創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-14 DDBでは、お金は第二の問題

それでは、DDBは金銭勘定を無視していたのか、ということになるわけですが、そこのところを、ゲイジ氏はこう説明しています。

「便宜主義は、仕事を破壊することもあります。DDBでは、お金は第二の問題です。すぐれた作品をつくるのが第一です」
「すぐれた仕事をすれば、お金は自然についてくる。ほかの方法では、それはできません」

確かにゲイジ氏のいうとおりでしょうし、彼のこうした考え方が、DDBを「理想に殉ずる」タイプの会社に仕立てて行ったといえるでしょう。
バーンバック氏自身も、
「じつをいえば、あるひじょうに大きな見込み客がこんなことをいったことがありました。
『もし、この大きなロゴをここへおいてくれと私がいったら、ビル、君はなんというかな?』
この答えには1,000万ドル以上がかかっていましたが、私は答えました。
『どうやら、私たちはあなたにはむかない代理店のようですねといいます』

長い目でみると、これがひじょうに健康的な代理店を」つくりあげてきたのではないかと私は思います。
なぜなら私たちは自分の見解を守り通してきたからです。

これが私たちに、自分がほんとうに正しいと信じるクリエイティブ・ワークだけをさせ、あの15%の手数料のために才能を安売りさせなかったのです。

なぜなら長いあいだにはクライアントは、あなたに、自分がどうしろといったのかは忘れてしまうからです。彼が憶えているのは、それが効果があったかどうかということだけです」(注:東京コピーライターズクラブ編『5人の広告作家』誠文堂新光社刊)
と、自分たちの見解を守ることのほうを、金銭よりも優位に置いています。

しかし、ゲイジ氏がいうように、DDB設立の定義を「結果に関係なく、私たちの代理店が信じ、そして、喜んで擁護者となりうる視点をとること」であったとして、そのような考え方が、当時のアメリカの社会で受け入れられたのでしょうか?

また、彼らは、彼らの考え方が成功すると予想していたのでしょうか?