創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(717)『アメリカのユダヤ人』を読む(3)

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拙訳『The Americsn Jews 邦題:アメリカのユダヤ人』―――から(3)


原著者のジェイムズ・ヤッフェ氏は、1927年シカゴ生まれ。15歳のときに『エラリー・クィーン・ミステリ・マガジン』に作品を投稿し、早速、採用・掲載されたほどの文学少年で、イエール大学では創作コースを履修。


日本では揺り椅子探偵「ブロンクスのママ」シリーズで知られている。


息子のニューヨーク市警の刑事が細君とともに、土曜日ごとにブロンクスのアパートで独り住まいをしているママの手料理を賞味しに訪問、そこで、いま担当している事件の概略を話すと、ママが推理を始めるといった設定。


推理は本格的で、そのみごとな構成が、ミステリ・ファンをうならせてきた。


この『アメリカのユダヤ人』は、氏の唯一のノン・フィクションであるが、ユダヤ系のアメリカ人と交誼をもっている人は、友人への配慮として、必読してほしい。知っていると知っていないでは、付き合いの深浅度が変わってくる。



建  設


肉体と精神


 もちろん親から子へと幾世代も伝えられたユダヤ人の伝統――慈善、信
仰、学問――がある。しかし4,000年にも及ぶ共通の経験から無意識に
できあがったユダヤ人気質、人生に対する独特の姿勢、世間に接する本能
的戦略もある。
この姿勢は東欧系移民がアメリカヘやってきた時に着ていた野良着と同様
に彼らのものとなっていた。
そのうちに衣類は焼いてしまったが、独特の気質は彼らとともに山の手へ
持ちこまれ、子供にそして1960年代の孫に引き継がれて、今日のユダ
ヤ系アメリカ人生活に独自の色あいと香りを添えている。


 ユダヤ人は理想主義者であるが、物質主義者でもある。
精神的なもの、知り得ないもの、口では言えないもの、神より与えられる
神聖な価値を信ずる。
一方、生きていくためには実利的でなければならないと信じてもいる。
星(ユダヤ教の象徴)に手を伸ばさなければならないが、失敗しないように警
戒を怠ってはならないというわけである。
この二つの相いれない姿勢がユダヤ人の中に共存している。
例えば現実を犠牲にして神秘に溺れがちなロシア人や、見えないものや数
えられないものには動かされないスイス人と違って、ユダヤ人はどちらか
一方に自分の感情を傾斜させはしない。


 この精神主義と物質主義の混合の原典は古代からある。
それはモーゼ五書(トーラ)(ユダヤ教の神聖なる基礎、旧約聖書の最初の
五書(創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)や預言書(イザヤ書、エレミア書、
エレミア哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書をはじめとする12の預言書
)の中で
説かれているし、モーゼ五書の解釈集や解釈の解釈で、幾世紀もかけ
て偉大なラビたちによって収集された敬虔なユダヤ教徒にとってモー
ゼ五書の規範ともいうべきタルムドでさらに明らかにされている。
旧約聖書とタルムドは、世界は人間のためにつくられたのであって世界のた
めに人間がつくられたのではないと言っている。
そして予言者エリヤは「神は世界でその中に住む」と宣言した。


 生の喜びは楽しむためにあり、肉体は抑制するために与えられたのではない
と続いている。
真正正統派(ハシディズム)の祖で偉大な神秘論者バール・セムはこう言っている。
「禁欲をしてはならない。自分の肉体をそこなう者は精神をもそこなう。
禁欲行為による恍惚(エクスタシー)は別の面からくるもので神聖なものではなく
悪魔によるものである」(注1)。
一方、ユダヤ教の言い伝えでは、神はわれわれの父であり、われわれの
主たる義務は神の戒律に従うことだということを明らかにしている。
だからこそ人は物質的なことに喜びを見出すべきなのである――神が人
にそれを命じたのであるから。神はまた、物質的なものに執着しすぎな
いことと、われわれの主な義務がどこにあるかを忘れないことも命じた。


 ユダヤ人の数多くの奇妙なパラドックス的行為はこの二重の姿勢によ
っている。
ユダヤ人には絶対禁酒主義者はいない。だが20年越しの調査によると、
ユダヤ人の大酒飲みも絶無に近い。マイケル・ハリントンは、ニューヨ
ークのバワリーで職務怠慢者といっしょに働いていた間、ユダヤ人には
一人も会わなかったと『もう一つのアメリカ』に書いている。
菜食主義者ユダヤ人も珍しい。(われわれが肉を食べることを神が望
まれないなら、なぜ肉を与えたもうたか?)
しかし狩猟に出向くユダヤ人も皆無に近い。
動物を殺すことも時には必要かもしれないが、ユダヤ人にとってそれは
スポーツではないのである。


