創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(716)『アメリカのユダヤ人』を読む(2)

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5月8日(日曜)までのGW中は、拙訳『アメリカのユダヤ人』(日本経済新聞社 1972)を分載しています。


イザヤ・ベンダサン著 山本七平さん訳『日本人とユダヤ人』に啓発されながら、「妙だな」と感じました。
古代宗教が現代社会に入ると、オーソドックス(正統派)、コンサーヴァティヴ(保守派)、リフォーム(改革派)に分離するということを『アメリカのユダヤ人』で学び、かつ、ニューヨークの広告人たちに接して実感していたからです。


ベンダサン氏は古代ユダヤ人のようでした。「へえ、こんなユダヤ系のアメリカ人が、ほんとうにニューヨークに住んでいるのか?」とおもいました。
そういう目で、ベンダサン氏を見た人は、ほとんどいませんでした。


そうそう、昨日の「訳者あとがき」で触れた、えびや貝の握りを口にしなかったカーニット夫妻はオーソドックス、食べたギルバート夫妻はリフォーム派のユダヤ系だったのです。
リフォーム派のギルバート夫妻は、冷凍冷蔵庫が普及している現代に、砂漠の地で腐る心配をしてえびや貝を入れた食物戒律は、いまでは守る必要はないと決めこんでいたのです。



拙訳『The Americsn Jews 邦題:アメリカのユダヤ人』―――から(2)



建  設 


特殊分子 きのうのつづき


(今日アメリカにどれくらいのユダヤ人がいるか、誰も知らない。
統計、学術的論文や類別された情報の収集で著名な『アメリカのユダ
ヤ人年鑑』には570万人と記されている。
しかし、国勢調査局には宗教に関する質問権がないので、全国に散ら
ぱっているユダヤ人共同体の広報委員会の報告を基にする以外はない
が、この情報収集の手段はいきあたりばったりだと言ったほうがいい)
      ( ――昨日分の末尾のブロック ―― 重複分)


 最も一般的な方法は各地の会堂に会員数を聞くやり方だが、多くの
ユダヤ人、特に大共同体のユダヤ人はどの会堂にも属していないので、
この方法ではユダヤ系人口をかなり少なく見積もることになる。一方、
ユダヤ人の中には一つ以上の会堂に属している者もいるし、会堂は会
員数のサバを読むことで名高い。
埋葬数からも推定できる。
ユダヤ系の年間死亡率の数字は信頼性があると考えられているから、
ユダヤ人共同墓地での埋葬数から推計するわけである。
氏姓からの推測法もある。各地の電話帳からユダヤ系姓の比率を出し、
ユダヤ系に改姓したユダヤ系の比率を加えればいい。


例えば、アメリカのユダヤ人が五七〇万人いるとしてみよう。
全人口の3%にも満たない。
その80%が人口10万以上の都市に住んでいる。
人口5,000以下の都市に住んでいるのは20万人である。
人口5万以下の都市のユダヤ人は1%にも満たない。
ユダヤアメリカ人はほとんどワシントン以北の北東部……北バージ
ニアからボストン、南ニューハンプシャー地区に住んでいる。
しかしユダヤ人はいたる所にいる。
728の共同体がユダヤ人連合委員会・救済基金(地方慈善団体の
統合機構)に関係しており、その他200〜300の共同体が何らか
の宗教的な団体を有している。
人口5,000以上の都市にはユダヤ家族が最低一世帯はいる。


 ユダヤ系が最も多いのはニューヨーク市である。
その数は238万1,000人で市民の25%にもあたり、ユダヤ系ア
メリカ人の半数近くを占めている。
次がロサンゼルスの50万人。
それから多い順にフィラデルフィア、シカゴ、ボストン、ニューアー
ク(それとエセックス郡地区)、マイアミ、ワシントン、クリーブラ
ンド、ボルチモアとつづく。
だが向こう10年間で順位の入れかわりも考えられる。
シカゴはかつて第2位にランクされたこともあるが現在は急速にユダ
ヤ人が減りつつある。
南部もユダヤ人が減っている。南部9州に現在15万人のユダヤ人が
いるが10年後にはもっと減っているだろう。
これは全国的に起こっているある現象の結果でもある。小さな町で生
まれた若いユダヤ人は大学を卒業してもほとんど故郷へ帰らない。
大都市へ移ってしまうのである。


