創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(783)『アメリカのユダヤ人』を読む(28)

 

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もちろんユダヤ人ビジネスの典型は衣料産業である。


この産業はユダヤ人にとっていろいろな利点を一時に提供してくれるので、最
初から移民をひきつけた。
量産時代にはいろうとしていた19世紀末には小工場がいっぱいあり、強力な
独占勢力は皆無だった。
この産業は技術のない労働者を大勢雇っていた。
一度もミシンを目にしたことのない者でも数週間でミシンが使えるようになれた。
小金が貯まると店を出すこともできた。
運がよければ、一夜にして大儲けもできた。
当時のこの業界は非常に流動的で、どこからともなく小会社が出現し、数力月あ
るいは数年で破産していった。
しかしこうした夜逃げ専門の大立者の一部、商才にたけた者、幸運者は、もちこ
たえて大きくなり、巨富を築きあげていった。


 こうした初期の頃の影響は今日の統計にもはっきりとした影を投げかけている。
いろんな大都市での各種調査を統合してみると、ユダヤアメリカ人のほぼ50%
が卸か小売業に従事している。
白人全体でこういう商売をやってるのはわずかに28%である。(注6)
ユダヤアメリカ人の73%はなにがしかのホワイトカラーである。
カソリックの場合は33%が、プロテスタントは43%である。
ユダヤ人全体の48%は自営業である。
自営業の全国平均は約10%で、白人プロテスタントは19%でしかない。
しかしニュ−ヨーク市はちょっと異なり、技術者、技術のない労働者、事務員、販
売員などにユダヤ人が多い。
同市のペンキ塗り、鉛管工、電気技師にもユダヤ人は多い。
例えばブルックリン鉛管工組合はユダヤ人が80%を占めている。
またニューヨークには2,800人のユダヤ系の警官がおり、消防夫は約600人い
る。
そしてユダヤ系ウェイターの数にいたっては誰も統計をとったことがないほどである。
彼らは技術を持たない労働者としては、アメリカで一番たくさんの金を貰っているだ
ろう。
だがニューヨークでも小さな商売の経営主になったり、知的職業についたりする傾向
ユダヤ人のほうがはるかに高い。


 もちろんユダヤ人が入りにくい商売や職業も多い。
銀行のユダヤ人重役は多いが、銀行所有者はまれである。
衣料産業にユダヤ人が幅をきかせているとはいえ、繊維メーカー、特に化繊メーカー
のほとんどが異教徒である。
デトロイトにはユダヤ人の自動車王は一人もいない。
中西部の中心産業……農耕機械分野にもユダヤ人は少ないし、農場主も少ない。
大企業は数年来、研究部門とか技術部門に多くのユダヤ人を雇ってきたが、管理部門
への起用は始めたばかりである。
不動産業に多いユダヤ人も、建築界にはほとんどいない。
ユダヤ人の保険勧誘員は多いが、保険会社の重役にはほとんどいない。
これには歴史的偶然が共通の要因になっている。
ユダヤ人にやっと門戸を開放しはじめたどの商売でもユダヤ人は受け入れられている。


 アメリカのビジネス界でこういった活躍をしているユダヤ人はどのくらい稼いでい
るのだろう? 
信頼できる統計はほとんどない。
しかし最も教育のある人たちが、ユダヤアメリカ人は金銭面で非常にうまくやって
はいるが、ある種の制限があると言っている。
デトロイトでの数年前の調査では、ユダヤ人の平均年収は6,000ドルでプロ
テスタントは4,800ドル、カソリックが4,650ドルであった(特別の問題をか
かえているので別対象にされた黒人の場合は3,500ドルであった)(注7)
しかし、この調査と他の調査を総合してみると、ユダヤ人は最高級の収入を得ていな
いということがはっきりする。
かなり稼いでいるユダヤ人は多いが、「本当の」金はユダヤ人のものではない。
つまり本当の権力もユダヤ人のものでないということになる。