 ユダヤ人は食べることを愛する。
これは疑う余地がない。
ユダヤ人のカントリークラブは、スポーツ・イラストレーテッド誌によ
れば異教徒のカントリークラブのほぼ倍にあたる食料(酒の場合は半分)
を必要とするという(注2)。
しかし痛風ユダヤ人の間ではほとんど見られない病気で、減量食養生
が人気のある娯楽となっている。
ユダヤ人は他の民族よりも多くの薬を買い、医者を訪れる数も多い。
統計によれば、ユダヤ人は他のアメリカ人よりも長生きするようである。
それを埋めあわせるべく、出生率がいくぶん低い(注3)。
しかしキンゼー報告によれば、ユダヤ人既婚者の性交回数は平均よりも
多いとある(注4)。
神は楽しければより多く……とは言っていない。

 精神主義と物質主義の混合は、死と来世に対するユダヤ教の姿勢にも
現われている。
ユダヤ人は天国や地獄や来世を信じないと言われる。
これは正確ではない。
この点に関してタルムドとモーゼ五書は不明確である。
復活と来世について述べてはいるが、量は少ない。
存在はするが、そんなことについて思慮するのはよくないというところ
らしい。
われわれの職務はこの世で自分のためにできるだけ良い生活をすること
で、死後は神にまかせろというのである。頌栄(カディシュ)――死者のためのヘブ
ライ語の祈りはほとんどこの世におけるわれわれの運命のために神を崇
めたものである。


 したがってユダヤ教では過度の哀悼を許さない。
モーゼは五書で、その民に自分の死を三〇日間哀悼したら悲しむのはやめ
て約束の地(カナンの地)に入るための仕事につけと命じている。
彼は人生を浪費することこそ真の罪であると言っている。
だからタルムドでは華やかな葬儀を禁じている。
簡素な棺で埋葬し、供花は許されない。
特に嫌われるのは、ぞっとするようなあの「死体展示」である。
ユダヤアメリカ人がこれらの命令に従う程度はさまざまだが、命令は
存在する。


 宗教儀式に対する奇妙な姿勢についても啓示がある。
ユダヤ教には儀式が多い。
真に敬虔なユダヤ人は日々のどんな行動に対しても祈ることができる。
しかしモーゼ五書とタルムドでは第二戒で偶像的なものを崇めるような
儀式を堅くいましめている。
神は神であり、人間は人間である。
おのおのの特質、姿というものがある。
神が創造したものを楽しむことは許されるが、神がその中に住むと偽っ
てはならない。
キリスト教徒として育ったユダヤ教への改宗者はこの点で苦しむ。
会堂には十字架も像も聖人の肖像画もない崇敬の念をもって手を触れる
ことはできても崇めてはならない。
モーゼ五書があるだけである。
具体的な象徴がないということで彼らはうろたえる。
改宗者たちがラビに尋ねるのは「何に向かって祈ったらいいのですか?」
だという。


 ユダヤ人には偶像を避けるだけでなく行きすぎた儀式を信用しない傾向
がある。
もちろんユダヤ人も敬虔な人がいるということは信じている。
だがどんな人だろう?
神のすべての掟に従うことは明らかに不可能である。
このことに気づいていないような人、己れの敬虔さをあまり簡単に表現す
る人は疑わしいというわけである。


 この姿勢は兄弟の古い物語にも出てくる。
一人は昼も夜も常に祈っている。
もう一人は一度も祈らない。だが敬虔のほうはやることなすことみんな失
敗してしまう。
一方、無関心なほうは大成功する。
敬虔なほうが自分の信心深さに対する報いがないのかと神に尋ねると
「お前は私の注意をひこうとしすぎるからだ」
という答えが返ってきたというのである。


 この混合的見解は宗教から日常生活にまでわたっている。
ユダヤ人が一瞬頑固で冷静なように見えても、次の瞬間にはソフトで感情
的に見えるようにしているのはモラリティの基本なのである。
人は厳正な正義によってモラル判断をすべきなのか、それとも慈悲と哀れ
みによってすべきなのか? 
旧約聖書はこの点を明らかにしていない。
時には廉直できびしい神であり、時には慈悲深く譲歩的な神である。