 だが今日、ユダヤアメリカ人で最も重要な地理的分布の現象は小
さな町から大都市への移動ではなく、大都市から郊外への移動である。
この傾向は他の中産階級アメリカ人も同じだが、ユダヤ系のほうが
激しい。
それを物語る好例がある。
クリーブランドの中心地にある公立高校はこの4年間ユダヤ人卒業生
を1人も出していない。(上流社会サークルにその地位を保っていな
がらもユダヤ教に誇りを抱いている古く貴族的なセファーディック家
系も少しはあるが)クリスチャンと結婚した者やキリスト教に改宗し
た者がいることが主な原因ではない。
相互結婚によって消えたのではなく、相互結婚を拒杏したために消え
たのである。
ユダヤ教徒間で十分な選択ができなかったために未婚のまま死に絶え
てしまったのである。
彼らは新しい生活を夢みてこの国にやってきたに違いないのに、同化
融合よりも滅亡の道を選んで終わってしまったのである。


 アメリカにやってきたドイツ系ユダヤ人――冴えず無神経で想像力
に欠けた公民――も内面では同様の矛盾を含んでいた。
東欧からの侵入に対する反応を見ても明らかである。
彼らは「ロシア人」(すべての東欧系移民を軽蔑の意味をこめてこう
呼んだ)を軽蔑した。貧乏で、奇妙な衣服をまといマナーもいやしく、
粗野で不快なアクセントの英語を話すからだった。
そしてロシア人を軽蔑する以上に、恐れてもいた。
この野蛮人の大群が、ロシア人だけではなくドイツ人に対しても徐々
に向けられつつあった反ユダヤ主義に対しての反動を起こすのではな
いかと不安に思ったのである。
「この連中」と同系だと混同されてアメリカ社会での居心地よい立場
をおびやかされるのではないかと恐れおののいていた。


 ドイツ系の連中がイディッシェ語を話すロシア系の連中にいらだっ
ていたのはこのためだった。
何世紀もの間、イディッシュ語はシュテットルの言葉だったが、そこ
で生まれたのではない。
もとは十字軍から逃れた中世のユダヤ人たちが東欧へもたらしたドイ
ツ語の一方言である。
だからドイツ語がわかる人ならイディッツュ語も十分理解できた。
ドイツ系ユダヤ人には「この連中」がこの忌わしい言葉を話すたびに
「俺もお前と同じなのだ!」とでも叫んでいるように映ったのだろう。


 ドイツ系は新しい移民を助けるためにおびただしい博愛的な活動を
起こしたが、多くの場合、動機は疑わしいものだった。
移民の流れのチェックも説得して祖国へ送りかえすこともできないと
悟ると、ただ一つ残された道をとった。
ロシア系の連中の汚ない顔を洗い、恥ずかしくない程度のアメリカ的
衣服を着せ、英語や食卓マナーを教えて異教徒の目に感じよく映るよ
うにするために金を注ぎこんだ。
彼らは恐れと当惑と、そうしなかったら異教徒が連中を非難すると考
えてやったまでである。
そして腹いせに無力な移民をできるだけ侮辱的に扱い、スープと殺菌
剤と職を恩着せがましく与えた。


 この時期のドイツ系ユダヤ人の手紙や記録や新聞記事にはこの種の
恐れや俗物根性が散見できる。
例えばドイツ系ユダヤ人の親は東欧系の連中と「相互結婚」するよう
な恩知らずを働いた気まぐれ娘に罵冒雑言を浴びせた。
「キー」で終わるロシア姓をもじって「カイク」(ユダヤ系の蔑称)という
言葉をつくったのもドイツ系ユダヤ人である。
ドイツ系ユダヤ人の非公式の精神的指導者で偉大なラビ、アイザック
・ワイズは、移民割当法が通過する何年も前から政府に通過運動をし
た。効果がないとみると、こんどは移民をニューヨークからパレス
チナへ復帰させようとしばらく革命的なシオニズムユダヤ人をパレスチナへ復帰させようとする民族運動)を唱えた。