 貧しいままのユダヤ人はほとんどいない。
福祉施設を忙しがらせるだけの人数はいるが年々減少している。
貧しいユダヤ人のほとんどは、安い年金と社会保障にあえぐ老人、昇進できずにイン
フレに泣く事務員、父親が病気で働けない家庭などである。
ニューヨークの福祉施設ユダヤ人幹部たちと話したが、貧困救済対象になるほど低
収入のユダヤ人に会ったことのある幹部はいなかった。


 そんなわけで、ユダヤ人ビジネスマンも、ユダヤ人知的職業人と同じくらいアメリ
カで成功しているようである。
タクリスの伝統はモーゼ五書の伝統と同じくらい強く残っている。


 アメリカの異教徒グループではビジネスマンが多く、知的職業人は少ない。
知的職業人の比率がユダヤ人の間ではいくぶん高いということを除けば、ユダヤ人も
他の人々とそんなに異なっているようには見えない。
だが違いはある。
ユダヤ人社会のビジネスマンと知的職業人の間には多義にとれる特別の関係があるこ
とである。


 シュテットルの古い子守歌の中にこんな文句がある。
「勉強しましょうね、モーゼ五書(トラ)、モーゼ五書は最高の商品……」
ユダヤ教の神聖なる基礎、創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記この文句が何を意味してるかはわからない。
モーゼ五書は商品として利用できるし、その知識のおかげで金持ちの妻をめとり共同
体で名誉職につくことができるから、モーゼ五書を勉強するようにと言うのだろうか?
それともモーゼ五書が世俗的な商品よりも水準も高く純粋ですぐれているからだろう
か? 
どちらにも一理ある。
この子守歌もユダヤ人の姿勢のように多義的なのである。
モーゼ五書とタクリスは両方とも(たとえたがいに相いれないものであっても)尊重
されている。
ユダヤ人共同体内や各ユダヤ人の内部に、つねに葛藤をもたらす人生の二つの異なった
見解を表わしている。
(タクリス 慎重、リアリズムとか、詩よりも散文のほうを愛する心……とでも訳せようか)

シュテットルではどちらが優先されるかという点に関しては何の疑問もなかった。
人びとは学者の実生活に対する無知を憐れみ、かげで冷笑してはいたが、モーゼ
五書を知っている学者は最高の尊敬を得ていた。
しかし渡来した移民はこれらの二つの価値観が混同されやすい社会にぶつかった
のである。
アメリカでも学問は必ずしも拒絶されはしなかったし、故国同様、教育は重視さ
れていたが、教育の目的は精神的なものというより世俗的なものに近かった。
神の栄光のためではなく出世のために本を読み、学び、知識を身につけていた。
アメリカのこの姿勢はシュテットルのそれに近く、移民たちのタクリスに訴えて
平静さを失わせるだけのものがあった。
今日でもアメリカのユダヤ人はこの内なる葛藤を完全に克服しきっていない。


 このため昔の子守歌の「モーゼ五書は最高の商品……」という言葉はいまだに
ビジネスマンの心につきまとっている。
アメリカの典型的な金儲け主義者の全特徴を備えていることを誇りとするものす
ごい物質主義者がそれである。
太い葉巻、運転手つきキャデラック、マイアミビーチでの毎年の休暇などで成功
ぶりをひけらかしている――一世代若い層は、パイプ、ジャガー、毎年のカリブ
海や南フランスでの休暇でそれを表現している。
こうした「地位の象徴」を買うためなら無情であることもいとわない。
衣料業界に「安易な取り引きはしない」という諺がある。
ユダヤ人ビジネスマンはこうしたひどい(不公平な)取り引きを当たり前のこと
と思っている。
そして自分がその犠牲となっても立腹しはしない。