 アメリカでは至るところにパラドックスが見られる。
 ユダヤ人はタフネスを誇る。
RCAのサーノフ前会長は自伝の中でこう述べている。
「私は私の敵にだけ恩を感じている。彼らだけが頼りなのだ」(注5)。
若いユダヤ系下院議員でニューヨーク選出のジェームス・シェウアーは
物事を「上品に」行なう議員を軽蔑して「タフなユダヤ人」である仲間
をほめたたえている。
ソフィー・タッカーは、夫を失ったばかりの親友に対して次のような慰
めの言葉を贈る。
「ヘギー、他人に何かを期待してはだめよ、誰かが親切にしてくれたら
望外のものと思いなさい」(注6)。
悲しみに打ちひしがれた未亡人は泣き叫ぶかわりにその出来事を賞讃の
念で思い出して言うのである。
「あれほど真実味にあふれた言葉は聞いたことがありません」


 とはいってもサーノフは慈善運動に大きく貢献しているし、シェウア
ー議員も公民権問題では恐れをしらぬ闘士である。
そしてタッカーはショー・ビジネス界では名の知れた人物である。


 この多様性はシュテットル以来のものである。
シュテットルではみんな涙もろかった。
男でさえことによっては泣くことが許されていた。
しかし涙はすぐに乾くものと考えられており、実際そのとおりだった。
ローアー・イーストサイドでもそういった自己抑制の感動的な例を示して
いる。
ニューヨーク・ポスト紙のインタビューにゼロ・モステルはその点を明ら
かにする話をしている。
母親はいつも彼にこう言っていた。
「お前が一万ドルの預金通帳を見せてくれたら私は幸福だよ」
そこである日一万ドルの預金通帳を母親に見せると、
「これっぽっちかい!」
と言われた(注7)。
おかしな話だが、彼女の感情の多様性については分析されていない。


 今日の若いユダヤ人にはこの多様性が見られないとするのは誤りである。
12歳児学級の日曜学校を訪れた時、先生が次のようなジレンマを子供た
ちに説明していた。
400人のために中程度の収入の住宅計画をたてるには、市当局はまず荒
れ果てた一区画の安アパートを収用し、数年来住みなれてきた40人の老
人に立ち退きを命じなければならない。
もちろん市当局は彼らに代替住居を世話してやるが、そうだとしても引っ
越すのは惨めである。
70歳を越えた老人が新しい環境や新しい生活様式に慣れることができる
だろうか? 
教室の反応は非常に感動的であった。
少女が叫んだ。
「そんなことしてはいけないわ!」
少年がそれに答えた。
「発展のためには部屋をつくらなければならない。40人のために400
人を犠牲にすることはできない」
激しい議論がしばらく続いた。
最後に発言した少女の言葉で結論が出た。
「こんなふうではいけないと思うけど、そうしなければならないでしょう。
でも私はいやです!」


 この結論は非常にユダヤ人的だと思う。


 この精神主義実用主義との混合を理解すればユダヤアメリカ人の生活
の大小の奇癖は説明できる。
よく軽コメディにもなる。
例えば、つい最近ユダヤ神学校が校舎新築の大口寄付をした人々を招いて晩
餐会を開いた。
まじめな儀式だった。
厳粛に寄贈者の氏名が順次読みあげられると前列へ出ていく。10万ドル以
上の寄付をした人たちがのろのろと前に出ていくのにあわせてオーケストラ
が奏でていたのは『アルメンティエールからのマドモアゼル』だった。
この不調和に誰も気づいてはいないようだった。

【chuukyuuからのお願い】この場面のチクハグさ、同曲の解説とともにご説
明をどなたか、コメント欄へお願いします。

 このコミック調は、ユダヤアメリカ人中産階級金科玉条であるニュー
ヨーク・ポスト紙の紙面を毎日飾っている。
ポスト紙のリゾート・料理店広告欄はこの鍵がつかめていない人にとっては
不可解に違いない。
キャッツキルやマイアミビーチ、レークウッド、ニュージャージーのリゾー
ト・ホテルの広告、ブルックリンとロングアイランドの清浄食品の広告、市
内のユダヤ料理店の広告が6ページもつまっている。
「劇場タイプの椅子300席の円形聖堂(テンプル)」を広告しているのがあるか
と思えば「聖堂の威厳と優美な調理の楽しく喜ばしい雰囲気を混合した総合
調理」
とうたっているものもある。
一般的にリゾート・ホテルの広告は近づく宗教祭日を扱ったものが多いこの
宗教祭日がまた多いのである。
ホテルにももちろんすべての参拝者が入れるような「聖堂」もあり、18ホ
ールのゴルフ場も礼拝式の間のリラックスする場所として設備されている。
楽しい奉納祭(ハーヌカー)であれ悲しい陵罪日(ヨウム・キパ)であれ
両者を兼ねた過越祭(パスオーバー)であれ、ホテルは楽しく敬虔で
食物いっぱいの週末を保証する――なかでも最大の設備を誇る店など「最新
式豪華さに包まれた永遠の伝統」と書いている。
多くの広告は推せん者か何かのように「有名な」ラビの写真や礼拝を行なう
「名の売れた」先唱者(キャンター)の写真を載せている
(先唱者は普通ラビより上位に書きあげられている)。