この鼻もちならない姿勢は、移民たちが驚異的な存在でなくなった後
もつづいた。
第二次大戦当時、ニューオリンズの由緒あるドイツ系ユダヤ人の10
代のある娘は、USO(アメリカ兵サービス機関)やユダヤ人救
済委員会主催のダンスパーティに行くと東欧系の軍人と踊らされるの
を嫌って参加を拒否したという。


 これが事実であったとしても、反面、真実とは言えない点もある。
ドイツ系移民の慈善活動をざっと片づけるのはあまりにも安易すぎる。
単に恐れや困惑だけでこういった活動が行なわれるはずはなく、勤勉
さや理解力、そして自己犠牲的な献身行為があってはじめてできるの
である。
そのよい証拠は各地のローアー・イーストサイドにできたセッツルメ
ントーハウスである。
「しらみ駆除施設」として始まり、移民の教育的、社会的な必要を満
たす複合組織へ急速に発展していった。
その最も有名なローアー・イーストサイドにある教育同盟――189
1年にドイツ系ユダヤ人の名門グッゲンハイム家、モーゲンソー家、
シフ家、ルイゾーン家の寄付で設置された――では、英会話教育から
医療保護、正統派礼拝にいたるすべてが提供された。
無料の室内楽演奏会、講習会、芸術授業、子供運動会なども行なわれ、
第一次大戦開始までに100万人もの移民が恩恵をこうむった。


 卒業生の中にはダピッド・サーノフ(元RCA会長)、ジョージ・ガーシュイン楽家)、ゼロ・モステル(俳優)、
チャイム・グロス彫刻家)など、今日アメリ
で有名なユダヤ系の人が何百人も顔をそろえている。
教育同盟とそれを真似てつくられたセッツルメント・ハウスの悪口を
言うものはいない。
もしこれが苦々しさと売恩的精神だけでつくられたとしたら、これほど
の効を奏し、物質的な必要だけでなく人々の感情の奥底にまで浸透して
いたことを説明するのはむずかしかろう。


 ドイツ系ユダヤ人や多数の個人寄付でつくられた福祉組織の多くを詳
細に調べてみると、冷笑的な説明が的外れであることがわかる。
初期は金持ちの俗物的ドイツ系会員に限られていたアメリカ・ユダヤ
委員会(以下、ユダヤ人委員会)は1904年のロシアでのユダヤ人虐殺に応えて誕生した。
さしのべられた救済にはアメリカまでの旅費も含まれていた。
同じことは一八八二年にドイツ系改革派ユダヤ教の公式本部……アメリ
ユダヤ教会衆同盟(以下、会衆同盟によって設立されたユダヤ移民援助団体にもいえる。
これらの例をはじめとして何千もの例は、ドイツ系ユダヤ人の中でゼダ
カ――神の哀れみの精神にあるユダヤ教の慈善「己れの民を看る」など
の昔からの理想がいまだ死に絶えていないという事実を示している。
いまなお生きながらえているこれら旧世代の人たちは「彼らを助けなけ
ればならなかったのです。そうでしょう? 彼らはユダヤ人なのだから」
と口を揃えて言う。


 さらに問い詰めると、こうつけ加える。「本当を言う連中を好きには
なれませんでしたが」。これがドイツ系ユダヤ人の東欧系ユダヤ人に対
する真実の姿を示していると思う。
俗物根性と哀れみの二つの動機が同居していたのである。
この時期の指導者連や有力な機関の行動にもこの同居がうかがえる。
かずかずの業績をあげた教育同盟もイディッシュ語の本を無料図書館に
置くことだけは拒否した。
事実、ある期間、ニューヨーク州立図書館が「あなたの本が読みたけれ
ば当館へ」といった意味のイディッシュ語掲示を出して人々をひきつ
けていたことがあったほどである。
東欧出身の若者に医師養成教育を施すベス・イスラエル病院を創設した
裕福なドイツ人も、山の手の自分たちのシナイ山病院には東欧系の医師
を置こうとはしなかった。


