創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(791)『アメリカのユダヤ人』を読む(31)

 

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生  活


平信徒の宗教 (3)


 たしかにユダヤ人のリペラリストには曖昧さがあるが、ユダヤ人過激論者に
はそれがないと言われる。
過去100年間というものユダヤ人は社会主義から無政府主義へ、そして共産
主義へとさまざまな運動に深いつながりを持ってきており、しかも表面的には
こうした運動へのつながりに教区的偏狭さは見られない。
事実、ユダヤ人過激論者は「ユダヤ人のためになるか?」という暗黙の疑問を
無視する傾向が強く「人間性にとってためになるか?」という疑問だけに原則
として興味を持っている。


 にもかかわらず、非ユダヤ人の過激論者とも違っている。
ユダヤ人らしさが無意識のうちに思考感情にはいりこんでおり、その過激主義に
は特別の様相すらある。


 今世紀初め、彼らは情熱をこめてユダヤ教を拒絶していた。
ローアー・イーストサイドの共産党員ダニエル・ドレオンは、カソリックだとい
つわってユダヤ教を軽蔑してみせた。
敬虔な人たちが祈りのために集まる会堂の前で若い過激派はハムサンドを食べて
みせ、陵罪日が意味を持たないことを示すためにワイルドパーティを催したりし
たものである。
そうしてユダヤ教を拒絶したものの、ユダヤ人社会を去ろうとはしなかった。


 それどころかユダヤ人共同体の指導者になっていった。
東欧系移民には無知な人間が多かった。
アメリカでの成功が望みであり、そのために教育が必要なことを知っていた。
当然、仲間うちでも最も知的で産業化された都市社会に近い人間となっていった。
そういう人はだいたいが過激派であった。
過激派は、移民たちが宗教の束縛から逃れない限り社会主義的な夢は実現されな
いように思い、それには移民たちをアメリカ化する――要するに世俗化する――
のが最良だと考えた。
皮肉なことに東欧系過激派はドイツ系ユダヤ人の大金持ちがやっていたのと同じ仕
事を仲間のユダヤ人の間で行なっていたのである。


 この仕事を遂行するために過激派は三つの機関をつくり出した。
まず手はじめに労働組合が現われた。
特に衣料産業労働組合
次に労働者サークル活動が盛んになり、ユダヤ人全労働者対象の半政治的半社交的ク
ラブがいくつも登場し、英語の教育、社会福祉、政治的教化などをやった。
最後に1897年にアブラハム・カーハンが最大のイディッシュ語新聞、ユダヤ人デー
リー・フォーワード紙を創刊した。
この新聞はフォーワード協会所有になり、社会主義機関に属していることを立証しな
ければ会員になれなかった。
これはいまでもそうである。


 彼らは無報酬で奉仕し、利益はすべて新聞にまわされた(後にはイディッシュ語
ジオ局WEVDにまわされるようになり、フォワード紙が続いているのはWEVDの
ためである)。
最盛期の1917年には、発行部数237,000部を誇り実力は部数以上にあった。
議論の果てに人々は「本当だよ。フォーワードに出てたんだから」としめくくったも
のである。


 しかしフォーワードも人気があり、労働者サークルの力も強かった当時でも、
過激派の指導者と移民の追随者の間には違いがあった。
指導者は追従者に恩着せがましい態度で臨み、その世俗的な望みを嘆き、すぐれた
人間に変えようとした。
追従者は恩恵のほうはありがたく頂戴したが、イデオロギーのほうは受け入れなか
った。
過激派に共感を示すのが関の山だった。
大虐殺を辛うじて逃れてきたばかりの移民たちにとって、専制君主を悪くいう人間
が悪かろうはずはなかった。
1930年代には、左翼の人間は過激派グループの統合機構であるユダ
ヤ人労働者委員会に属して誰よりも古くから反ファシストであったとい
う事実を多くユダヤアメリカ人は受け入れ、以前と同じ表面的な共感が
起きた。
しかしユダヤ人労働者がこの委員会を支持したのは反ファシズムゆえであ
って、社会主義を信じたからではなかった。


 要するにユダヤ人過激派がユダヤ人社会の一部であり得たのは反ユダヤ主義
を主題に選んだからだった。
過激主義が反ユダヤ主義との戦いと同等のものである限り、過激派は仲間から
拒絶されないで宗教を拒絶することができたし、自分の過激主義をユダヤ人的
な基盤にすえることすらできた。
自分の論理的観念と予言者の教えには類似点があると言って人びとの注意をひ
きつけた。


 「過激でなくしてユダヤ人でありえない」が昔の労働者サークル
の哲学であった。
ブラハム・カーハンは労働組合主義を聖書用語を使って説明し、レ
ピ記から引用してストライキを正当化した。
そしてタルムドの戒告「すべてのユダヤ人は互いに対して責任があ
る」は社会主義者の資金カンパのスローガンに用いられた。
デピッド・ダビンスキーのような人間を生んだのはこういう雰囲気で
あった――彼はローアー・イーストサイド出の社会主義議員モリス・ヒ
ルクイットの写真が見下ろす机に座してイディッシュ語の諺を引用した。
1920年代にアナーバーにやってきて労働者サークルのヘブライ語
校の設立に力を貸し、黒人の地方教会を建て、安息日には会堂に通った
――信仰心がないからとモーゼ五書を読むことは拒否したが――トム・ク
ックのような人物を生み出したのもこういう雰囲気であった。


