創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(752)『アメリカのユダヤ人』を読む(18)

 

はてなスターカウンター

今の★数累計です。茶色の枠をクリックし、スロー・ダウンしていただくと、

★システムおよびカウンターの解説があり、
これまでの累計のトップ10のリストが用意されています。
ご支援、深謝。



祈  り


会堂機構 昨日のつづき



 会堂が行なう社会活動の幅はとても広い。
競争時代の厳しい現実を心得ているのである。
自分の商品を売るためには最新の開発に立ち遅れてはならない。
このため社交ホール――礼拝所よりも大きいことさえある――のない会堂はない。
私が訪れた会堂はどっちが重要なのかわからないほどの代物だった。
玄関を入ってまず目につくのは長いバーで、それからアーチ形通路が社交ホールヘ
とつながっている。
かたわらの目立たないドアを入っていくと礼拝所へ達するという有様である。


 社交ホールで行なわれる重要活動は、あるラビが「会堂の行なう部族慣例中での
最も俗っぽい」と表現した晩餐会ダンスである。結婚式、バー・ミツバだけでなく
記念祭、誕生日、16歳くらいの女の子などのパーティがここで開かれる。
特に宗教臭のない年次ショーさえ開かれる。
ロングアイランドの会堂ではなんと『新ミュージカル・ヒット曲』『金とセックス』
の広告までしていた。


 若者のための娯楽も会堂の社交生活の欠かせない部分である。
10代向きには施設完備のジム、バスケットボール・コート、プールなど。
幼児のための保育園、夏期キャンプ。
ボーイスカウト団を持っている会堂も多い。


 会堂は主婦連にブリッジ試合、減量クラブ、料理教室、そしてもちろん婦人達の
定例会合まで用意する。
彼女たちにとっては教養を身につけるチャンスで、今週は「ファッション・ショーと
マンボ熱にうかされたフローラ・ドラという寸劇を上演します」と公示していた聖堂
の会報もあった。
そしてこの後ラビによる「モーゼ五書の時代」という講話が続くのである。



驚いたことに、これでもアメリカの会堂には宗教活動を行なうだけの十分な時間がある。
だがこれまでみてきたことを照合してみると、宗教活動はどのくらい意義があるのかと
疑問を持たざるを得ない。
社会的圧力のゆえに人々が会堂に加入し、ほとんどの時間をブリッジや権力争いに使い、
たまに礼拝に出かけてももじもじそわそわあくびする。
これでは宗教の入りこむ余地がないではないか? 
加入者と非加入者、はたしてユダヤアメリカの人はどの程度の信仰心を持っているのだ
ろうか?


 もちろん答えは宗教の意味によって変わってくる。
ユダヤ教を信仰することか? 
あるいはもっと広範な神を信じることか? 
アメリカのユダヤ人を両方の見地から考えてみることができる。


 ユダヤ人はユダヤ教を信じているのだろうか? 
この信仰心が知識ではかられるものならほとんど信仰心はないと言える。
ユダヤアメリカ人は自分の経外伝説に関して無知なことで通っている。
数年前ヒレル施設が行なった大学一年生を対象にしたアンケートの結果にはみ
んな驚いた。
例えば奉納祭(ハーヌカー)についての知識を持っている者はわずか14%で
あった。
それなのに55%が宗教学へ通ったというのだから驚く。
授業中ユダヤ教に注意も払っていなかったことがわかる(注4)


 それでは儀式遵守ではかるとしたら? 
アメリカのユダヤ人の儀式遵守性については前にも述べた。
だが無関心、ずさんさ、あいまいさがみられ、依然疑問を禁じ得ない。
いかに不遵守者であっても宗教儀式なしで結婚式をすませるユダヤ人はいない。
ほとんどのユダヤ教徒は自分の息子に割礼をやらせる。
自分の近親者が死んだ時に宗教的葬儀を行なわない者もほとんどいない。
葬儀はいろいろな意味でハラカーを破るものであるかもしれないし、割礼式は性
器割礼を伴わないことがあるかもしれないし、結婚式は慣例を踏襲したものであ
るかもしれない。
しかしこの人生における三重大時になるとユダヤ人はユダヤ教に忠誠を示す。