 「ビジネスさ」と割りきる。
そして自分自身を守るためには他人を疑ってかかる姿勢をとる。
数年前中西部のある銀行が初めてユダヤ人を副社長に登用した時、金を引き出し
てしまったのは同行で最高のユダヤ人預金者だけ
だった。
「奴に私のビジネスを知られたくないので」と言ったものである。


 しかしこのユダヤ人ビジネスマンの非情さは同一人物のものとは思えない矛盾
した特徴で弱められている。
例えばほとんどの衣料製造業者は商品の質に心から誇りを感じている。
彼らは業界の功績、つまりアメリカ女性に世界最低の価格で最高の衣裳を提供し
てきたことを十分認識している。
たしかに彼らは競争相手をペテンにかけ、従業員を食いものにしているかもしれ
ないが、品質では欺かない。
同様にユダヤ人ビジネスマンの金離れのよさは格別だが、金銭追求の姿勢も失わ
ない。
彼らの寄付ぶりについては述べた。だが自分の寄付額を家族や妻の実家など運の
悪い人に知らせることも少ない。
程度の差はあれ、ユダヤ人の会社にも貧しい使用人がいないはずはないのだが…
…。


 ユダヤ人ビジネスマンにはもう一つ矛盾した面がある。
成功できたのは、たしかに独立心、つむじ曲がり、他人の指図を受けたくないとい
う心があったからだという気持ちとともに、月並みに尊敬されたい、威厳を持ちた
い、「階層」にはいりたいという切望もある。
こうした両推進力間の葛藤は同じビジネスにはいることになった息子への態度に現
われている。
「息子はわしのようにすべてを独力でやる必要がない」と軽蔑する。
この息子がいつかは自分にとって代わってくれることを期待するのだが、息子に責
任を譲るまいとして懸命に戦う。
しかし大学教育を受けた息子には誇り、いや畏敬すら感じている。
あるタクシー会社の社長は、業界の年次総会でも最も喜ばしく思うことは、父親の
仕事にはいった息子たちを見ることだと語った。
「彼らが立って演説をするさまはIとても流暢で知的です! もちろんたいてい非
実用的なたわごとをしゃべりますが、傾聴してやるのは喜ばしい経験ですよ!」


息子たちは父親とは違っている。
独立性を軽視し、自分が尊敬に値することは当然と考えている。
父親よりも物柔らかな外見の下に非情さを隠してはいるが、内心葛藤も持っている
のである。
彼らもきつい取り引きをし、ユダヤ人アピールヘ寄付する――そしてピカソの複製
画を飾ったりして事務所をハイブローな感じにするように配慮している。
たしかに父親よりは葛藤源から離れてはいるが、なくすることはできない。


 この葛藤が老若に関係なくユダヤ人ピジネスマンの心にユダヤ人知識人に対する
好悪両感情を抱かせている。
一方では知識人は敵で愚者で役立たずだが、反面、正しい考えを持つ人で神の言葉
を成し遂げているかも知れない人なのである。
知識人のところで完全にくつろぐことができるユダヤ人ピジネスマンはまずいない。
常に裁かれているように感じる。
しかし実は知識人にではなく、自分自身に裁かれているのである。


 この不安は奇妙な行動となって現われる。
西海岸のある映画会社の重役は『バラエティ』(芸能専門誌)に、
彼のスタジオでは「芸術作品気取りの映画」をつくる意思はまったくないと発表した。
興業的に引き合わなければ、受賞したり評判がよくても仕方がないというのである。
一方、この重役はカリフォルニア大学のチェーホフイプセン公演には定期的に足を運
び、ハリウッドにストラビンスキーやハイフェッツやヘンリー・ミラーが住んでいること
を話したがる。
ユダヤ人の映画製作者は絵画蒐集家としても名高く、ロサンゼルス美術館に最高の寄付
もしているのに、自分たちが創造する芸術にはほとんど尊敬の念を抱かず、ハリウッド
の名作保存のための映画博物館も設立しないのは妙な話である。


