創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(782)アメリカのユダヤ人』を読む(27)

 

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 ユダヤ人は他の民族より賢いと言われる。
だが、このお世辞にユダヤ人は反ユダヤ主義的臭みがあると感じる。
ユダヤ人が賢いと言う人は、その実、不公平な長所があると非難しているので
はないのかと疑うのである。
疑うのが当然と思えるふしもないではない。
歴代の偏屈者がユダヤ人の優秀性を理由に迫害してきたからである。


 そこでユダヤ人はこの非難を否定する方法を見つけている。
われわれは賢くはない、だが差別に打ち勝つためにはうんと勉強しなければな
らなかった、何千年も土地の所有を禁じられ、頭を使うことしかできなかった、
それは自己達成のための予言能力である、多くのユダヤ人は賢いと言い続けた
ので、真偽のほどがわからないまま信じられてしまった……と。


 もっともらしい言い訳をしてはいるものの、内心で賢いと思ってもいる。
遅かれ早かれたいていのユダヤ人は――遠慮がちに弁解がましく――ユダヤ
は他の民族よりも賢いと思うと白状する。
自分はそんなに賢くはないが、ほかのユダヤ人は賢いと明言することを誇りと
している。


 この誇りはユダヤ人の伝統と深い関係がある。
賢い賢くないに関係なく、ユダヤ人は異教徒グループよりも教育熱心である。
ユダヤ人は「本の虫」とよく言われる。
シュテットルではこの信念が生活のすべてに浸透していた。
タルムドの授業で才覚を現わした少年は生活をそれにかけるように奨励された。
共同体は貧しかったが、少年が会堂で本に向かえるように食費や寮費を支給し
た。
学力のない大人も余暇を勉強に使った。


 ローアー・イーストサイドの移民も逆境にめげず、この伝統を守った。
毎日1,000人近い人が教育同盟エドケイショナル・アライアンス)の図書室
に群がった。
1900年代初期の写真には、開館を待つユダヤ人の子供が公共図書館の周囲に
並んでいる光景が記録されている。
19世紀末にはウイリアム・ハウェルズがこう書いた。「イーストーサイドのロ
シア系ユダヤ人の文学趣味は、アメリカ生まれの平均的自由民よりすぐれている」(注1) 大学へ進学する年齢に達した移民の子供たちの向学心
は、ニューヨーク市大に向かった。
入試に合格しさえすれば、授業料免除、高校卒業資格なしで入学できた。
1920,30年代を通じて同大学は、私大にいく余裕のないユダヤ人の勉学の
場となった。
名の通ったユダヤアメリカ人には、当時の同大学出身者が多い。
特にラビ、文官、教官、社会福祉の分野に多い。


 哲学界の重鎮エール大のポール・ワイズ教授は当時のニューヨーク市大をこう
語っている。



「学生の八割は貧しい正統派信徒のユダヤ人家庭の子弟だった。
ガリ勉しワイワイ活気に満ちていた。
与えられた書物をむさぼり読み、それでも足りなくて多くの本を求めた。
議論や討論をやめたことはなく――学んでいることについて大声でがなり散らし
ていた。
しかし大学側とはそれほど不仲でもなかった。
知識の吸収に追われて無精ひげのままの者も多かった。
一分でも本から目を離すのが惜しかったのである。
異教徒の教授連はこう言っていた。
『ひげを剃らないと仕事が見つからないぞ』
私たちの答えはきまっていた。
『ご心配なく。その時にはちゃんと剃りますから』」


ワイズ青年はニューヨーク市大卒業生第1号としてハーバード大学院哲学課程に
入学を許可されると、ニューヨーク市大調を持ちこんで雰囲気をかき乱した。
最初の授業の時に教授が聞いた。
「質問は?」
ワイズ青年が手を上げた。
前例のないことだった。
「紳士らしからぬ」
というわけである。
ローアー・イーストサイドのユダヤ青年には紳士らしさのために知りたいことを
犠牲にする者はいなかった。


 教育に寄せるユダヤ人のこの信頼にはどこか不合理なところがある。
ユダヤ人は教育の力で何でもできる、奇跡さえ起こせると信じている。
例えば教育で反ユダヤ主義も消滅できると。
アメリカの知性の中のユダヤ入』などの最近の調査をみると、大卒者も、そう
でない人びとと同じくらい反ユダヤ主義的になりやすいことがわかった。
好例がナチ・ドイツである。
ナチ・ドイツは中流階級の教育度がかなり高い国家であったが、ヒトラーは初期に
は医師や弁護士や専門職からも支持されていた。
にもかかわらず最近クリーブランドの会堂にかぎ十字章が描かれた時、ラビが言
った。
「無法行為をなくすにはこういう人間を教育する必要がある。無知でなければこ
んなことをするはずがない」(注2) 