 これに対して東欧系の人たちは、昔ながらの負け犬のやり方で応えた
「yahuda」(ヘブライ語ユダヤ)とか「all rightnik」(いつも正しいことをしているというスラング
といったようなさげすみの意をこめた名前を考案してドイツ系の連中の
自負を嘲笑った。
それは憎しみを秘めた嘲笑いであった。
こうした衝突の真只中に育った東欧系移民のある息子が私に言った。
「ドイツ人とロシア人との違いは前者の父親が後者の父親よりも25年
早く商売を始めたということだけだ」。
彼の口調にはいまいましさがのぞいていた。
しかし同時に、東欧系ユダヤ人はドイツ系ユダヤ人を羨望視し、財産が
できるとその真似をしようとした。
ドイツ風に改姓したり、系図をドイツ系に捏造した。
移民の途中オーストリア領内をちょっとでも通ったロシア系ユダヤ人は、
自分をドイツ人と呼びうる権利を得たと感じた。
今日でさえ旧世代のユダヤ人は、東欧出であることを本能的に隠そうと
する。
ある婦人に両親の出身地を尋ねると「オーストリアです!」と答えたあ
と視線を伏せて、
「ロシアやポーランドのそばですが」と小声でつけ加えたものである。


 だから、ドイツ系ユダヤ人が発明した「カイク」というような蔑称を、
金を貯めて山の手へ移った東欧系ユダヤ人自身がまだローアー・イース
トサイドでうごめいている同胞に向けて躊躇なく投げかけたのも不思議
ではない。
かつての屈辱に報復する機会がはからずも東欧人たちに訪れた。
一世代後の1930年代に、ナチスの手を逃れた難民がアメリカヘ流れ
こんできたのである。
突如として、ドイツ系ユダヤ人は金も職もなくひどいなまりで話す新参
者となり、「allrightnik」となった。
東欧系ユダヤ人はその立場を利用した。
新参者を「arroghtnik(野暮天)」と軽蔑的に呼んで恩着せがましく
古着を恵んだ。
30年代を通じてユダヤ人共同体の中でドイツ系難民を皮肉ったジョーク
が流行した。
アメリカのコッカー・スパニエルにドイツ生まれのダックスフントが言う。
「ドイツでは私はセント・バーナードだった」)。
しかし東欧系の人たちも新参者を救済すぺく不時損失準備基金を設け、必要
と同情から一人でも多くのユダヤ人をドイツからアメリカヘ移すために大金
を注ぎこんだ。
一世代前に彼らを虐待した連中に働いたのと同じ二つの動機が彼らにも作用
していたのである。


 それもいまは終わってしまった。
時のながれとアメリカの教育体系とヒトラーとがこのうんざりする闘争に終
止符を打ったのである。
1930年代、シカゴ在住のドイツ系ユダヤ人が私の父母に、ドイツにいる
親類にまではナチスの危険な手は伸びないと語ったという。
「外国出身のユダヤ人を牢にぶちこむだけだから、私の親類は大丈夫です」
ところが一族が皆殺しになっていたことを彼は5年後に知った。
ナチスにとってはユダヤ人はユダヤ人にすぎず、全員を民主的に公明正大か
つ平等にガス室に送りこんだという発見が、この知人にロシア系に対する彼
の偏見を再検討させることになった。
数年後、彼の娘はリトアエア出身の父を持つ青年と結婚した。


 ドイツ系が恐れていたいまわしい「相互結婚」も大量に起こった。
今日ロシア系の血が混ざっていないドイツ系家系はほとんどない。
ロシア系移民の息子あるいは少なくともその孫は、ドイツ系の息子と同じ高校
や大学へ進み始めた。
そして同じ上品さをすべて身につけている。
もうロシア系ユダヤ人とドイツ系ユダヤ人を区別することはできない。
東欧系を体裁よく見せるためにドイツ系ユダヤ人がつくりだした立派な諸機構
――連盟、病院理事会、ユダヤ人委員会――を東欧系の子孫が引き継いでしま
ったことが決定的打撃となった。
いまではそのことを気にする者すらいない。