 ニューヨークの衣料製造業者協会の理事でもある著名な画家アレックス・リダインも、
いっしょに働いているビジネスマン仲間にこれと似た態度を示されたことがあるという。
芸術家である彼のことを仲間は変人扱いする。
「アレックス、どうしてそんなことをしてるんだ暇にい? 余暇にはラミーでもしたら
いいじゃないか」と言う。
彼は最近、絵を描くために休暇をとってフロリダに行った。
ある衣料製造業者が自分が会員に
なっているマイアミビーチのゴルフクラブを休暇中無料で使用できるようにはからおう
と申し出た。
リダインが断わると、相手は当惑して「君はマイアミビーチまで行って、ゴルフをしな
いでいられるのか? 絵を描くならニューヨークでも描けるじゃないか!」
当惑してはいるものの、彼を雇っているビジネスマンたちはリダインが芸術家であるこ
とを喜んでおり、会議に彼がグレーの背広で現われるよりも、派手なシャツにノーネク
タイで芸術家風にしてくるほうを好む。
変わり者でも「自分たちの芸術家」なのである。


 一人の息子が自分と同じ業界にいて、もう一人の息子がビレッジに住んで絵や本を書
いているピジネスマンにも同様のことが言える。
表面的には芸術家の息子を「あの気違い息子」と言っているが、内心誇りと賞讃が渦ま
いている。
息子はクレージーでたいした金は稼いでいないが、すぐれたユダヤ青年にはそういう生
活がぴったりだというわけである。


 もちろん芸術家の息子がビジネスマンに理解できるほどの成功――ペストセラーを書
いたり、絵が法外な値で売れる――をすれば父親はその誇りを隠そうとはしない。
その性格の二面性はもはや戦いを必要としない。
両手に花というわけである。


 この相対立する二つの感情は必然的に別の章で述べた現象にある種の疑問を投げかけ
る。
ユダヤアメリカ人ほど芸術に興味を示す民族はいないだろうし、教育をこれほど重視
する民族がいないのも確かだが、これにはタクリスがどの程度混入しているかと考えざ
るを得ない。
ビジネスマンが絵を買うのは芸術を愛するからか、友人に見せびらかしてすぱらしい投
資をしたと思われたいためか? 
ユダヤ人の母親が息子に勉強を強制するのは、知識人をすばらしいと信じているからか、
息子が有名大学に入らないと恥ずかしいからか? 
アメリカのユダヤ人は読みたいと思う本を買うのか、それとも「みんなが読んでいる本」
を買うのか? いまでもユダヤ人は本の虫だろうか、それとも「今月のベストセラー」の
虫になってしまったのだろうか?


 どの場合も矛盾した二つの動機を解きほぐすのはかなりむずかしいので、明確な答えは
得られない。
例えば大金持ちのジョセフ・ハーシュホーンは有数の美術品蒐集家である。
ローアー・イーストサイドの貧しい教育のない家庭で育ったが、巨万の富を築きあげたいま
では近代絵画と彫刻の世界最大の蒐集家となった。
正式な美術教育は受けておらず、彼が『ブーゲラウス』や『ランドシーアーズ』 (どちらも美術誌)を買
うことから始めたのはたまたま子供の頃にカレンダーで見たからであった。
ある本を読んで、美術品蒐集がアメリカの大富豪に最も好まれる趣味だと知って、本格的に
この道に入った。
一人の画家の絵が気にいると衣料製造業者が繊維を仕入れるように大量に買いこみ割り引き
を要求する。
ハーシュホーンは一見したところ見せびらかすためにだけ美術品を蒐集する無学な人の極め
つきの典型に見える。


