創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(811)『アメリカのユダヤ人』を読む(37)

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生  活


ほかに誰をあてにできる? (2)



(承前)
 結婚する真の目的は子供をつくることである。
子供は家庭生活の正当化であり関心の的でもある。
シュテットルでは10年経っても子供のない夫婦は離婚を余儀なくされること
が多かった。
もちろんこんな野蛮な習慣はアメリカにはないが、似たような感情は残ってい
る。
ユダヤ人は他の人よりも養子をとることが多く、ほとんどの州では養子をとる
両親と子の宗教が同じであることを要求しているので、需要が供給を上まわっ
ているくらいである。


 ユダヤ人家庭生活での子供中心主義は少ない子供数にも現われている――全
国平均は1世帯子供3人だが、ユダヤ人の場合は2人である。(注4)
真正正統は避妊はハラカで禁じられていると信じていて6人平均の子供がおり、
15人の子持ちも珍しくない。
だがユダヤアメリカ人は家族計画にだいたい賛同している。
子供をより少なくと望むのは、どの子供にもより多くの愛情を注ぎ、よく面倒を
みたいからである。


 それには子供は自分の延長で、子供に起こることは親にも起こるというシュテ
ットル以来今日まで強く存在する信念が鍵となっている。
ユダヤ人の親が子供のことを強烈に心配し、過保護に走りやすいのもこのためで
ある。
外の世界は厳しい。
家庭は家族を外界から隔離するためにある。
家庭はこの巣の中で固く結ばれて防衛しあう。


 この過保護についてはいろいろ書かれ嘲られもしたが、いまだに過保護ぶりを
発揮している――しかも当然のことと考えてためらいもなく過保護ぶりを吹聴して
まわる。
ニューヨークのヤング・イスラエルに属する会堂の会報に会員2名が「愛しい娘が
通学しているブルックリン大学の近くに住む」ためにフラットブッシュに引っ越す
と投書した。(注5)
おかしいのは親が娘のためにブルックリン橋の向こうに住まなければならないと感
じたことではなく、ためらいもなく投書したことである。


 過保護ぶりは子供の健康に寄せる親の関心にも強く現われている。
ユダヤ人は一般的に言ってゆううつ症である――不安な環境に生きているからでも
ある――が自身のことより子供のことでゆううつ症になることが多い。
もちろんいい面もある。今世紀初め、大多数のユダヤ人は他の移民グループと同様
スラム街に住み罹病率も高かったにもかかわらず、ユダヤ人の乳幼児の死亡率は他
の移民グループよりもはるかに低かった。
しかし子供の健康に頭を悩ますことは一つの愛の表現でもあると同様に、子供を無
力にして成長を妨げることにもなることも忘れてはいけない。


 親の感情の中には、子供は脆く弱く無力で、一人では決心もできないものという
気持ちがある。
ある母親は息子が大学に入るまで頭を洗ってやったと得意気に話してくれた。
別の母親は末っ子のことをしつっこく「私の赤ちゃん」と呼んだ。末っ子はなんと
42歳であった。
引退して責任を31歳になる息子に譲ったある衣料業者は、1年後には営業成績も
ずっと向上したにもかかわらず、家を出てアパートに住むと息子に言われてヒステ
リックに「ああ、息子は今まで自分で何一つやってこなかったのに! 
食事や掃除はいったいどうするんだ? どうやっていくつもりだ?」と言ったもの
である。


 子供に関わりあいすぎて甘やかしてしまう親は、子供を堕落させてしまう。
「すべてを子供に」――この古い諺は、子供にぜいたくな贈り物や寵愛や特権を与え
ることになる。
タクシーの運転手の稼ぎはしれている。
にもかかわらず息子を大学や医科学校にやり、娘に豪華な結婚式をしてやったと自慢
するユダヤ人運転手にニューヨークだけで幾人も会った。
サンフラソシスコのハイト・アシュペリー地区にたむろするヒッピーは親から勘当され
ている者が多いが、ユダヤ人の親はそんなことはしない。
定期的に仕送りしている。
捨てるのかどうかは知らないが、ユダヤ人の親もわが子の振舞いにはがっかりはしては
いるのだが、「赤ちゃん」への仕送りをやめてしまうことはない。


 家庭のしつけも他の民族より厳しくない。
ユダヤ人の親たちは叱ったり小突きはするが、ぶちはしない。
よほどのことをしない限り、父親にぶたれることもない。
そして会話の自由についても寛容である。
ユダヤ人の子供たちは、話を途中でさえぎったり大人に逆らったり「生意気」
であることも許されている。
初めてユダヤ人家庭を訪れた異教徒は子供たちの言動に驚く――親も子もそ
れが当然と思っていて、おかしさに気づいていない。


 それに気づいて悲しむ親もいるが、手の施しようもない。
アメリカ人的な部分では非難するが――アメリカの子供は礼儀正しく上品で丁
重であるべきなので――ユダヤ人的部分では心から非難することができないの
である。
コネチカットのある母親は、息子の怠慢と親不孝ぶりを長々と嘆いてみせたあ
げくにこう言った。
「子供に欲しいとねだられるたびに車を与えてしまうのです。なぜだめと言え
ないのでしょう?」
なぜだめと言わないのかと聞いてみた。
彼女は肩をすくめて答えた。
「だってユダヤ人らしい母親にならないではいられないんですもの」


