創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(525)デーン氏、DDBの歴史を語る(連結版・英文つき)

A Conversation
with
Mac Dane






DDB経営担当重役 マック・デーン氏
注:1971年に引退




DDB創業20周年記念の『DDBニュース』1969年6月号に載ったインタヴューを、ご本人の許可を得て、拙編『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1970.11.10)に翻訳・転載したものです。
原文が資料庫から出てきたために、添えて再アップ。


デーン氏は、DDBの真ん中の「D」……つまり、創業者の一人です。デーン氏とバーンバック氏はユダヤ系、ドイル氏はスコットランド系の米国人でした。


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DDB創業の理想


「創業から20年たちましたが、ご感想は?」


デーン「いまだに仕事をしていられるということです。とにかく、創業時には、先にどんなことが待ちかまえているか、皆目わかりませんでしたから…。こんなに成功するとは、3人とも予想していませんでした」


「当時の新興代理店の倒産率は?」


デーン「時には、知らないということが救いになるものですね。本当のところ信頼のおける統計はないのじゃないかな。
1人や2人の人が寄り合って代理店業に入って行くケースもたくさんあり、しかもそれ以上の規模にならない例も多いのですから。
私も、ドイル(D)とバーンバック(B)と組む前に、小さな代理店を持っていました。8〜10人ぐらいの規模でした。私は、社長兼新規クライアント担当兼コピーチーフ兼アートディレクター兼メディア・ディレクター兼トラプル・シューター兼その他いろいろ…でした。
まったくひどい生き方でしたよ。病気になる暇もなかったですからね」


「ドイルさんとバーンバックさんと組むようになった時、今までとは違った代理店になると思われましたか?」


デーン「回答不可能ですね。私たちには、幾つかの目標がありました。
ドイルと私は、それ以前の数年間『ルック』誌で一緒に働いてすでに旧知の間柄でしたが、ビル・バーンバックとは、ネッド・ドイルの紹介で知り合ったばかりでしたからね。
でも、ビルはきっとこの代理店に新しいクリエイティブの才をもたらしてくれると信じてしました。
もちろん、彼がそれまでにやっていたオーバックス(衣料中心の百貨店)の広告とはおなじみでしたがね」


「でも、DDBはクリエイティブな代理店になるとお考えになったのですね? 理想だったんでしょう?」


デーン「うーん、そんなに単純なものではなかったのですよ。もちろん、できるかぎり最高のクリエイティブな仕事をするつもりでした。
クリエイティブ・チームは、まず、ビル・バーンバック、ボブ・ゲイジ、フィリス・ロビンソンという、それまで私をすごく魅了した人たちで始めました。
しかし当時は、代理店をクリエイティブとか、マーチャンダイジングとか、リサーチ代理店といったふうにレッテルをはる習慣はありませんでしたからね。
どの代理店も全部の仕事をしていて、いちばんの違いといえば規模でした。大きいの、小さいの……という」

クリエイティブな代理店の首脳陣


「しかし、DDBが成功して、クリエイティビティというのがマジソン街の合言葉になると、クリエイティブ代理店というのが輩出してきて、それもほとんどが2人ないし3人のクリエイティブ・マンによって開設されるようになりました。
でも、私が思うには、クリエイティブな代理店をうまくやっていくには、強烈な創造哲学を持った一人のクリエイティブ・マン、アカウント・サービスを受け持つ人が一人、財務および管理面を受け持つ人が一人というように、3人がトップに立ってやるのがより賢明なやり方だと思いのですが、なぜみんなこの点をミスっているのでしよう?」


デーン「だれもかれもがミスっているとは思いません。時には、そのほうが幸運でもあり、調和をもたらすこともありますからね。
私も最初から財務および管理の『才人』としてやってきたわけではないのです。
最初はずうずうしく2役をやってのけなければなりませんでした。

だって、スタッフが全部で13人しかいないのに、だれが管理者だという必要がありましょう。
全員の仕事の一部に、新規クライアント獲得と、人件費の上昇を抑えるために一人々々ができるだけ多くの仕事をこなして行く必要があったわけです。あんなに安く働ける人たちは、ほかにいなかったでしょう。

バーンバックとその部下がクリエイティブ作業をやっている間に、残りの者は、新規クライアント獲得と数少ない手持ちのアカウントにサービスすることに時間を費やしました。
管理者、財務面の専門家、パート・タイムのPRマンの仕事が発生したのは、DDBが大きくなったずっと後のことでした。
私はかって、コピーライター兼アカウント・エグゼクティブとして生計を立てていたのですが、その資格信任状もあやしいものでした」


「立派な先見の明があったわけじゃないとおっとゃるのですか? 私の仮説も形なしですね」


デーン「そうですよ。ワンマン代理店を開始するには、私はよろず屋でなければならず、クリエイティブ・マン、アカウント・マン、サービス・マンすべての問題を理解しなければなりませんでした
自分たちが働きたいと願うような代理店にすることが、目標の一つだったのです」

DDBコングロマリットになるか?