 そんな雰囲気はもうない。
反ユダヤ主義の衰退、ファシズムの敗北がそんな雰囲気を四散させ、それ
まで隠されてきた厳しい現実をあらわにした。
古い過激論者は追従者が彼と価値観を分かちあってはいなかったことに気
づかざるを得なかった。
アメリカの平均的ユダヤ人はブルジョワ中流階級の仲間に加わりたがった。
古い過激論者はどう考えてみても、ユダヤ教の拒絶と同時にユダヤ人社会を
も拒絶すべきであったが、できなかった。
生まれながらにしてユダヤ人であり、その中で生活をしてきたので、単にイ
デオロギー的理由でユダヤ人であることを放棄するのは容易ではなかった。
彼は常に「人類」に属していると思ってきた――だが、実際上の問題がからん
で「人類」とは仲間のユダヤ人以外の何ものでもないことに気づかざるを得な
かった。


 昔の過激論者たちはいろんな方法で現実にあわせるようになった。
大多数は中年の自由主義者に落ちついたが、徹底的な変身ではなかった。
それは彼らの一人がこう言っていることでもわかる。「今日の共和制主義者は
君が昔社会主義者として戦ってきたことを支持してくれている」
そして今日の労働運動は、アメリカのすべの運動と同じように一つの体制にな
ってしまつた。
若者は、もはやこれには参加しない。
彼らには理想的ではないからである。
しかし1920年代、30年代の若き獅子たちはいまや労働関係弁護士、調査
員、PRマソとなって満足しきっている。
彼らは大企業で同じ仕事ができるなどとは考えもしない。


 この新しい状態は、イスラエル労働組合ヒスタードルートの創始者が数年
前にアメリカの中西部のある町を訪れた時に浮き彫りにされた。
彼はその土地の労働者サークルに直行した。
そこでは執行委員会の最中であった。
彼はその町にヒスタードルートの支部をつくりたいのでスペースが欲しいと頼
んだ。
すると自分たちは社会主義者シオニストびいきではないから協力は断わるが、
明晩正統派の会堂へ行ってそこの理事会に頼んでみたらと教えた。
忠告に従うと理事会はスベースを与えてくれた。「でも変なんですよ。会堂で
私が会った連中と前夜労働者サークルで会った連中は同一人物だったんですから
ね」と彼は言った。


 昔の過激論者の一部の少数グループは、戦後の世界を再調整するのはたいへん
なことだと悟った。
そういう人たちも、いまは歳をとり過去に生きている。
フォーワード紙の発行部数は8万部に下がり、読者は年配者である。


 ニューヨークのフィルハーモニックーホールでのフォーワード70周年祝賀会に
は2,400人が出席して講演を聞き、イディッシュ語の古い歌を歌い、強制収容所
で殺された同胞への黙祷で幕がおりだ。
フォーワード紙はいまだに以前の紙面構成――イスラエルのニュース、歴史」小説、
労働者の生活に関する報告記事、「ピンテル・ブリーフ」の身上相談欄(いまは精神
科医的でアン・ランダー的である)など――を維持してはいるが、すでに死につつある
団体と自らも自覚している。
「あと20年もてばいいほうです」と編集長は言う。
そして大会受付の上のスローガンを読めば、新聞とローアー・イーストサイドの世界に
起ころうとしているものを象徴しているようである。「私はイディッシュ語が話せます」
とある。


 わが子に自分の考えを伝えた老過激論者も多い。
今日の新左翼に属しているユダヤ人青年の多くは「赤おむつで育った赤ん坊」である。
ミシシッピーのKKKに殺された2人の公民権運動家ミカエル・シュワーナーとアンドリ
ュー・グッドマンも古い社会主義者の家庭の出であった。
 

 この新世代は先祖伝来の遺産を昔とは異なったものにしてしまった。
両親は過激主義をユダヤ人の立場で支持することができた。
新しい種はユダヤ人であることを無視して支持しなければならないのである。
彼らの親は所有せざる者の名において貧個や偏見と戦ってきた。
しかし今日の若い過激論者は中流階級の裕福な家庭の出である。
彼らはユダヤ人の価値基準に抵抗せずしてブルジョアの価値基準に抵抗することはできな
い。
彼らの目にはユダヤ人と異教徒は区別できないものに映っているからである。
会堂で左翼のユダヤ青年に出くわさないのも、ヒレルや連合体やシオエスト青年部でもお
目にかかれないのもそのためである。


 彼らは左翼運動に従事している非ユダヤ人と同じであろうか? 
彼らにはイデオロギー的にも気質的にも、ユダヤ人的と呼べるものはないのであろうか?


 彼らには左翼の哲学では完全に説明できない独特の心情があるように思える。
彼らの親にもそれはあった。
昔の過激論者は性急で過激な言葉をロにし、ロシアの虐殺の思い出があったにもかかわら
共産主義者に転ずることはまずなかった。
1936年にフォーチュン誌がアメリカの共産主義者を2万7,000人と発表した。(注9)
このうち、15%にあたる3,500人か4,000がユダヤ人であった。
だが当時のユダヤ人口は450万人を越え、移民の間では貧困、開発、過激な活
動が盛んだったにもかかわらず、共産主義者に転じたのは1,000人に1人いる
かいないかだった。


 それにユダヤ人過激論者は共産主義に無関心というよりも大反対の立場をとった。
1920年代初期にフォーワード紙はソ連にとって致命的な現地報告を初掲載して
以来、共産主義反対の編集方針をとってきた。
国際婦人官公庁労組(ILGWU)は多くのユダヤ人労働者同様、ものすごい闘争
を経て1930年代には共産主義者の勢力の手から逃れていた。
教員組合も戦後間もなく同様の闘争を行なった。
そのほとんどの指導者たちは過激主義者家庭の出身だった。


このつづきは、23日(土),24日(日)。