だがユダヤ人の教育熱心がアメリカですばらしい結果を生んだことも認めなけれ
ばなるまい。
統計をみるとわかる。
ユダヤ人委員会の1963年の調査で、アメリカのユダヤ人の大学生年齢層の
75%が実際に大学へ行っていることがわかった。(注3)
ウイルケス・ハーレがユダヤ人高校最上級生に質問したところ、ほとんど全員が
大学進学を希望した。(注4)
もちろんすべてが実現できるとは限らない。
しかし他の調査では非ユダヤ人10代の場合30%が希望したにすぎなかった。


 各地区の統計をみると、ユダヤ人の若者は学校でかなりの成績をとっているよ
うである。
エール大のヒレル施設の礼拝に欠かさずに出る学生は、昨年の成績優秀者リスト
に全員載っている。
過去12年間のエール大卒業生の成績最優秀者5人のうちの少なくとも1人はヒ
レルの委員であった。
昨年はヒレルの委員2人がファイ・ベータ・カッパ(1776年創設。米の大学で成績優秀な学生や卒業生
で組織するクラブ)の新会員となった。
ニューヨーク州が最近ニューヨーク地区の高校最上級生に与えた大学奨学金50
のうち30はユダヤ人が得た。
激しい入試競争で有名な名門サンフランシスコ・ローエル高校には、共同体年齢
比分布を上まわる在校生がいる。


 ユダヤ人は学校を出ると非ユダヤ人よりも「知的な」職業につく率が高い。
今日アメリカの大学教授にユダヤ人がいかに多いことか。
規制がとかれるが早いか、ユダヤ人はどの専門職資格分野でも資格を獲得してし
まう。
東部大学の法学部でワクが除かれるや、ユダヤ人が入学者の大半を占めてきた。
過去10年間、エール大法学部新聞の編集者の70%がユダヤ人であったという
ことは、成績の面でも首位をしめるユダヤ人が多いということを示す。
政府関係の仕事につくユダヤ人も多い。
どの程度まで実際の政策決定に携わっているか不明だが、各省の重要な地位につ
いていることは確かである。
神聖犯すべからざる省であった国務省でさえそうである。
科学者では、化学、物理、生物学分野のノーベル賞受賞者にもユダヤ人が多い。
アメリカ人でアインシュタインやソークやセーピンを知らない者はいない。


 医師も同じである。
ユダヤ人が入学を許されている医科には、ユダヤ人医師が数えきれないほどいる。
ニューヨーク市の医師1万5.000人の過半数ユダヤ人である。
専門分野別にみて精神科・歯科・小児科医が目立つのは、これらの分野がユダヤ
に早くから門戸を開放していたからである。
外科分野は教授や医局長に反ユダヤ主義者が多いので、ユダヤ人外科医は少ない。


 知的職業につくユダヤ人も多いが、芸術畑でも多く活躍している。
過去10年間はユダヤ人文学の復興期だった。
――ノーマン・メイラー、ソール・べロー、フィリップ・ロス、ブルース・ジェイ・フ
リードマンなど。
20年前にもユダヤ人生活を扱ったユダヤ人作家は多かった。
1920、30年代はクリフォード・オデッツ、アーウィン・ショー、マイケル・ゴー
ルド、テス・シュレツシンジャー、ヘンリー・ロス、マイヤー・レビン、ダニエル・
ヒュツクス、ナサニェル・ウェスト、ジェローム・ワイドマン、バッド・シュールバー
グなどがいた。
彼らの活動を復興と呼ばないのは、ユダヤ人であるということがいまほど当世風でな
かったからであろう。


 ユダヤ人音楽家も長年アメリカの舞台を華々しく飾っできた。特にバイオリニスト
が著しく、ハイフェイツ、エルマン、スターンらが世に出た。
少年にバイオリンを習わせるというロシアの慣習がアメリカに移入されたからである。
他の楽器はバイオリンほどではないがピアニスト(ホロウイッツ、ルーピンスタイン、
フライシャー、グラフマン)、チェリスト(ピアチゴルスキー、フォイアマン)、
ビオリスト(カティムズ)、オペラ歌手(ピアース、タッカー、メリル、レスニック、
ジュディス・ラスキソ、ピバリー・シルズ)の分野でも名を轟かせている。
今日の第一線作曲家にも――アーロン・コプランドからデビッド・アムラムまで、ジョ
ージ・ガーシュィンからジェリー・ホックまで――ユダヤ人は多い。
アメリカのミュージカル・コメディー洗練された風刺調のもの(ロジャーズとハートに
よる『パル・ジォーイ』)であれ、通俗おセンチもの(ロジャーズとハンマースタイン
による 『サウンド・オブ・ミュージック』)であれ――はユダヤ人の発案によるもの
が大半である。