 事実、今日では、シュテットル出身の祖父を持っているのはむしろシックと
さえ考えられている。
われわれはショーロム・アレイシェム(イディッシュ語作家)やアイザック・シング(作家)を読む。
屋根の上のバイオリン弾き』をほめそやす。
そしてユダヤ人独特のユーモア集に出てくるようなジョークもとばす。ハダサ晩
餐会で、
女A「夫と来週ヨーロッパ旅行をしますの」。
女B「ヨーロッパですって? すてきですこと。私はそこで生まれたんですの!」


とりわけすごいパラドックスが、最初から東欧系移民の魂にあった。
ドイツ系移民はアメリカ化したと責められる。
ひげをそりおとしアメリカ調の衣服をまとい、イディッシュ語を話さないといって
責められる。
東欧系ユダヤ人から、自分たちは心ならずもこうした侮辱に連座しているのだとほ
のめかされているのである。
この問責は正当とはいえない。ドイツ系ユダヤ人がすすんでそうしなかったとして
も結果は同じだったろう。


 移民団が移ってきたアメリカのゲットーは、表面的には出身地のシュテットルと
大差なかった。
同じ貧困、汚物、混雑、騒音があった。
同じ船でしらみやねずみも渡ってきた。
シュテットルとローアー・イーストサイドの真の違いは、物理的なものではなく精
神的なものだった。
シュテットルには明確な価値基準、文化上、宗教上の伝統があった。
住民のほとんどはそこを去りがたく思い、自分たちの文化を賭けるより、恐ろしい
貧困や虐殺、独裁者の軍隊への徴兵のほうを選んだ。
だからシュテットルから脱出しだのは、賭けのほうを選んだ人々だった。
ほとんどが未婚男性か幼な子をかかえた若夫婦だった。
長い白ひげをたくわえた年老いたラビ――スラムを描いたセンチメンタルな小説に
登場する人物――もいることはいたが、その数はごく少なかったので、異端者や不
平分子、希望に満ちたあるいは絶望的な若者などに押し流されそうだった。
今日の若い知性派がシュテットルの感傷的な思い出にふけるようなことは全然ない。


 ローアー・イーストサイドについても感傷的になるようなことはない。
逃れてきた世界と同じものをアメリカにつくる気もなかった。悪夢のような世界で
暮らすために恐ろしい航海をしたのではない。
ここがシュテットルとローアー・イーストサイドの大きな精神的な違いだった。
シュテットルは住むための場所だったが、ローアー・イーストサイドは出発のた
めの仮りの住まいだった。


 しかし、何を求めての出発だったのだろう? 
ローアー・イーストサイドの外にはただ一つの世界しかなかった。
アメリカである。
移民たちはその世界についての知識もないままとりかかったが、目を見開き続け、
すぐに学びとっていった。
魅力的なことがたくさんあることに気づいた。
好きな所に住み、好きな神を信仰し、好きなものを食べることを妨げる法律など
全然なかった。
なかでも最も良いものをクリスチャンに限らずユダヤ教徒も利用できることは最
高であった。
新参者たちはドイツ系ユダヤ人がうまくやっているのをみてとった。「yahuda」
アメリカで成功できるのに、自分たちにできないことがあろうか?


 ドイツ系ユダヤ人はこれらの移民たちが熱心に望んだほどには、彼らをアメリ
化したいとは願わなかった。
ハーベイ・スワドス(作家)の言葉によると
アメリカで財をなしたいと一心不乱になっている」(註4
友がいるとなっている。


 この一心不乱さはいろんな形で顔を出した。
まず英語を学んだ。
教育同盟やその他の組織が後援者となって高度で知的なテーマの講演会が開催
された。
論争は理解できなくても耳を英語に馴らそうと考えた若者で満員だった。
モーリス・ヒンダスは少年時代を思い出して、親切な教師が英語を学ぶための
分厚い本をくれた
ことを話している。『アダム・ビード』(G・エリオットの小説)だった。
彼はふんだんに使われているイギリス中部地方の古代方言を途方にくれながらも
骨折って理解し話すことを学んだ結果、みごとな英文を書くようになった(註5)。