 それに今日の若者がユダヤ人であることに対して安心感を覚えるとともに、心か
らの信仰も持つようになった。
少数の若者は自分の宗教心をためらいもなく公にもする。
だからといって信仰が強くなっていると結論するのはどうだろう? 
結局、10代は宗教反応時期を通りすぎても、大学へ入って数カ月でそういう態度を
急変してしまうことが多い。
ユダヤ人委員会のある調査で、ウイルキス・パーレでは96%の10代がユダヤ教の神
を信じていることがわかったが(注5)
ブランダイス大学の調査では6%の学生しかユダヤ教の神を信じていなかった(注6)  。


 ユダヤ教信仰心を復活させたという大人の場合もあやしいものである。
「息子のおかげで会堂へ戻った」とある父親が誇らしげに言っていた。
この言葉を彼のラビに教えるとラビはため息まじりにつぶやいた。
「それはどこの会堂でしょうかねえ。ここでないことはたしかですよ」


 それでは神のほうはどうだろうか? 
ユダヤ教の形式には疑問を抱いても、神は信じるというアメリカのユダヤ人はど
のくらいいるのだろうか? 
この場合も疑問を両面から明白にできる。


 一方ではユダヤ人は他のアメリカ人よりも神の存在を信ずる割合は低いという
ことがいろいろな調査で明らかになっている。
最近の調査によると、アメリカ人の87%が神の存在を信ずると答えたが、ユダ
ヤ系はだった(注7)。(最高はカソリック教徒の92%である)。


 ユダヤ人の中で生活をしてきた人ならこの調査結果を誰も疑わないだろう――
70%とは高率すぎるといぶかる人はいるかもしれないが。
エール大学のあるユダヤ人学生が最近両親に絶望したことから、キリスト教へ改
宗する直前までいってしまった。
結局改宗は思いとどまったが、そのかわり厳しく会堂へ通い始めると「お前がキ
リスト教徒にならなかったのは嬉しいが、どうして物事をくそ真面目に考えるん
だ?」と父親が言った。こういった感情を大多数のユダヤ人は理解でき共感を呼
ぶ。


 事実、ユダヤ教では、会堂へ行って祈ることでさえも神に対する信仰があって
のことではない。
会衆で大活躍している男の娘が数年前亡くなった。
この悲劇のため神に対する信仰心はなくなってしまったと彼は言うが、依然会衆
内では前と同じように活躍してるし、安息日の礼拝にも出るし、娘の命日にはカ
デイッシュを口にする。


 こういった矛盾した姿勢は、どうみてもユダヤ教にしかあり得ない現状にも現
われている。
シャーウイン・ワイン・ラビはミシガン州バーミンガムの彼の聖堂で不可知論を説
いている。
同ラビはユダヤ教連合大学の出で、
ラビ中央会議の会員でもあり、彼の聖堂は改革派に属している――しかし彼らに
とって、彼は常に当惑の原因である。
神のコンセプトは時代遅れでユダヤ教はそんなものがなくても十分やっていける
というのが彼の信念である。
彼は聖書から神を完全に閉め出してしまった。
聖書を再翻訳し、必要とあらば書き換えて近代懐疑論に同調させ、すべての「迷
信」を省いてしまったのである。
しかし彼と彼の会衆かなりの身分の中流家庭148世帯――は彼らの信じている
ものは倫理文化でもユニテリアン主義でもなくユダヤ教だと主張している。
しかもラビ中央会議にはばかるところもなく、バーミンガムの会衆の相互結婚率
は全国平均よりもかなり低いと指摘してのける。


 われわれはリチャード・イスラエル・ラビの意見に賛成しなければならないよう
である。
その意見とは、コメンタリー誌にのったユダヤ人の信仰に関する討論会の記録で
「"神の死″論争はユダヤ人に『それでは何が新しいのだ?』という疑問を起こ
させる……ユダヤ人の葬儀はもっと個人的なことだった。
われわれは死者を真夜中に、静かに埋めた」 (注8) 