「最近DDBは会社を買収していますが、DDBコングロマリットにするつもりですか?」


デーン「そんなつもりはありません。わが社のマーケティング技術を増すことができると思われるビジネスに、時に応じて投資しているのであって、財務的に『ホィーラー・ディーラー』にするつもりはありません」


問い「創業するにあたってDDBをご自身が働きたいと願うような代理店にしたかったとおっしゃいましたが、それがこれまでずっときた根本的な哲学だという意味ですか?」


デーン「なにものにもかえて根本的なことだという意味です。信念を6語かそこらで表現することは不可能です。信念は行動から形成されるものであって、方針論議からくるものではありません」

「株式を公開することで、ご自身の仕事の性格は変わりましたか?」


デーン「もちろん変わりました。株式公開に伴う諸問題、SEC(証券取引委員会)、代理店業というものに全く無知なウォール街証券アナリストたちの意見など、とても勉強になりました。
彼らの第一の反応は、クライアントと従業員の変動が激しすぎるということでした。
私は彼らに一流代理店の図表を見せなければなりませんした。

たしかにクライアントを失うということもあるのです。
が、アカウントが完全に姿をくらませてしまうということはめったにないのです。
大代理店は、この20〜25年間というもの、国の経済成長率よりも速く成長してきているのです。

もし、その代理店がある商品のアカウントを失っても、すぐれた仕事さえしていれば、遅かれ早かれ同じ業界のほかのクライアントが飛びこんでくるのです。それも早ければ早いほどよろしい」

「それでは、株式の公開ということが、経営ぶり、雰囲気、その他でDDBにもたらした変化は?」


デーン「雰囲気とかクリエイティビティに関しては、なんの変化もありませんでした。
でも、すごく気をつかいましたがね。
つまり、目にあまる浪費をなくするという点で……。



広告代理店やサービス業を、全然浪費なしに能率的にやるというのはできない相談です。
とはいえ、ズサンなやり方もできません。
利益配分にあずかる従業員や株主に対する責任と義務がありますからね。
そして同時に、私たちのクライアントに対する義務があるわけですから…」

DDBは官僚化しつつある?


「ニューヨーク・タイムズ紙に載ったヘルムート・クローンのインタヴューで、彼がもしこのままDDBにとどまれば、その所有しているDDB株は、4〜5年後には100万ドルの価値になるだろうという記事を読んで、みんなうっとりしてましたが、ご意見は?」


デーン「あの数字がどこから出たものなのか、ヘルムートに尋ねてみましたが、あれは、彼のDDBの将来に対する絶大な忠誠心からきており、株価がいつかは高騰するということのようですよ」

chuukyuu注】VWビートル、エイビスなどのキャンペーンのアートディレクターとして名声をえたヘルムート・クローン氏は、1969年にコピーライターのジーン・ケイス氏とケイス・クローン広告代理店を設立。しかしクローン氏は3年後にカム・バック。クローン氏のDDB株の所有数は入社が遅れていたために3,800株であった。

問い「同じインタヴューの中で、ジーン・ケイスとヘルムートが官僚なしの会社を持ちたいというようなことを述べていましたが、あなたご自身は自分のことをDDBにおける官僚だとお考えですか?」


デーン「とんでもない。われわれは常に門戸開放政策を採ってきました。人びとはほとんどあるいはまったくアポイントメントなしでスーパバイザーあるいは重役に面会することができます。
われわれは彼らの欲求や要求にも配慮するようにしており、特別の問題がある場合には、ルール・ブックどおりにすることすら避けます」


「このビルは、魅力ある広告代理店の社屋としてはふさわしくないと思いますが、どうやってここを発見し、かつまた依然としてDDBはここにいすわっているのでしょう?」


デーンDDBが魅力的な代理店なんて呼ばれたのは初めてです。うがったその言い回しは別にしても、われわれが下してきた決定は、もっともスマートなものの一つでした。

このビルへ移ってきたのは15年前で、26階の北側の部分8,000平方フィートを借りました。
現在はほとんど近接している22万5,000〜25万平方フィートを借りています。
こんなふうに拡張できるビルはないでしょうね。ここの家主は、借用契約が切れるようなスペースがでると、一切を彼の責任で、まず、DDBへ声をかけてくれるので、われわれはまず、その階に足がかりをつけ、それからしばらくして数百平方フィートを得、そして1、2年後には(DDBがそのスペースを必要とした場合)その階全体を占めてしまうことができるのです。

このビルには都合の悪い点がすごく多いことは認めますが、DDBがこれまでに成長してくる間、このビルが与えてくれた最大の柔軟性は、何がよいかといえば、われわれが最小限度の妨害しかない状態で働くことができるように、測りがたいほどの協力をしてくれていることです。

そして、われわれよりももっと成功している代理店も、ずっと長い間、同じ場所にいるということも指摘したいのです。
J・W・トンプソンも依然としてレキンシトン街420にいます。BBDOもマジソン街383にいますし、ヤング&ルビカムもマジソン街285にいます。
みんな、長い長い間、そこにとどまっているのです。大きな代理店が引っ越すには、莫大な費用がかかり、兵站線の面の問題もいっぱい含まれています。
DDBの家賃は、売り上げに比してすごく少ないという事実も気に入ってます。新しいところへ引っ越し、その家賃のために50〜100%以上もの負担が増えれば、どこかでその埋め合わせをしなければなりません。そうてどしょう?」


「25階を改装し終わり、24階も改装中ということは知ってますが、中にはむき出しのラジエイターにさらされている様子に耐えられないといって、DDBをやめていった女性コピーライターもいますよ」


デーン「私だって、ラジエイターにさらされている彼女を見るのは好きじゃありませんでしたよ」