 視覚芸術畑へのユダヤ人の登場は遅かった。
ハラカでは人間の形を再表現するのを禁じており、シュテットルでは厳禁だった。
スーティン、シャガールなどはパリヘ亡命するまで報復を恐れながら描いていた。
アメリカヘ渡った移民たちは多くの禁止項目とともにこれも弱めた。
そして突如として画家や彫刻家に転じた。
1920、30年代にはエルンスト、リップシッツ、ソイヤール3兄弟が現われ、
今日ではローシェンバーグ、ラリー・リバーズ、ヘレン・フランケンサラーといっ
た人々が活躍している。
教育同盟の普通クラスで教えている偉大な彫刻家チャイムーグロスによると、生
徒の85%はユダヤ人だという。


 ユダヤ人は他の芸術分野でも活躍している。
映画、演劇、テレビ界にはユダヤ人がいっぱいいる。
俳優やコメディアソも多い。
映画監督、デザイナー、製作者にも多い。
ニューヨークの美術商の60%が、主要出版者の50%近くはユダヤ人である。
一線級のコンサート・マネジヤーにもユダヤ人が多い。
美術館の部長や管理者は少ない(ニューヨークのメトロポリタン美術館の故ジェ
ームズ・ロリマーは有名な例外であった)が、この職種がユダヤ人を差別してい
るからである。


 美術のパトロンや買い手のユダヤ人はもっと多い。
本も多く買う――ユダヤ人の親はスーパーマーケットで売っている幼児用の本で
は満足しないらしく、子供にハード・カバーの本を買い与える。
ユダヤ人は音楽会に、オペラに、劇場に群がり、余裕ができるや否や絵画や彫刻
を購入する。
芸術を楽しむだけでなく、芸術のための金の寄付もする。
ロサソゼルス美術館の二大建物の一つ、マーク・テイパー・ラムは150万ドル寄
付したユダヤ人にちなんだ名前である。
同美術館長もユダヤ人である。
サンフランシスコ、ニューオーリンズアトランタのような大都市の交響楽団
事会、美術館理事会の要職にもユダヤ人が多い。


 要するにユダヤアメリカ人は古い伝統を支持して、昔ながらの学ぶことを愛
する心を子供に伝えているのであろう。


 ユダヤ人は他の民族以上にすぐれたビジネスマンであるとも言われる。
これもユダヤ人には反ユダヤ主義を思わせる言葉で、懸命に否定したがる。


 だが実用主義、タクリス――慎重、リアリズム、詩よりも散文を愛する心とでも
訳せようか――の素質は知的素質と同様にユダヤ人の伝統に由来するものだろう。
シュテットルでは学者は少数派だった。
たいていは問屋か洋服屋か行商人か、牛乳屋か、とにかく小商人や職人だった。
貧乏で生活費を稼ぐのがやっとという有様だった。


 渡米してきた東欧系移民にとって、実用技術は学問尊重以上に価値があった。
金も技術も経験も皆目なかった彼らは、一世代前ドイツ系ユダヤ人がやったように、
機械操作技術を持だない労働者とか車を押して歩くクズ屋として出発しなければな
らなかった。
だが同じスラムに住むシシリー出の農夫やアイルランド出のじゃがいも農夫にはな
い大きな利点があった。
中流階級で成功する徳がユダヤ人の伝統にはすでに備わっていたことである。
現世の生活に重きをおく態度、いま自分の運命を長くしなければならないという信
念がユダヤ人に大志と希望を抱かせ、長時間働くことも低賃金に甘んじることも強
気の販売に精出すことちいとわなかった。


 その結果、ユダヤ人ビジネスマンが活動を許された分野では、多くの成功者を生
んだ。
ある種の業界が今日「ユダヤ人的」であるという事実はほとんど偶然の結果で、ど
の場合も外的環境によって説明できる。
移民たちには資本も長時間商品を蓄えておける場所もなかったので、すぐに売りさ
ばける商品だけを扱う必要があった。
金属スクラップ屋、質屋、古物商などがユダヤ人ビジネスになった。
砦を固めた体制派の抵抗が、門戸を開放している新しいビジネスに新参者を余儀な
く向かわせもした。
だからユダヤ人は劇場主としては成功できなかったが映画製作者としては大成功した
(映画界の金融面を牛耳るのはきまって異教徒の銀行だが)。
反ユダヤ主義(本物であれ、想像の産物であれ)を恐れる気持ちがユダヤ人を自分だ
けしか頼らない人間にし、自分がボスになれる小さな店、小製造業者や工場主、卸商
などにひきつけていった。
そして独立できないまでも、その幻影を与えてくれる商売につくことはできた。
したがってニューヨークのタクシ運転手にはユダヤ人が多い(ニューヨークのタクシ
ー運転手の60%がユダヤ人である。大学卒の若いユダヤ人が増えた今日では減少し
つつあるが)。


 もちろんユダヤ人ビジネスの典型は衣料産業である。


この項、明日につづく。