 
だが言えることがもう一面ある。
コメンタリー誌の討論会自体――神学論争が全国雑誌に載ること自体が稀有なこ
とだが――が多くのユダヤ人……知識人でさえ……が神の無存在を完全には信じ
ていないことを暗示しているといえる。1966年のサンフランシスコでのユダ
ヤ人会衆連合で最も出席率が高かったのは「なぜ神の存在を信じるか」というラ
ビ数人による討論だった。
800人の信徒が会場につめかけ、入場できなかった者も多かった。


 もう一つ暗示的なことがある。
今日のユダヤ人大学生の中で最も人気のある作家はロス、マラマッド、ペローと
いった非宗教的懐疑論者でなく、シュテットルの超自然的神秘的な物語を書くア
イザック・シンガーである。
シンガー自身は、大学生が彼の作品を好むのは年長者の物質主義、合理主義、非
神秘哲学に対する反動の現われだと信じている。
若いユダヤ人は自覚しているいないかにかわらず、神というものをなんらかの方
法で探究しているようにみえる。


 いま一度言う。
誰がはっきりできようか? 
特定個人の場合を例にとってつぶさに調べてみるがよい。
同時にこの質問に両面の答えがでてくる。
神を信ずると公言するユダヤ人はどういう意味で言っているのか? 
神の神秘を本当に感受しているというのであろうか。
それともヒトラーの大虐殺、水爆、冷戦を恐れての反応なのか?
あるラビが「インスタント信仰」と呼んだものを自分の不安に対する麻酔剤とし
て求めている人が彼らのうちに何人いるだろうか? 
過去16年間に会堂出席と家庭内祈祷が増加したが、同時に麻薬の使用も増加し
た。
宗教は地位ある者にとってLSDなのか――それともLSDは落伍者の宗教なの
か?


 これらの問いはユダヤ人だけでなく、今日の西洋社会のすべてに問うことがで
きる。
キリスト教も独自の多義的な危機を迎えている。
人はキリスト教にも背を向けつつあるようにもみえるし、ルネサンス以後の人々
よりもはるかにキリスト教に対して興味を抱いているかのようにもみえる。
いままでよりもキリスト教神秘主義者、反キリスト教不同意者が多くなっている
ようにみえる。


 しかしユダヤ人のほうが多義性が強い。
危機はもはや痛いものではないかも知れないが、キリスト教徒は自分が望めばキ
リスト教を捨てることも可能である。
問題は自分が望むか望まないかである。
だがユダヤ教徒は捨てたいと思っても不可能に近い。
ふり捨て踏みつけ、あらゆる痕跡を埋めつくしても――何かそれ以上のものがま
だとりついているのである。
 だからこそユダヤ人には無神論者が多いのかもしれない。
ユダヤ人にとって自分の信仰を捨てることは簡単である。
そういうジェスチャーをしても手ぶらになることがないのを知っているからであ
る。
「祈る必要はないじゃないか?」と自分が言っていることを知らずに独り言を言
う。
ユダヤ人である道はほかにもたくさんある」


この章、完了。


注1 Manheim S. Shapiro, As We See Ourselves: The Baltimore Survey, conducted by AJC in 1962.
2  I am indebted here and elsewhere to Rabbi Samuel Rosenbaum's entertaining survey of synagogue
   bulletins, "As We See Ourselves," Conservative judaism, Spring, 1965.
3  Quoted by Albert I. Gordon, jews in Suburbia, Boston, Beacon Press, 1959.
4   Reported by Manheim Shapiro at the thirtyfourth General Assenbly of ths CJFWF, 1965.
5   The jewish Teenagers of Wilkes-Barre, a study made by A]C, 1965.
6   A Survey of the Political and Religious Attitudes of American College Students," The Educational
   Review, 1965.
7  A 1966 Gallup Poll, quoted in Catholic Digest, June, 1966.
8 "The State of Jewish Belief: A symposium," Commentary, August, 1966.