 だがハーシュホーンが本当にそういう人物だとしたら、見せびらかすためのものをほかに
も集めないのは変な話である。
ヨット、競争馬、宝石、別荘、自動車などの地位の象徴的典型物は彼の興味をひかない。
そして美術品を買いあさる彼の執拗さに眉をしかめる人は、彼には少年が芸術家になりたい
と願う憧れにも似た気持ちがあることも認めている。
「すばらしい芸術家たちだ。金のことなんか意に介していない。あるのは仕事、作品のこと
だけだ!」と彼は言う。(注8)
 金のことが意中にない人間を賞讃する大金持ちとはどういう人間なのだろう? 
金のことを意に介さない人間を軽蔑するのもユダヤ人の大金持ちである。


ユダヤ人の知的職業人の場合、タクリスとモーゼ五書の葛藤はもっとも苦痛に満ちたもので、
複雑な様相を見せている。
ビジネスマンはタクリスにしたがって生きるが、モーゼ五書にしたがって生きるべきではな
いという考えにも自信はない。
彼らには劣等感があるが、それは敵(知識人)に時たまみせる和解のジェスチャーでいやさ
れる。
知識人のほうはモーゼ五書にしたがって生きるが、タクリスにしたがって生きたい強い誘惑
にかられている。


 知識人は強度の真面目さと熱烈さを伴う知的生活に自らを投げこむことでこの感情をしず
めようとする。
知的生活はすべての時間と精力を吸いつくす。
常に話し、書き、論旨を徹底させ続ける。
そう、彼はたしかに知識人である。
だが夜も昼も働かなければならないのはなぜか?
「研究」しなければならないからである。
シュテットルの知識人もそうであった。
イェシバの青年は肉屋や小売商よりも長時間働いた。
彼らの精神生活に、厳しく不断の、しかも目に見える仕事が伴わなければ、知識人はのらくら
と時間を浪費している、愚にもつかない非実用的なことばかりしていると責めたてられるかも
知れなかった。
非難するのは第一に父親であり、第二に何千年もの伝統が重々しくのしかかっているユダヤ
共同体であり、最後は自分の良心であった。
ユダヤ人知識人はほかのことはともあれ、木の下に寝そべって考えにふけることだけはしなか
った。
    

 そして知識人にとって、知性は単なる道具というより武器でもあるぺきである。
単に世界がどうなっているかを発見するためや、何か美しいものを創造するためや、自分の考
えを伝達するためだけに知性を使うのではない。
競争相手を打ち負かすため、優越性を立証するために利用しなければならないのである。
論争は知的活動から切り離せないものである。
パーティに出席している彼らを見るがよい。
自分より劣った知識人を片隅に追いやる時のあの勝ち誇った表情を見るがよい。
執念深くて、社会的なマナーも人間的な同情心も攻撃力を柔らげることはできない。
この特徴をもっと安全な距離から観察したければ、編集者への手紙欄に載っている彼らの手紙
を読むがいい。
コメンタリー誌から最も無名なイディッシュ語週刊誌にいたるまでのすべてのユダヤ人関係の
刊行物のこの種の欄では毒舌にいやというほどお目にかかれる。
衣料製造業者である父に似て、子のユダヤ人知識人も安易な取引きをしない。


 彼らは何よりも自分の「重要性」に関心がある。
だから常に深遠な話題を持っている必要がある。
重要声明をすることにかけてユダヤ人知識人の右に出る者はいない。
コメンタリー誌1961年のシンポジウム『ユダヤ人らしさと若い知識人』で
は、フロイドとアインシュタインを彼らの文化的英雄としてあげた者が多かっ
た。
彼らの複雑好きをよく表わしている。
アインシュタインを称讃した人で、その業績を正確に理解できる数学的知識の
持主はまずいまい。
アインシュタイン相対性理論を理解できるのは一つかみの人間だけ」とい
う神話にひかれたのである。
フロイドは、人間の心は不可解で心底に触れることはできない、いかなる行為
……ちょっとした舌のすべりにも深い意味があることを示した。
これはユダヤ人知識人にとって理想的な哲学である。