 このことを誰も気にしてはいない。
神聖なものが冒涜されているとか儀式の威厳が危うくされているなどと感じ
る者はいないのである。
「永遠の伝統」と「最新式豪華さ」が相いれないものであることなど誰も気
にしない。


 しかし祷められたあるいは偽善的な神聖さを回避しようとすると、ぞっと
するような機転のなさ、悪趣味へとつながることがままある。
ラビの推せんつきユダヤ式食品の広告や「良いビジネス10戒」(第一戒、
当店の客は最重要人物であること)などと広告するメット食品店チェーンが
それである。
またポスト紙に掲載されている「町のマナ(昔、イスラエル人がアラビアの広野で神から恵まれた食物)」
と称する広告――イスラエル・アラブ戦争、信仰の自由、贈罪日の意味、ナ
チの大虐殺を足がかりにしてチェイズ&サンボーン・コーヒーやプランター
のピーナッツ・オイルなどの広告をでっちあげるへ――とつながる。


事実、バール・セムが警告した「禁欲的な行為」を避けようとするあまり、
ユダヤ人は脱俗的なものと実用的なものとの区別がつかなくなってしまうこ
とが多いのである。
エセックス郡の「ユダヤ人ニュース」の死亡欄に死亡広告や告別式の告知に
並んで葬儀場や墓石店の広告が混ざっているのもこのためである。


  プラッグマン料理店
  清浄食品料理
  七面鳥、チキン――清浄サンドイッチ
  ホットフーズもあり

 
 またアメリカ・ラビ集会(アセンブリ)の幹部ウォルフーケルマン・ラビ
の許可を得て書く次の事件もやはりこの盲点ゆえのものである。
ある小さな共同体の若いラビが会堂の会長の息子と異教徒を結婚させるよ
う頼まれた。ほとんどのラビがやるように彼もその娘がユダヤ教に改宗し
なければ式はあげられないと告げた。
彼女は喜んで従った。
娘は熱意を示した。
規則正しく礼拝に通った。
あらゆる関係書物を読みあさった。
イスラエル語を学び、ユダヤ食だけを食べた。
町のどのユダヤ人よりも、そしてこれから義父となるべき人よりもはるか
に信心深くなっていった。
しかし思いがけない障害があった。
娘はラビに、自分にはどうしてもする気になれないことが一つだけある。
イエス・キリストの神性に対する信仰を捨てる気になれない――と告白し
たのだ。
その他のことは何でも受け入れられる。
だからイエスを信じつづけることをラビが許してくれるなら、喜んでユダ
ヤ教徒になると言うのだった。
もちろんラビは彼女を改宗させることを断わった。


 すぐに彼女の婚約者の父親と会堂の会衆(シナゴーグ)からすさまじい反撃
が展開された。
ラビの決定に激怒したのである。
娘は心からユダヤ教徒になりたいと言っているではないか、どんな権限があ
って彼女の道を妨げるのか?
彼女が信ずるものを妨げる権利が彼にあるのか? 
信ずるもの、それは個人の自由ではないか? 
これで自由国家と呼べるのか? 
ラビのほうが正しいとニューヨークのラビ権威集団が仲裁にはいったが、会衆
を説得するのに何ヶ月もかかった。


 生活の精神面への現実的なアプローチはこれ以上関与することはほとんどで
きない。



 自由と権威に対する姿勢にも独特のユダヤ人気質が生きている。
やはりある種の矛盾を含み、それはモーゼ五書とタルムドに見ることもできる。


 モーゼ五書とタルムドでは、すべての権威は神に由来すると説く。
誰もそれを奪うことはできない。
モーゼ五書がわれわれの生活に必要なすべての規則を定めており、いかなる人間
も変えたり追加することはできない。
しかし一つ問題がある。
神の律法の解釈のむずかしさである。
モーゼ五書が説いていることの解釈は人によって異なる。
神の言葉を解釈する権威が誰にもないのだとしたら、この不一致は決して解釈され
ることはないのである。