 ほとんどの若い学生は絶望的な貧困に苦しんでおり、この地域一帯にある衣料
工場で働かなければならなかった。
12時間機械に向かったあとの夜とか週休日に、読書したり授業に出た。
移民の英雄のことを書いた小説を読んだ夜は眠ることを忘れるほどだった。
大志を抱く女性も多かった。
昼は6人ほどの子供の面倒を見ながら週一、二回は夜間授業に出席していた。
「真のアメリカ人」になろうとする一心不乱さは、移民の熱心な愛国心の中にも顔
を出した。
70歳を過ぎてなお立居振舞いがきびきびしている老人が私に言った。
「わしらはもう船に乗る前から立派なアメリカ人になっとった」
この愛国心は幼稚な人や無邪気な人だけにとどまらなかった。
フェリックス・フランクフルター裁判官)は、
愛国心とは――第二次大戦中の最高裁判所で彼が申し渡した不穏な意見の申し開き
であるウィットネシズ(キリスト教の一派で絶対平和主義を奉じ、宗教上のことに関しては
政府の権威をも認めない )の子供たちが国旗に忠誠を誓うことを拒んで学から追放
されるようなものだと考える。
アメリカ哲学界のうるさ方であり、最高に知的なエール大教授ポール・ワイズは
ローアー・イーストサイドで少年時代を過ごしたが、当時、あるものを買うため
に兄と苦労して金を貯めたことを語る。
2人が買ったのはアメリカ国旗だった。


 移民の愛国心は根本的には感情的なもので、自分たちをよく扱ってくれる国への
愛情の発露だった。
しかしなかには理性的な理由づけをしようと骨折っている社会学者もいる。
アメリカはユダヤ人の天才が育つにはもってこいの肥沃な土壌だった。
中流階級の国であり、ユダヤ人も中流階級的な人間だった。
教育と勤勉さを讃えた。
ユダヤ人もそうだった。
志向するところは根本的には都会的なものだった。
ユダヤ人も何千年もの間都会的な精神を持たざるを得ないように強いられてきた。
すべてもっともらしい。


 しかし一言警告が必要である。
ユダヤ人は自由と安全を与えてくれる国に肥沃な土壌を発見する癖がある。
かつてハインリッヒ・ハイネはこう言った。
ユダヤ人の性格はドイツ人の性格に酷似している」(註6
ディズレイリー(英国の作家、政治家)は、「ユダヤ人に本
質的には君主政体にふさわしく宗教心の篤い保守的な人
種である」(註7)と主張した。


 しかし東欧系移民を動かしたのはアメリカ人になりたいという衝動だけではない。
もしそうなら、アメリカでのユダヤ人の今日の生活は大きく違っていただろう。
もしかしたら存在していないかもしれない。
彼らは自分の昔からの伝統を固持したいという相等しく強い衝動により、分裂した人
格である。


 このパラドックスが初期の移住者、ドイツ商人、東欧系移民を性格づけるものなら
ば、今日のアメリカのユダヤ人の中にそれを見出しても驚くことはない。
変わることなく現在の彼らにもそれは流れている。
もはや大志と伝統間の闘争のような形では現われないが、新しく変わった形で現われ、
アメリカのユダヤ人がその直観やマナーや希望や業績にそれを組みこんでいる。
この分裂した人格がアメリカのユダヤ人生活を理解する鍵である。


註:
4 Harvey Swados, "A Sentimental Journey to the Lower East Side," The New York Times Magazine,
September 18, 1966. (A superb example of the
modern style of personalized journalism.)
5 Maurice Hindus, Green Worlds, New York, Doubleday, Doran and Company, 1938.
6 Quoted by Marvin Lowenthal, "Don't You Believ Midcenfury, 1955.
7 Benjamin Disraeli, Coningsby, New York, G.·P. Putnam's Sons, 1961. (Disraeli puts this phrase in
the mouth of a character in the novel, but the context makes it clear that she is expressing the author's opinion.)