 彼らにユーモアのセンスがないわけではない。
特有のユーモアーセンスがある。
警戒心を解いた時は、ビジネスマンの父親と同じくらい暖かみのあるユダヤ
独特のジョークをとばして楽しむ。
しかし知的にならなけれ
ばならない場ではユーモア・センスを恥じている。
コミックな才能が必要とされる時ですら、意味ありげに言わなければならないよ
うな気になる――少なくとも自分ではそうしているつもりでいる。
ブロードウェイで大成功しているエイブ・ビュローズはコメディ作家と呼ばれたり、
なぜシリアスな作品を書かないのかと聞かれると、いらだつ。
「私はシリアスなつもりですよ」と大学生のグループに答えた。
「私の書くものにはすべてシリアスな目的があるのです。
ただ私の手法が滑稽なだけです」(注9)
独特で奇怪なユーモアの才に恵まれたブルース・ジェイ・フリードマンは「徹底した
論理」を持った警句に富んだ短編を書きあげなければ……とつねづね思っている。
だが幸運なことに小説ではまだこの誘惑に負けていない。


 題材と同様に手法もシリアスでなければならないという強迫観念がユダヤ人知識
人の散文スタイルに悲惨な影を落としている。
仰々しさである。
長い言葉、からまった文章、重々しい調子が特徴である。
補聴器を考案したある若いユダヤ人がこんな寸評をニューヨーク・ポスト紙に寄せた。
「誰かが人間の耳の有用性を極度に重要視しようと試みたという形跡はほとんどない
ことが調査の結果判明した」(注10)


 ライオネル・トリリング(批評家)はコメソタリー誌に
1930年代をこう評価した。
「この10年は過去のさほど変わりのない単なる一部とみなされたことはなく、今日
では正真正銘の一時代、あるいは一時期、初めと中間と終わりのある一存在、そして
その出来事の識別しうる論理に適切な一スタイルとして神聖視されようとしている」(注11)


ユダヤ人批評家――トリリング、フィリップ・ラーブ(大学教授)
レオン・エデルなどが――ヘンリー・シェーク(小説家)リバイバルの先頭に立つたのは偶然ではない。
エレガントで古い反ユダヤ主義に当然の報いを行なっているのかも知れない。


 しかし創造的なユダヤ人作家も科学者や批評家と同様、仰々しさをもたらし
た共犯者である。
次の文章はソール・べローの小説『その日をつかめ』から引用したものである。



「涙でかすんだウィルヘルムの目の中で、花と光が恍惚と重なった。激浪の
ような音楽が彼の耳に達した。音楽は、涙のもたらす深遠で幸福な忘却にか
まけて群集の中に身を隠している彼の中へ流れこんんだ。心が求める極限に
向かって激しいすすり泣きをしつつ、彼はその音楽を聞き、深い深い悲しみ
に沈んでいった」(注12)


アメリカのユダヤ人文学を詳細に分析したアービング・マリンの『ユダヤ人と
アメリカ人』が、この文はのびのびとしており抽象的ではないと述べているの
が面白い。(注13) 
ユダヤ人作家は抽象に走りやすい。
彼らが小説家よりも批評家としてすぐれているのはこのためである。
小説家の手腕は、無軌道で自由で小説のテーマや哲学の束縛を破って自分自身
の人生を歩むことを許される作中人物を創造するところに発揮される。
トルストイドストエフスキーも、ディケンズサッカレーも、宗教やナショ
ナリズムや社会改革について強い信念を持っており、それを作品中に大胆に表
現したが、彼らは生まれながらにして小説家であり、作中人物は作家の信念を
超越し、不敬で、時には作家の信念に矛盾するような行動をとっている。
この特質にはどこか根本的にシリアスでないところがあり、陽気さか大胆さ
を意義深さと同じように重視している。
これはアメリカのユダヤ人知識人の性質と相いれない特質である。