アンブローズ・ピアスが自己犠牲を「あきらめ」と定義したとき、ユダヤ人の親
のことを指していたのかも知れない。
こういう性質が、親の役目は与えること、子供の役目は貰うことという信念がユ
ダヤ人の老人に対する姿勢にはっきりと現われている。


 この姿勢は昔のシュテットル時代にもあった。両親は子供の面倒をみるものと
され、子供は両親の面倒をみなくてもよいとされていた。
その逆は自然に逆らうことであった。
たまにそういうことがあっても誰もそれが正しいとは思わず、なにかと言い訳を
考え出した。
結婚した息子の世話になっている一文なしの老人がいたとすると、老人と息子と
孫が住んでいる家は老人の所有物ということにした――そうすれば老人はこう言
えるわけである。
「わしは子供といっしょに住んどるんじゃない。子供がわしといっしょに住んど
るんじゃ!」


 老いたユダヤ人が子供の世話にならないためにどんなことでもやるのは今日で
も変わらない。
大金を貯めこんでいない限り、石にしがみついても退職すまいとする。
だから、婦人服製造者組合の会長の座を七三歳で退いてもなおかつあらゆる会議
に出向き、一日中自分の事務室で働き、政策声明を発表するデビッド・ダピンスキ
ーのような人物がいても誰も驚かない。


 たとえ引退を余儀なくされ、妻に死なれて孤独をかこつようになっても、老いた
ユダヤ人は子供といっしょに住もうとはしない。
金があればマイアミビーチやアリゾナやカリフォルニアの南部へちょくちょく出か
ける――気候がよいせいもあるが、子供たちが住んでいる所から離れられるからで
もある。
子供への愛は深いが、距離をおくことで子供に感じているかも知れない依存心を少
しでも減らすことができるのである。
子供から毎月仕送りを受けているにしても、距離をおくことで仕送りを全然関係の
ない匿名の人から受けているふりをすることができるわけである。


 子供と同じ町に住まざるを得ない場合は、子供の家よヽりは安アパートかわびし
いホテル住まいのほうを好む。
ローアー・イーストサイドかグランド・コンコースにとどまり、「子供は子供、わし
はわし」と思えるほうを好む。
老人が一列になって数町ものベンチを埋めつくしているプライトソビーチで日光浴
をしたり、宗教心のためより人間づきあいを求めて毎金曜の晩と土曜の朝会堂に行
く「常連」となったり、近くのゴールデンエージ・クラブヘ出かけて同じ立場の仲間
とトラソプやロ論をする暇つぶし的な毎日を送るほうを好む。


 そしてとどのつまりは老人ホームに入ることになる。
ユダヤ人慈善家は非ユダヤ人慈善家よりも老人ホームヘよく寄付する。
一つ屋根の下に親子3代が住むのはアメリカでもまれになっているが、ユダヤ人には
まず見られない。
老人ホームでさえ住人たちの金で運営されていると感じさせるような操作を行なって
いる。
ユダヤ人の老人ホームの資金の六五%は老人自身の金(ほとんどが彼らの社会保障
や公共年金など)である。


 今日老人ホームの環境をよくするいろんな試みがユダヤ人諸機関で行なわれている。
職業指導も行なわれている。
老人たちは働き読書し演劇をやることを奨励されている。
日中は外でパートタイムの仕事をすることや週末に親類知人を訪ねることも許されて
いる。
しかし子供に老人を引きとってもらい、再び家族の一員にするような運動はない。
そんな運動は子供たちにも老人白身にも反対されるに違いないからである。

 ユダヤ人の子供はたしかに過保護で幼児扱いを受けてスポイルされているが、同時
に子供の年齢ではできないようなことも容赦なく強いられもする。
親たちを一瞬ある取り扱い方に走らせる衝動を同じ衝動が、次の瞬間には反対の取り
扱いに走らせるのである。


 ユダヤ人にとって子供は自分の延長である。
このしろがねのひも(伝道の書)は切られることはない。
そんなことをしたら外界に対する家庭の力を弱めるからである。
だからユダヤ人の親は子供について頭を悩ますだけでなく、子供の業績に自分も一役買
ったように思う。
それは、子供ゆえの悩み……ツォーリスだけでなく、世間的な満足、好運……ナハスで
もある。


 父親が子供を自分の業界に引きこむのは、子供にすげらしい未来を用意してやるためだ
けではなく、自分の権威を強化したいからでもある。
従業員や競争相手に自分の子供をみせびらかして、自分の地位と能力をひけらかすのであ
る。
同じ理由で、母親も自分の子供の業績を噫面もなく自慢してのける。
「息子はねえ、お医者さまなんですよ」「娘はねえ、すてきな美人なんですよ」と自慢し
ては相手をうんざりさせる。
ローアー・イーストサイドでは、移民の婦人連の競争心はこういう形になって現われた。
スカーズデールやシェイカーでも大差はないのではないか。
「息子はねえ、お医者さまなんですよ」が「息子はねえ、原子物理学者なんですよ」に変
わっただけのことである。


このつづきは、8月13日(土)。