました。その時コール社長は、ライオンや虎などの動物の絵のついた水着を売ろうとしていました。コール社長はそれを『動物園』と呼んでいました。
バークバックがそれを見て、『雌獣』と名づけました。そしてすぐれた広告を2,3点作りました。
デーンと私は、ある日の4時ごろ、その広告のコピーをコール社長のところへ持って行きました。出席していた女性のホールス・マネジャーが、こんなことを言いました。
『水着をセックスを使わないで売ることはできないかしら』
コール社長もやはり少し気になったようで、ほかのやり方はないと聞いてきました。
『もちろん違ったものもできます。が、私たちはするつもりはありません。私たちはこれでいいと思いますから。これについてどこが悪いかを指摘できないのですから、私たちから何かほかのものを引きだそうとしてもムダですよ。この水着について私たちがよくないことを言ったのなら変えますが、ビジュアルな面でもネーミングにも悪いところはないのですからね』
8時半ごろまで議論してしまいましたが、彼はついにOKしました。その広告は、コール始まって以来最高の成功をもたらし、あとでコール社長がいいました。
『まあ、セックスも悪くないようだな』と。
私たちが正しいと思った時にとる態度はこんなふうです」(つづく