 数年前ソール・べローは、作家は考える人でなければならないと講演した。
ルフレッド・カジンはコメンタリー誌で、現代のユダヤ人の小説は「知性味」
があると称讃した。(注14)
それと逆にブルース・ジェイ・フリードマンは「全然知性味がない」と言って著
名なユダヤ人批評家に批判された。
私にはこの「考える」ことを強制する姿勢が今日のユダヤ人の多くの小説をだ
めにしているように思えてならない。
あまりに理論に走る小説家は生き生きした作中人物を創造できないかわりに緻
密な青写真をつくり出す。
ユダヤ人とアメリカ人』でアービング・マリンは、バーナード・マラマッドが
「作中人物を巧みに象徴的なイメージに変えている」とほめている。(注15)

この評言がマラマッドにぴったりだろうとなかろうと、奇妙なお世辞とだけは
言える。
小説を成功させる作中人物とは「巧妙に扱われた」人物だとユダヤ人知識人に
思わせかねない。


 もちろんこれが意味するものは、ユダヤ人知識人の人生に対する接し方が自然
さに欠け、常に圧迫感を伴うということにほかならない。
彼は経験を積むだけでなく、観察し分析しなければならない。
物自体の代わりにそれに当てはまる言葉を代用する危険に常にさらされている。
そして誰よりも知識人自身がそのことに気づいている。
経験に参加するより、経験を分析すべきだというのがユダヤ人文学の一つの主題
となっている。
過去10年間に、心の底から感動にひたることのできないくそ真面目な知識人を
主人公にしたいくつもの小説がユダヤ人作家によってつくり出された。
ベローの『ハーツォグ』、フリードマンの『スターソ』、マークフイールドの
『近い死をひかえて』、ロスの『恣意のままに』、ウォラットの『月花の居住者』
などが比較的よく知られた例である。
これらの小説が成功したのは、この国にはユダヤ人自身の既往症を読むことにしか
興味のないユダヤ人知識人が多いからであろう。


 こういった作家たちに才能、誠実さ、道徳力があることは確かである。
だが、それらの特質が根本的な弱点をさらに拡大してしまっている。
このような才能を持った人が、自分たちの重要性の立証や、知識人と呼ばれるだけ
の資格を備えているごとの立証だけに夢中になっているのは悲しい。
モーゼ五書とタクリスの葛藤やビジネスマンと知識人との闘争が生みだした悲劇で
これほど深刻な例はかつてなかった。


 そしてこの闘争のゆくえはわからない。
どちらが勝つかまだはっきりしていない。
個々のユダヤ人の魂に敵がどのくらい深く巣くっているかわからないのだから、勝
負がつくはずがない。


注1  William Dean Howells, "The Editor's Easychair,"Harper's, 1915.
 2  The New York Times, August 24, 1966.
 3  The American Jewish Yearbook, 1964.
 4  The Jewish Teenagers of Wilkes-Barre, a study in 1965 by AJC.
 5  New York Federation-report on hospitals and philanthropy, March 25, 1960.
 6  Ben B. Seligman, "Some Aspects of Jewis Demography," in The Jew: Social Patterns of
    an AmericanGroup, New York, The Free Press, 1958.
 7  Ibid.
 8  Quoted by"'Vivien Raynor, "Four Thousan Paintings and Sculptures," The New York Times
    Magazine, November 27, 1966.
 9  Abe Burrows, quoted in the New York Post, December 28, 1965.
 10  Interview with Sanford Greenberg, the New York Post, May 24, 1967.
 11  Lionel Trilling, "Young in the Thirties," Commentary, May, 1966.
 12  Saul Bellow, Seize the Day, New York, Viking, 1961.
 13  Irving Malin, Jews and Americans, Carbondale, University of Southern Illinois Press, 1965.
 14  Alfred Kazih, "The Jew as Modern Writer," Commentary, April, 1966.
 16  Malin, op. cit.