 論理的にはそれはできないが、ユダヤ人のロ伝がその道を見出している。
他の人よりもモーゼ五書を解釈する権威を与えられてしかるべき人物がいるという
のである。
神による神秘的な力でこの権威が特定の人物に与えられるのではなく、より学のあ
る者、敬虔な者、すべての人に満足のいくような能力を持った人に授けられるので
ある。
いかにしてそういう人物を見わけるか、いかにしてそのすぐれた能力を見わけるか
という問題に関しては、うまくやっている。
ヒレルやバーム・セムのような過去の偉大なラビはいかなる公職も持ったこともな
い。


 ユダヤ教法王などもあったためしはない。
共同体がその自由意思で自発的にそしてより偉大な権威によってとってかわられる
という無言の条件つきで、その権威を彼らにゆだねたのである。


 もちろん偉大なラビたちはそのかわり、彼ら以前に生き、書物を記して同じよう
な地位を与えられていた人々に服従すべく義務づけられていた。
タルムドはこのようにして展開したのである。
理論上では誰にも加えることができた(そしていまでもできる)が、苦労してタル
ムドを書いたかつての知者と取り組まなければならない。
神は常にその規則を定めるが、それを扱い操作し新しい環境に適応させる法的処置
はわれわれが発見するよう望まれる。
疑い、論争、細事拘泥は、神に対するわれわれの義務の一部である。
ヨブ記ほどこの姿勢をうまく表現したものはなく、解決されたことのない疑問点を
全体的に悲観的に述べている。
聖書にヨブを入れたのはユダヤ人だけだろう。


 シュテットルではこの姿勢は「詮索(ビルプル)」として知られる
タルムドの論争の形へとつながった。
共同体の学者は老いも若きも毎日会堂へ集まってタルムドの細部にまで果てしない
分析、再分析をくりかえした。
古いことわざではこの過程を問題の三面を論争する二人のユダヤ人と言っている。
この「分析」は時として声高になり白熱したものとなった。
共同体のエネルギーと情熱の多くは「深遠さ(ビルプル)」に向けられた。
アービング・ホーはこれは現実逃避弁として在存したと言う(注9)。
解決できない日常問題(街角に立つ反ユダヤ思想の警官など)に挫かれたシュテッ
トルの住人は「果てしない」問題を解決しようとする試みに救いを見出していたの
である。
動機がなんであれ、彼らは「詮索」の影響が明らかな生活様式を?
ローアー・イーストサイドのそして今日のアメリカの彼らの子孫へと伝承したの
である。


 ユダヤ人の子供は幼い頃から話に囲まれて育つ。
大きなことから小さなことまで賛否両論を論じ続ける家庭の中で育つ。
そして話は常に論争ヘ――そして時には喧嘩ヘ――と続く。
好戦家は常に仲直りする、そしてこれがまた次の話を生むのである。
自分の考えを述べるのに声だけでは足りず、肩や眉や頭、さらに手を使っての大奮
闘となる。
ユダヤ人であることを恥ずかしく思う母親が子供に最初に言ってきかせるのは、
「お願いだから手を使って話すのはよして!」
である。


どんな問題にしろ最終的権威を受け入れたくないという気持ち、論争に対する情熱
は今日のユダヤアメリカ人の特徴である。
アメリカのどんな小さなユダヤ人共同体の歴史を見ても、ウインストン・チャー
チルの有名な批評「ユダヤ人が一人なら首相、二人なら反対党党首」の真理を表わ
している。
有名な戦後社会調査報告「ヤンキーシチー」によると、会堂に適したビルを発見し
た委員会はその会堂に属する人の誰もがそのビルを気に入っていることを知ったう
えで反対報告を故意に提出したという(注10)。


 ユダヤ人機関のための講演に出たことのある人なら誰でも同じ原理が働いている
のに気づくだろう。
講演が終わり、その部屋が質疑応答に開放されるが早いか必ずおきまりのタイプの
人物が現われる。
ややなまりのある初老のつまらない男で、質問はとどまるところをしらず彼の人生
談へと変わっていってしまう。
シャープな顔つきで質素な身なりの旧習打破論者も現われて「この会議にはがっか
りさせられた! 講演者は完全に論点を回避していた。疑問点は全部的外れだった」
と言う。
毛むくじゃらの若い知識人も現われて目下のテーマとは何の関係もない自己の哲学
を長々とやり始める。


 ユダヤ人というのは元来話好きなのである。 


明日につづく 


 



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